断れない性格

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断れない性格

店から西武新宿駅まで猛ダッシュして、切符を購入するとホームへと再び走る。 そこには拝島行の西武新宿線の電車が停車していて、もうまさに今出るところ、と言う感じだった。 夜のこの時間だ、それなりに混んでいたので躊躇ったが、仕方ない乗るしかない、と私はその電車の中へと駆け込んだ。 暑い、もう夜とは言え夏は夏だ。 その中を猛ダッシュして来たのだから、汗をかいてしまった。 化粧が崩れていないか、せっかくヘアメさんに整えてもらった髪型は大丈夫だろうか、額に前髪がべったりとくっついてしまっていないだろうか。 色々と気になったが、電車の中で化粧を直すと言うことが、私にはどうしても出来なかった。 私自身は他人がそれをしていても全く気にはならないが、自分がそれをしていたら「化粧しようがしなかろうがおまえの顔なんて誰も見てねえよ」と思われるのではないかと言う、ただの自意識過剰な理由からだった。 西武新宿駅から目的の駅までは20分くらいだったと思うのだが、ちょっと記憶があやふやなので合っているかわからない。 電車のドアが閉まるのを見届けると、スマホを取り出して時間を確認する。 良かった、18時半にはギリギリ間に合うはず、と思われる時間であった。 私は木村さんにラインをすると、ハンカチを使って額の汗だけをポンポンと軽く叩いてファンデが落ちていないかだけ確認をした。 『ご心配おかけしました。時間には間に合いそうです!木村さんは、先にお店に入って、ゆっくりしていて下さいね』 今度は絵文字をつけた文章にして送って、「よろしくお願いします」の、可愛らしいキャラクターのスタンプを付け足した。 するとすぐにスマホが振動し、木村さんからの返信を知らせる。 『うたこ、今日は急で悪かった。ゆっくり来ても大丈夫』 その、大丈夫、の後に、ニコニコ笑顔の顔の絵文字がついていた。 木村さんは、今までの私とのラインのやりとりで、絵文字を使ったことは一度もなかったはずだ。 私は思わずふ、っと微笑んでしまう。 いつもの、優しい木村さんじゃないか、と思って安心をした。 きっと待ち合わせ時間に遅れてしまいそうで、申し訳ない気持ちで自分の元へと向かっているであろう私に気を遣って、使い慣れない絵文字を使ったのだろう。 どれを付けたら良いのか迷って、急かさないように、怒ってない、と伝わるよう、きっと一生懸命考えて、このピンクのニコニコの顔を選んでくれたのだろう。 マネージャーは、木村さんと、つまりヤクザとはあまり同伴するなと言ったけれど、私にとってはとても良い人だし、怖いと思ったことなんて一度もなかった。 映画が好きで、その日見たどういった景色や些細な瞬間が美しかっただとか、そんなことを話す木村さんは、繊細で優しくて穏やかな人だと思っていた。 でも、マネージャーが言うのだから、何か気をつけなければならないところがある人だと言うことなのだろうな、とも思う。 気をつける、か。 でも私はまだ、木村さんから何かをされたわけではないし、危険を感じたこともない。 マネージャーってば、ヒントくらい、くれたっていいのに。 そんなことを考えている間に電車が無事に駅へと着いたので、ホームへ降りると切符を通して改札口を出る。 木村さんと待ち合わせをしている居酒屋に向かって歩きながら、『もう着きますね』とラインを入れると、一度立ち止まって人の邪魔にならないように脇に避けて鏡を出すと化粧が落ちていないか確かめる。 よし、大丈夫だ、いつもの「うたこ」がそこにはいる。 そうして、気合いを入れ直して、もちろん中村さんからの忠告も念頭に置いて、私は木村さんの待つ居酒屋へと改めて向かう。 「こんばんはー!!」 大きなお店ではないけれど、とても小綺麗で清潔感のある、天井や壁やカウンターなどの内装のほとんどが柔らかな淡い橙色の木で構成されているその居酒屋さんは、実はちょっとばかりお料理のお値段が高かったり、珍しいお酒を置いていたりする。 私は木村さんと共に既に何度も訪れているので、元気な声で挨拶をしながら、お店の雰囲気を壊さない和風の仕様になっている引き戸式のドアを開ける。 「うたこさん、いらっしゃい」 「いらっしゃいませ」 「お疲れ様ですー」 その居酒屋の店長がにこやかにカウンターの中から私に向かって挨拶を返してくれると、店長の奥さんも、店員もそれぞれ返事をしてくれる。 私は精一杯の笑顔を作って、店内に踏み込んで、木村さんの姿を探す。 木村さんはいつもスーツ姿だったが、スーツ姿のサラリーマンにしては違和感ありありなスキンヘッドなのですぐに見つけ出すことが出来る。 居酒屋にしては少々お高めな店だからか、客は疎らだった。 客層はだいたいが一人か二人組で訪れる場合が多い、美味しくて繊細な見た目の美しい料理や、珍しいお酒を楽しむ為に来ているような人達ばかり、と言ったような印象の店だった。 「木村さん、お待たせしました。すみません、お疲れ様です!」 店の端っこにある四人掛けのテーブル席で、私には背中を向ける形で座っている木村さんを見つけると、足早に駆け寄ってその肩にぽん、と手で触れた。 多分私の先ほどの挨拶も聞こえていただろうし、店長たち「うたこさん」と言ったので、私が来たことはわかっただろう。 けれど、こちらを向いていつものように「おお、来たのか」とか「そんなに待ってないから大丈夫だ」とか、声をかけてはくれなかった。 もしかして、やはり少しばかり不機嫌にさせてしまったのだろうか、と心の中で焦ってしまう。 「うたこ、急で悪かったな、座ってくれ」 「…はい!ありがとうございます。木村さん、どうかしたんですか?木村さんから、あんなにお願いするなんて、何かあったのかな、って、私心配してました」 ご機嫌伺いとその回復につとめるべく、たくさんの「心配していた素振り」を込めた言葉たちを、椅子に腰かけている間に一気にまくしたてる。 隣の誰も座らない椅子にカバンを置くと、向かい側に座っている木村さんのことを不安そうに見つめる。 テーブルの脇には空になったビールの大きなジョッキが二つ置いてあり、木村さんの目の前には、もっきり、つまり升の中にグラスが入っており、そこになみなみと日本酒が注いであるもの、それとお刺身が並んでいるけれど、どうやら酒にしか口をつけていないように見えた。 「…悪いな、今日、うたこが約束を断った友達には、俺から場内を入れるか」 「そんなそんな、大丈夫ですよ、気にしてませんでしたから」 だってそんなのは嘘だし。 一緒に夕食を食べようと約束をしていた友達なんて実際にはいやしない。 木村さんからの同伴のお願いを断る為に、一度ついた嘘なだけなのだから。 アホで色ボケしていた私が、中村さんの部屋で少しだけでも長い時間を過ごしていたかったと言う、ただそれだけの気持ちからついた嘘だ。 ついでに言うならば、マネージャーが「ヤクザと同伴はやめておけ」と言ったから。 だから断る為についた嘘であって、木村さんが謝罪すべき相手などはじめからいないのだ。 とりあえず、ちょっと同伴の時点で結構飲んでいる木村さんが珍しいので、何かあったのかな?とは思い、なるべく気に障るようなことを言わないよう気をつけながら次に発される言葉を待つ。 「うたこも、飲むか?日本酒はあまり飲まないか?珍しいやつで、そこそこ美味いよ」 「そうなんですか?じゃあ、頂きます。木村さんが勧めて下さるものって、外れたこと一度もないですから」 「それは、きっと俺とうたこが似ているものが好きなんだな」 「そうかもしれないですね、木村さんがこの間お話して下さった映画も観ましたよ」 「そうか!うたこはどうだった?…あ、ちょっと待ってろ、注文だけするからな」 「はい!あの監督さんの映画は、どれも木村さんが好きそうな雰囲気のお話が多いですね」 木村さんが私の為に、自分の飲んでいる物と同じ日本酒を店員に頼んでいる間、私は話を弾ませなければ、なんとなくいつもとノリが違うような気がする木村さんを元に戻さなければ、と、色々と彼の喜びそうな話題を振った。 『うたは、断れないやつだろ』 マネージャーの言葉を思い出す。 そうです、マネージャー、あなたの言う通り、私は断れない女です。 日本酒は酔っぱらってしまうので、あまり飲まない方が良いだろうと言うことはわかっていた。 けれど、私にはやはり、木村さんからの勧めを断ることは出来そうにもなかった。 今日の私がどうなってしまうのか、予想したくない、それでも飲むしかない。 私に出来ることは、数少ないのだから。
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