贈り物

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「じゃあ、頂きますね、くじらってどんな味なんだろう」 「美味いよ、うたこも気に入るよ」 マジだろうか。多分無理みが強い。 そもそも好きな食べ物などこの世に存在しない私にとって、何かを食すと言う行為は苦痛でしかなかった。 それでも微笑んで私を見守っている木村さんを見たら、食べられませんとはどうしても言い出せない。 私は箸でくじらの刺身を一切れ挟むと、醤油をつけてから口へと持って行く。 一口ずつ口に入れて噛み切るのは嫌だったので、丸ごと口内へと押し込んだ。 …木村さん、店長さん、本当に申し訳ないのだけれど。 私にとっては、味よりも何よりもまず、歯ごたえがリアルな生の獣のやわらかすぎる部分をブシュっと潰す感覚で、本当に無理です。 味は、正直よくわからないけれど、なんだろう、トロに似ているような? 私は餌付きそうになるのを必死でこらえて笑顔を作り、二口だけ噛むと、舌で食道の入り口へとくじらを追いやった。 ほぼ丸のみをしたので、それが胃に辿り着くまでの間、少しばかり苦しかった。 「木村さんも食べて下さいね。本当ですね、美味しい」 涙目だった。 吐きそう。吐きたい。具合いが、悪い。 けれど、食べてすぐにお手洗いへ、と席を立つのはさすがに良くないだろう。 私はなんとか日本酒を二口、三口飲むと、早くこれがくじらであって、私はそれを食した、と言う事実を記憶から抹消してしまおうと決めた。 木村さんは嬉しそうに頷くと、自分も箸を取り、くじらの刺身を美味しそうに食べだした。 どうぞ全部、お食べになって下さい。 「うたこは少食だからな、時々心配になるんだ」 「家で食べてから出勤したりするので。でも、お会いする約束のある日は食べないですよ」 「酒ばかり飲むだろう、うたこは」 「そうですね、食べ物よりも、お酒の方が好きなのかもしれないです」 「じゃあ、次は店長に頼んでうたこが好きそうな酒を仕入れてもらうか」 「わあ!嬉しいです、楽しみにしていますね」 家でなんて何も食べていないし、酒も別に好きなわけではない。 ただ私は仕事だから酒を飲んでいたのだ。 そうしたら、どういうわけだか、家でも酒しか飲まなくなってしまった。 ただ、この年の頃はまだ、酒を飲むのは出勤して客がドリンクを頼んでくれてからだった。 別に寝起きから飲んだり、出勤前に同伴でもないのに一人で飲んだり、そういったことはしなかった。 19歳の私は「まだ」この時はメンヘラなだけで、一応は大丈夫だったのだ。 木村さんはすっかり本来の私が知る木村さんになっていて、何も変わらないように感じていた。 今日ははじめ、少し様子がおかしかったけれど、仕事で何か困ったことや悩むようなことがあったのかもしれない。 けれど仕事柄、私のことを巻き込むわけにはいかないと思ってたのだろうし、一般人に話せるような内容でもないのかもしれない。 日本酒を飲みながら、二人で笑い合って、時には真面目に語り合って、時間はあっという間に過ぎて行く。 「お、もうそろそろ出ないとな」 「あ、つい夢中でお話してしまって、時間を忘れちゃっていました」 「そりゃあ、よかったよ、楽しかったか、うたこ」 「はい、木村さんとのお話はいつも楽しいですよ」 嘘、嘘、嘘ばかりだ。時間なんてめちゃくちゃ気にしていた。 私は結局くじらの刺身を二切れ食べる羽目になり、それを胃へと流し込む為に日本酒を五杯ほど飲まざるを得なかった。 木村さんが自分のクラッチバックを手に持つのがわかったので、私もフラつかないように気をつけながらテーブルに手をつき立ち上がる。 私もバックを腕にかけると、お会計をしに行く木村さんに、化粧を直して来ます、と伝えトイレへ行く。 吐こうとした。でも、出すことが出来ない。 日本酒は途中までは上がってくるが、あまりにも喉がビリビリと痛んで、声が潰れてしまっては仕事にならない、と思うと、出すことが出来なかった。 仕方ない、酔ったまま店に向かうか。 マネージャーに呆れられてしまうかもしれない、と思うと少しばかり気が滅入ったが、メソメソいじいじしていても仕方がない。 トイレの鏡に映る自分は、頬が真っ赤に染まっていて、目も潤んでいて、あからさまに酔ってます!と言った感じだ。 まあ、生きていればこういう日だってあるだろう。 カバンからスマホを取り出すと、時間とラインを確認して、来店してくれそうな客からのラインにのみ返信をする。 時間の方はまだ余裕があり、ちゃんと22時前には同伴出勤が出来そうだった。 よし、行かなければ、木村さんが待っている。 何より、店ではマネージャーが待っている。 そう思えば、私は、頑張れる。 「うたこ、ちょっと待っててくれるか」 「はい、なんでしょう?」 会計を済ませた木村さんは、店のカウンターの席に座って私のことを待っていた。 私が側に行き、お待たせしました、と言うと木村さんは私に自分の座っていたカウンターの席を譲り、自分は立ち上がる。 何が何やらわからずにとにかく言われた通りしばらく待っていると、木村さんはカウンターの中にいる店長から何かを受け取って、再びこちらへとやって来た。 その木村さんが手にしていたのは、大きな大きな真っ赤な薔薇の花束だった。 それを、私が座っている席の横に立って、私へ向かってずい、っと両手で握って渡して来る。 そうか、私が店に訪れる前にこの薔薇の花束を持って店に来ていて、今まで店長に預けてカウンター内の見えないところへと隠していたのか。 今日、木村さんの方からいきなり同伴を無理にお願いして来た理由と、何故薔薇の花束を渡す事にしたのかと言う理由はよくわからないが、私はこれをどうすれば良いのだろうか。 「うたこ、もらってくれるか」 「…あ、はい、どうも」 呆気に取られて、それでも無下にするわけにも行かず、私は結局、その薔薇の花束を受け取ることしか出来なかった。 生まれてはじめて、薔薇の花束と言うやつを貰ってしまった。 しかも、結構太客で、なかなかに馴染みで、でもヤクザで、それでも私の前では良識があって優しくて人の良い木村さんからだ。 受け取る以外、どうしろと言うのだ。 「俺と付き合ってくれないか、うたこ」 「ええ!!!!!!」 「俺のことが、嫌いか」 「いえ、嫌いと思ったことは今まで一度もありませんよ」 「じゃあ、試しでもいい、付き合ってみてくれないか」 「そんな、好きでいてくれる人の心を無視して、試すなんてこと、私は出来ません」 「…うたこは、本当に、今までの女たちとは違うな」 木村さんはそう言うと、寂しそうに口角を上げた。 さては、あの、木村さん、今までの女って、全員キャバクラ嬢なのではありませんか、と聞きたかった。 多分そうなのであろう、となんとなく思っていた。 いっぱしのキャバ嬢だったならば、ヤクザの太客から付き合ってくれと言われたらどう答えるのが正解なのだろう。 私にはわからない。 わからなかったから、思ったまんまそのままを答えた。 「木村さん、お気持ちはとても嬉しいです。でも私、まだ学校があるし、仕事が」 「ああ、わかってる、返事は今すぐじゃなくていい」 「年齢も、離れていますし…私は子供だから、木村さんには見合わないかも」 「そんなことない、うたこはいい女だ」 「…ありがとうございます。考えさせて下さい」 「いい方の、返事を待ってるよ」 もちろん私は学校になんて通っていないし、昼間のバイトがあると言うのだって嘘だ。 学校の学費や家賃を支払う為に夜はキャバクラで働いていると言うのも嘘だし、木村さんと気が合うと言うのだって嘘だ。 全部全部嘘だ。 嘘で、フリをして、好かれるように演技をして、そんな本当はこの世にはいない「うたこ」を、木村さんは好きになったのだろう。 きっと今までの女、つまりキャバ嬢のキャストの子たちと、全く同じように、まんまと騙されて。 そして私はまた、そんなことを彼に、繰り返させてしまうの?
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