やくざの客

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やくざの客

「そうなんだよ、俺あの監督の映画ほとんど観てるんだよ。うたこも気に入ったのか、いつか一緒に映画館に観に行きたいな」 「そうですね!木村さんとご一緒ならば、楽しさも倍増します、私」 「うたこは、今、幾つだ」 「19歳ですよ、あと半年ほどで20歳になります」 「そうか…」 「どうか、しましたか?」 一瞬話は盛り上がったように感じたのだが、年齢を聞かれ素直に本当のことを答えると、木村さんは少しばかり俯いて何かを考え込みはじめる。 マネージャーが言っていた、木村さんは私のことが好きだと。 好かれているのはわかる。 けれどそれは、沢山いる「キャバ嬢たちの中のオキニ」ってやつ程度のものだと私は思っていたのだ。 「そうか、うたこはまだ19歳か、俺は38なんだよ」 「そうだったんですか?ずいぶんと、お若く見えるのでわかりませんでした」 「そうか?感覚が、若いのかもしれないな」 「はい、お話も合うので、私は年の差を感じたことはないですよ」 そう言って、ニコっと自分に出来る最上の「無邪気な笑顔」を作って見せる。 すると、やっとで木村さんがいつもと同じように、穏やかな笑顔を浮かべ、少し照れたように、わざとらしくゆっくりと日本酒の入ったグラスを口につけて飲みだした。 とりあえず、何かの危機を脱したかのような気分になり、ホッとした時、私の分の日本酒を店の店長が運んで来て、私の前へとそっと置いた。 「うたこさん、この日本酒の説明を聞くかい」 「あ、ありがとうございます」 「店長、俺のやることをとるなよ」 「ははは、すみません、木村さん、じゃあ木村さんから聞くといい」 「そうですね、店長さん、ありがとうございます」 私の目の前で、店長が自らその日本酒をグラスに注ぐと、それは升へと溢れ出す。 なんだかその様子は、たっぷりとした透き通る真冬の空気のような色をしていて、私は少しだけ故郷の雪の降る真昼の午後を思い出した。 自分はあまりにも遠くへ来てしまったような気がしてしまい、郷愁の思いから切なくなる前に、全てを忘れてしまおうと、店長が一礼して去っていった後ですぐに升を両手で持ち上げると、零さないように唇をグラスにつけて二口ほど上澄みの部分を吸って飲み下した。 「ははは、うたこ、飲み方を教えるよ」 「え、飲み方とか、あるんですか」 「あるんだ。グラスの中身を少し升の中にうつして、零れない量にしてから、グラスからはじめに飲むんだ」 「そうなんだ、恥ずかしい、私あまり日本酒は飲まないので」 「誰にでも知らないことはあるからな、俺が教えてやるよ」 「ふふ、ありがとうございます。美味しいですね、この日本酒」 俺が教えてやるよ、か。 マネージャーが言っていたっけ。 知らなくていいこともあるって。 それを、木村さんが私に教えるって言うこと? そのことを、マネージャーはあまり良く思ってないってことなのかな? 木村さんは良い人だけれどヤクザで、私のことがオキニで、もしかしたらそれ以上で、つまり好きで、何かが起こった時には逃げろ、連絡して来いとまで言っていた。 でも、目の前で楽しそうに酒を飲みながら、その日本酒の銘柄の特徴や味なんかの説明をしてくれている木村さんは、何だか悪いことなんて何もしそうにない人のように思える。 「刺身食うか、うたこ。あと、くじらがあるぞ、今日は」 「くじらですか?」 「そうだ、くじらの刺身があるんだ、ここは」 「えええ!くじらって食べていいんですか」 「知らなかったのか、くじらも食えるんだ、美味いぞ」 「えっと、じゃあ、試してみようかな」 くじらの生肉を、正直私は食べたいとは思わなかった。 だってくじらだ、くじらって哺乳類ではなかっただろうか。 私はそもそも海の生き物の中では、マグロの刺身しか食べることが出来ない。 哺乳類の肉をどうしても食べなければならないのであれば、まだ焼肉へ行き、牛の肉を食べる方がマシなのだが。 超偏食であり、滅多に食べ物を口にしない私ではあったが、同伴やアフターではなるべく客から勧められたものは食すようにしていた。 その後で、頃合いを見計らってトイレで嘔吐するのだが。 「店長―!くじらだ、くじら頼む。あと、この酒を、あと二つ」 「…良かった、木村さん、ちゃんといつもの明るい木村さんですね」 私はどうやらこれからくじらを食べなければならないらしかったので、酔った勢いで口に放り込み、あまり味わうことなく飲み込むことが出来るようにしなければ、と思った。 木村さんには笑顔で愛想の良いことを言いながら、自分の日本酒のグラスを何口かに分けて、それでもなるべく早めに空にした。 「なんだ、心配かけたな、うたこ。俺でも緊張することがあるんだ」 「緊張しているんですか?」 「ああ、まあな。あ、うたこ、升に残った日本酒はグラスに注いで飲むか、そのまま升から飲むか、どっちか好きな方を選ぶんだ」 「この中のも飲んでいいんですね、へー!知らなかったです」 グラスにうつすのが面倒だったのと、くじらが来てしまうかもしれない、と言う焦りから、私は升を両手で包み込んで傾けると、ゴクゴクと一気に飲み干す。 喉が熱くなり、肺のある辺りを酒が通り過ぎて行くのがダイレクトに伝わってくる。 ああ、鼻の骨がじんじんとする。 せっかくの、きっと珍しくてそれなりのお値段であろう日本酒ではあるのだろうが、くじらを食べる為だ。 大切に味わっている場合ではないのだ。 「本当に酒が好きだな、うたこは」 「どうなんでしょう?私は木村さんみたいな、大人な飲み方が出来ないので…じっくり味を感じて楽しんだり、香りや風味を覚えたりもできないですし、銘柄のことなんて何一つわからないです」 「それはこれから知っていけばいいんだ、俺が教えてやるから、うたこ」 「もっと、大人の女性になれたら、きっと違うと思うんですけどね」 「大人の女も色々だ。うたこはどんな大人になるんだろうな」 「ふふ、今のところ、想像もつかないです」 相変わらずバカをやっているのではないだろうか、と思うと面白そうな、お先真っ暗なような、不思議な気分になる。 そうして、私の体内に日本酒のアルコールが浸透して来た頃に、二杯目の日本酒と、くじらの刺身がやって来て、テーブルの上へと並べられた。 これがくじらの生肉か、とまじまじと見てしまう。 真っ赤だった。とにかく真っ赤だ。 なんだか焼かれる前の焼肉のような色をしているな、となんの情緒も感じない感想が頭に浮かぶ。 いや、哺乳類の生肉なのだから、それで正しいのかもしれないが。 「どうする、うたこは何かつけるか」 「何かつけるものがあるんですか?お刺身だから醤油ですか?」 「そうだな、薬味もあるけど、ここはにんにく醤油だな」 「あ、えっと、お店があるので、にんにくはちょっと」 だから、いっそ全体的に食べたくないです。 とは言えないので、醤油だけつけて食べることにしよう、と決めて箸を持つと、木村さんが醤油皿に醤油を入れて私の前に置いてくれる。 そうやって、何かと甲斐甲斐しく私の世話を焼く木村さん、やっぱり悪い人には見えないのだけれど。 「そうだったな、アフターだと、もうこの店は閉まっちまうから」 「木村さんは、このお店がお気に入りですもんね」 「そうだな、好きなんだよこの店」 元々一重で切れ長な木村さんの目が、さらに細められる。 もしかして、ヤクザだから入れてもらえない店とか、歓迎してもらえない店とかがあったりするのだろうか? この店の店長や奥さんは、木村さんと仲良しで、たまにカウンターでお喋りをしながら、同伴する為にやってくる私のことを待っている時もある。 職業で人を差別したり、偏見を持ったりせず、どんな客にも分け隔てなく接する店長、奥さん、そういう人たちのことが、木村さんは好きなのではないかな、なんて思った。 私も、そんなこの店が、もちろん大好きだ。
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