好きな人

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私が、狭い玄関でハイヒールを脱いで、しゃがんで向きを揃えていると、マネージャーが、ははは、と声を出して愉快そうに笑う。 何かおかしかっただろうか、と思って彼の顔を見上げると、「真面目だな、うたこは」と、よく聞くセリフが降って来た。 「お邪魔します」 「はいはい、どうぞ」 玄関を上がってすぐのところ、右横の壁には洗濯機があったので、そこに背中をピタリとくっつけて、マネージャーが先に部屋へと上がれるようにする。 はじめてやって来た人様の部屋に、勝手に自分からズカズカと上がり込むことはどうしても躊躇われたので、マネージャーが入って来るのをそうして待つ。 そんな私の頭を、ポンポンと撫でて、マネージャーは履いていた革靴を適当に脱ぐと、中からドアの鍵を閉めてこちらへとやって来た。 そこは三、四畳ほどの、フローリングの小さなキッチンのついている「少しばかり広い通り道」のようになっていて、ガスコンロやシンクのある左側の向かい側には扉が二つあった。 多分一つが脱衣所とバスルームで、もう一つはトイレなのだろう。 視線を真っ直ぐ先へとやると、開けっ放しになっている部屋のドアの向こうには、少し広めの部屋があるようだった。 キッチンの方は、全く使われている気配がなかった。 小さな一人暮らし用の冷蔵庫が置いてあり、マネージャーはその前にかがむと、コンビニで買って来た酒を仕舞う。 「あ、一本、飲みます」 「ああ、持ってくから、適当に座ってろ」 そう言われて、家主よりも先に、奥にある生活スペースであると思われる部屋に入っても良いものかと少しばかり悩んだが、酔っぱらってもいたし、疲れてもいたので、ありがたいお言葉として受け取ってその通りにすることにした。 奥の部屋は、八~八.五畳ほどの洋室になっていて、その先にある窓の外にはバルコニーが見えた。 私の部屋とは違って、ベッドではなくて敷布団が敷いてあって、部屋の端っこにピタリと四角い小さめなテーブルがくっついていた。 そのテーブルの脇には、一つだけ大きめの深緑色のクッションがある。 上にはノートパソコンや書類のようなもの、雑誌などが乱雑に置かれていて、それらを避けるようにして作られた少しのスペースに、灰皿と煙草、空のグラスが一つと、焼酎の瓶などがあった。 スーツやシャツの下がったハンガーが幾つか、布団の敷いてある方の壁につけられた壁掛けフックにかけられていて、少なく見える私服は窓の方に何着か重なって小さな山になっていた。 カーテンレールには、ピンチハンガーが下がっていて、靴下や下着が干してある。 私はとりあえず、そのテーブルの前の、深緑色のクッションのない方、窓の外が見える場所に向かって座る。 ぼんやりと外に目をやると、マネージャーがやって来るのを待つ。 なんだか、落ち着く。 人の部屋は落ち着く。 一人じゃないって感じがして落ち着く。 好きな人の部屋って、こんなに落ち着くんだ。
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