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店のやり方
中村さんが部屋を出る時に、私は彼のことを玄関まで見送る為について行った。
彼のTシャツを着て、素足で玄関まで行って、手を胸の辺りまで上げると控えめに左右に振る。
中村さんはそんな私の様子を見ると苦笑いをして、「客の送り方みたいだな」と言う。
私はムッとして、じゃあもう知らないからな、子供だからな私は、大人ぶるのなんて本当は無理なんだからな、と、ただの勢いで中村さんに抱き着いて、思いっきりつま先立ちしてなんとか届いた彼の唇にキスをする。
中村さんが、私の腰に手を回して少し上へと抱えてくれて、ちょこっとの時間だけお互いの熱を交換してから、ぺたん、と玄関のフローリングの方へと足の裏が落とされる。
「じゃあ、後でな、店で待ってるから」
「うん、今日も頑張ります」
「行ってくるわ」
「はーい!行ってらっしゃい」
そして、中村さんが玄関のドアを開けると、夕方に近くなって来て少しだけ和らいだ外の熱気がエアコンの効いた室内へと少しばかり潜り込んで来た。
彼の背中を見送って、ドアがそのものの重さで勝手に全て閉まって音を立てるまで、私はそこに立ち尽くしていた。
さて、今日も張り切って沢山ラインをしなくては。
黒猫の柄のマグカップを取りに行って、キッチンで水を入れると、すぐに布団のある方の部屋へ戻り深緑色のクッションに座ってスマホを弄り出す。
まだ16時にもなっていないので、今からでも営業をかけられる客はいるし、木村さんとは同伴の時間や待ち合わせ場所を決めなければならない。
とは言っても、木村さんと同伴する時は必ず木村さんの行きつけらしい、西武新宿線沿いにある駅から近い、小綺麗な居酒屋さんで食事をする、と決まっていた。
私は木村さんはじめ、何人かの客たちにラインを送り、返信が来たらそれに対してまた返信を返す。
出来れば店に来てくれるように、フリー客だった場合は私指名で来てもらえるように、そういう方向に話を持って行けるような内容を考えて、色々と考えながら文章を作って、繰り返し繰り返しやりとりをする。
木村さんとの待ち合わせの時間は駅に18時半、と決まったので、私は中村さんから借りていたTシャツを脱ぐと、昨日と同じ白いワンピースを着て、淡い薄手のピンクのジャケットを羽織った。
それから、脱いだTシャツを、とても大切な物であるかのように丁寧に畳んで、布団の乱れも直して、その上にそっと置く。
それから、借りていた黒猫柄のマグカップをキッチンのシンクで洗って、元あった場所へと戻しておいた。
その間にもラインが来たら返信を返し、部屋を出る前には化粧が崩れていないかどうかをチェックして、一度ヘアメイクをやる為に店に寄らなければならないので17時になる前には部屋を出た。
ハイヒールを履いて、玄関を出て外廊下から改めて中村さんの部屋のドアを見ていたら、なんとなく番号も覚えてしまう。
ああ、嫌だな、こういうところ、私にもあっただなんて、と、そんなことを考えながらスマホを取り出し、中村さんにヘアメをやる為に今から店へ向かうことをラインで伝える。
渡されていた鍵をバックから出して彼の部屋の鍵を閉めると、カツカツとヒールのカカトを鳴らして、なるべく背筋を伸ばして、明るい気持ちになるように元気よくエレベーターへ向かい、中村さんの部屋のあるマンションを出て行った。
マンションの下にあるコンビニで煙草とコーヒーを買うと、店員に「近くにタクシーを拾える道はありませんか?」と聞いた。
店員は親切に、ここからどのように歩いて行けば私の目指す場所に向かう車が通る、大きな通りへ出られるのかと、その大きな通りへ出る少し前の道でタクシーを止めることが出来る場所があると言うことを教えてくれた。
どうやら5分から10分ほど歩くだけで、タクシーに乗ることが出来そうだ。
私は店員に頭を下げ、「ありがとうございます」と言ってコンビニを出た。
タクシーを拾い、行先を告げてからそんなにかからずに私は店に着くことが出来た。
ヘアメのバイトをしているお姉さんたちは、本業は見習いの美容師だったり、美容師になる為の専門学校に通っている女性だったりする為、早く店に着きすぎた場合はまだ来ていないと言うこともあった。
タクシーの中で、中村さんに再度ラインをして「ヘアメさんいますか」と聞くと、すぐに「一人来てるから大丈夫」と返事が来たので、私はタクシーを降りて会計を済ませた後急いで店に向かった。
何せもう17時半を過ぎていたので、木村さんと約束をしている同伴の時間に間に合うかどうか微妙なところだった。
「おはようございまーす!」
店の自動ドアが開いた瞬間、勢いよくフロアへと飛び込み、大きな声で挨拶をしてそのままほぼ駆け足でヘアメをやってもらう部屋へと急ぐ。
中村さんが言っていた通り、ヘアメのお姉さんが一人居て、ヘアアイロンやヘアピンの準備をもう終えて、私がやって来るのを待っていてくれたようだった。
彼女は「すぐにできますよ」と言って私の焦りを少しばかり和らげてくれる。
鏡を前にして椅子に座ると「出来れば、めちゃくちゃはやめでお願いします!」と言って、スマホをカバンから取り出し、木村さんへラインを送る。
『今日は突然だったので、もしかしたら少し遅れてしまうかもしれません。その時は待たせてしまうかもしれないのですが、大丈夫ですか?本当にごめんなさい』
普段とは違い、可愛らしい絵文字を沢山つけることはせず、急いでいることがわかるようにと、そのままの簡素な文章を送る。
その間にも、私の長い髪はふんわりと柔らかに巻かれて、ハーフアップの形へと変化して行く。
私にあまり時間がないと言うことと、私が「キャバ嬢っぽい髪型」を好むと言うことを知っているヘアメさんは、なるべく時間のかからない、それでも華やかに見えるような、そんなヘアアレンジをしてくれた。
「終わりましたよ、間に合いそうですか?」
「本当にありがとうございます、多分いけると思います!」
ペコリとヘアメさんに頭を下げると、私は再び今来た道を引き返す為にカバンをひっつかみ、ヘアメをやる部屋を出て、出口へと急ぐ。
部長の前を通る際に一旦止まり、「おはようございます、同伴行って来ます!鍵いいですか?」と声をかける。
部長は「おはようございます、うたこさん」と私に言うと、ロッカーの鍵を取って渡してくれる。
部長は、私がNo上位入りを果たしてから、ほんのりと私に優しくなったような気がする。
ほんのりと、なので、確かにそうだったのか、と言われるとどうだかわからないのだが。
部長の場合は、誰に対しても本当に平等で、仕事が出来るキャストを特に贔屓したりだとか、全然客を持っていないキャストだからと言って無下に扱ったりだとか、そういったことが一切なかった。
やる気のなさすぎるキャストを注意することはあっても、どんなキャストでも使いようで店を上手く回すことが出来ると言う考えだったのだと思う。
正直に言うのもなんだが、第一前提として、ある程度の容姿とスタイルを要していないと面接には受からない場合のある店ではあったが、その中でも優劣はあった。
ただ、私の場合のように、容姿とスタイルはギリで受かっただけだった場合でも、ヘルプの仕事が上手かったり、気の利く、愛嬌のある、会話を弾ませることが出来るキャストであれば問題はない。
逆に、容姿にもスタイルにも恵まれていて、誰から見てもモデルや芸能人になれるのでは、と思わせられるようなキャストでも、客の扱いが下手だったり、性格、性質の問題で接客と言う仕事自体に向いていなかったりする場合は、クビか勝手に店を辞めるか、までの間のただのお飾り人形となる。
さらに、「どうして受かったの?」と言う容姿、スタイルを持ち、接客の素質のないキャストも一人二人はいたりした。
とても残酷なやり方だとは思うのだが、こういうキャストの場合、店にはじめて来たフリー客につけられたりする。
もちろんその客は、せっかくキャバクラに来たのに、他の卓には綺麗なキャストや可愛らしいキャストがついていて楽しそうにしているのに、と、ちょっとがっかりする。
そして、店側は頃合いを見計らって、綺麗な、もしくは可愛らしい「新人のキャスト」をつけたりするのだ。
そうすると、一度がっかりした客は、やってきた新人の、綺麗な、あるいは可愛らしいキャストに、場内を入れる確率が高くなったりする。
「新人のキャスト」には、早めに「馴染みの客」を作ってやらなければならない。
このやり方はそのきっかけ、になるのだ。
そんな、キャストのことを多分人間性無視で商売をしていると思われる部長が、ほんのりと私に優しいと言うのは、なかなかに嬉しいことだった。
部長から受け取ったロッカーの鍵をカバンの中から化粧ポーチを取り出して仕舞うと、ヘアメの代金を支払って「部長、行ってきます!」と元気よく笑顔で声を出す。
部長はやっぱりほんのりと微笑んでくれているような、そんな表情で、「今月も、うたこさんはNoに入れますよ」と言う。
その言葉で、今の時点でも、どうやら既にNo10位以内には入れているらしいと言うことがわかる。
「22時までには出勤しますね!」
そう言って、店を出る前、最後にフロアを振り返って中村さん、つまりマネージャーの姿を一瞬探したけれど、見つけることは出来なかった。
…心細いような、寂しいような、気持ち。
それでも私は、行かなければならないのだ。
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