「会いたい」

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「会いたい」

朝焼けの終わった清々しい青に抱かれ、中村さんの吸っている煙草をすう、っと思いっきり吸ってみる。 私が普段吸っている煙草はメンソールではなかったので、はじめは、「のどが、からい」と思った。 ふう、っと紫煙をゆっくり零すと、スーっとした、冷たいような感じが、口内と鼻の奥に響く。 ふーん、なんて言って、吸っている最中は黙って、口からフィルターを離して指に挟んでいるだけの少しの間に鼻歌を歌う、なんて器用なことをやっていた。 物凄く機嫌が良かった。 そこへ、いつものスーツ姿とは違う、Tシャツとスウェット姿の中村さんがやって来て、閉まっていた残り半分の窓を開け、私の右側へと並ぶ。 彼は、私の指の間から煙草を奪って吸い始めると、「それ誰の歌だっけ」と聞いて来たので、私は「沢田知可子の、会いたい、って歌ですよ」と答えた。 灰皿を、中村さんの為に右手に持ち替えると、彼はそこにトントン、とそこへ灰を落とした。 「ああ、相手が死ぬ歌な」と言って、既に半分くらいの長さになってしまっていた煙草を、一気に灰へと変えてしまう。 私の分は、どうやらもうないらしい。 そうして、灰皿の窪みを埋めている山が、また少しばかり高くなる。 「中村さんは、何時に起きればいいんですか?」 「俺は寝なくてもいいけど、まあ昼くらいとか」 「出勤って何時なんですか」 「秘密」 「え。なんで」 「色々だから。その日で違うし、やることなかったら早く行くしな」 「じゃあ、今日は?」 「おまえは気にしなくていいから」 「だって、お店の鍵は、開けなくていいんですか?」 「部長も店長も持ってるからな」 そうなんだ、と思うのと、中村さん睡眠足りなさすぎでは?と言う突っ込みが頭の中に浮かぶ。 理由はなんとなく察しはついたし、私もそんなに寝る方ではないけれど、いくらなんでも寝なくても平気、と言うのはいかがなものか。 あまりにも睡眠をとらない状態で働いていたら、寝不足で仕事中に倒れたり、思考がストップしてしまったり、そういった不安要素だって出てくるのではないだろうか。 まさかの超人、の割には細すぎる。 でも、私のことをおんぶ出来るくらいだから、筋力はちゃんとあるのだろう。 私は中村さんのことが心配になる。 「寝て下さい、中村さん、今すぐに」 「俺、あんまり寝ないんだよ」 「私もそうですけど、でもやっぱ睡眠は大事ですよ」 「わかったから、ちゃんと寝るから」 「本当ですよ」 「うたこは何時に起きれば間に合いそうなんだ?」 「あ、そうだ、ここから店までどのくらいかかりますか?」 「化粧、どのくらいで終わるんだ」 「私、適当なので、15分くらいで終わるんですよね」 「じゃあ、18時でもいいくらいだな」 そう言うと、中村さんは私の右手の灰皿をひょいっと掴んで、そのまま背中を向けると部屋の中へと戻って行く。 沢田知可子の、「会いたい」を、メロディーだけ口ずさみながら。 私は少しだけバルコニーから見える景色を眺めて、多分中野駅からは少し歩くのであろう、あまり高い建物のない、広く見える空の中で、三階だとやっぱりちょっと違うなあ、なんて思いながら聴こえてくる旋律に合わせて歌詞をつけた。 「もしかして、タクシーで行った方が、近いですか?」 「そうだな、中野駅までちょっと歩くから」 スマホをいじって、多分アラームをかけているのであろう中村さんに声をかけると、やはり思った通りだった。 どちらが良いだろうか、まずここから歩いて中野駅まで行き、さらに中野駅から新宿駅まで中央線か何かで向かう。 そうして、そこからまた店のある歓楽街まで歩く、と言うのは正直とても面倒くさい。 「私、タクシーで行きます、今日」 「まあ、駅までの道わかんないだろうしな、そうしろ」 「中村さんはいつもそうしてるんですか?」 「いや、俺は歩いてる」 「そうなんだ、だからそんなに細いんだ」 「おまえだって細いだろ、ミサだって細いし」 私はただのエセ拒食症なだけだ。 中村さんは、テーブルの上に出しっぱなしにしてある、私のピルケースと心療内科で処方されている薬の粒の多さを見たはずだ。 でも、特に何も言ってこない、何も聞かれない。 うーん、きっと、メンヘラなキャバ嬢って多いのかも。 そんで、中村さんはこんなコなんて、見慣れているのかもしれない。 私も部屋の中へと入り、窓を閉めて鍵をかける。 「そういえば、なんでカーテンないんですか」 「面倒くさいからだな」 「外が見渡せて、開放感あっていいかもですね」 「うたこ、これ」 「はい?」 中村さんも、テーブルの近くにあるコンセントから伸びる、多分スマホの充電器だろう、そこにスマホを刺すと、残りの焼酎を瓶からグラスに流し込みながら私のことを呼んだ。 何、何、と言いながら側に寄っていって、さっきまでのように一つのクッションの上に座って、中村さんの顔を覗き込む。 彼は私の顔を見ずにグラスを傾けながら、何か握っているのか、拳をこちらに差し出した。 「出勤した時、返してくれたらいいから」 「なんですか」 「俺の方がはやく家出るから、鍵閉めてこいな」 「あ、はい」 「バレない時に渡せよ」 「…うん」 鍵だった。 中村さんの、部屋の鍵。 中村さんは、私が出した手のひらの上で拳を開くと、あまりにも簡単に、自分の部屋の鍵を寄越したのだった。
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