今までと違う

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今までと違う

「綺麗な薔薇ですね、でも家は狭いから、活けるところがあるかな」 「それなら、店に飾ってもらってもいいんじゃないか」 「そうですね、部長に聞いてみます」 「俺がうたこのことを好きなことは、何も恥ずかしいことじゃないからな」 「他の女の子に、きっと羨ましがられますね」 それはまずないだろう。 「うたこちゃん、マジww」とからかわれるだけだと言うことはわかっている。 けれど、木村さんの精一杯の想いを、気持ちを、私は汲むこと以外出来ない。 応えられないのだから、せめてその分、私や店に貢献してくれる客でいてくれる分は、まごころを持って接することで、少しでも満たしてあげなければならないと思う。 「電車で行くと、花が散るかもしれないから、タクシーで行こう」 「そうですね、もったいないですもんね」 良かった。 くじらの刺身に引き続き、とてつもなく申し訳ないことだが、真っ赤な大輪の薔薇の花束を胸に抱えて電車に乗る勇気は、まだ今の私にはなかった。 私たちは、「ご馳走様でした」と言ってそのいつもの居酒屋を出ると、タクシーを拾う為に駅へと向かって歩き出す。 ありがたいことに酔いがさめたような気分だった。 しかしそれは気分だけで、足元はおぼつかなかったので、なるべく気をつけながら真っ直ぐ進む。 木村さんに、色恋営業は不要だ。 わざわざ腕を組む必要も、手を繋ぐ必要もないのだから、ただ酔ってしまったからと言ってしなだれかかるのは嫌だった。 『…うたこは、本当に、今までの女たちとは違うな』 のんびり私の一歩前を行く木村さんを追いながら、私はさっき言われた言葉を頭の中で反芻していた。 こりゃあしまったな、と思っていた。 私は、マネージャーに対して、つい昨日、いや今日か、「今までの男と違う」と思ったばかりだったような気がする。 なるほど、今の私はまるでこの木村さんのような状態なのであろう。 それは非常にまずいな、と、困ったことになったな、とそう思っていた。 木村さんの様子を見て、こんな風になってしまっているのか私は、と、一瞬だけ自分の状態を客観視できた。 でも目は覚めない。頭も冷めない。胸の熱も冷めたりしない。なんだこれ。 一体どうしろと言うのだ。 お手上げじゃないか。 私は早々に白旗を掲げるしかしないのだった。 私には、今まで夢中になった男性がいなかった。 だから、その後のことなんて予想もつかなかったので、今まで触れて来た恋愛小説やドラマや映画の、出来れば悲恋モノの中から、なんとなく想像して推測することしか出来ない。 そうするとアレだ、別れたり、なんとなく会わなくなったりして数年経ったら、子供だった自分の恋愛を思い出して懐かしみ、ほんのり切なくなったり、そんな風に感じる、と言うのが定番だ。 つまり、私も例に漏れず、そう言う噛みしめ方をする事になるのだろう。 だったらまあ、思いっきり面白くて、ありきたりな、そんな思い出であった方が良いような気がする。 せいぜい楽しむとしよう、必死こいて、バカを見ることにしよう。 よし、吹っ切れた、と俯いていた顔をあげると、既に駅前に停まっているタクシーの前で待っている木村さんの元へ駆け寄って、微笑みかける。 なんだか木村さんの気持ちがわかるような気がして、私がマネージャーにそうして欲しかった、とずっと思っていたことをすれば良いのだな、とわかった為だ。 木村さんは、自分の用意した真っ赤な薔薇の花束を両腕で抱える私が嬉しそうに笑顔を浮かべている様子を見ると、気恥ずかしそうにぎこちなく口角を上げた。 二人でタクシーに乗り込むと、木村さんが運転手に店の近くまでの行先を告げる。 私は、マネージャーから「連絡しろ」と言われていたことを思い出し、木村さんに「ちょっと失礼しますね」と一言断りを入れてから、今から木村さんと共に店に向かうと言う内容のラインを送る。 そして、タクシーのシートに寄りかかると、ふう、と一息つく。 隣に座っている木村さんが、少し心配そうな声音で話しかけてくる。 「うたこ、酔ったか」 「すみません、歩くのが遅かったのは、薔薇に見惚れてたんです」 「そうか、良かったよ、若い女が喜ぶもんが、俺はわからなくてな」 「じゅうぶんですよ、嬉しかったです」 私はブランド物に全く興味がない。 なので、たまに指名客が何かを買ってやろう、プレゼントをしたい、とブランド物の店へと連れて行ってくれたとしても、正直何を選んだら良いのかわからないことが多かった。 とりあえず見た目が好みだったものを選んだりはしていたが、流行りや、キャバ嬢だったらこういうものを好む、と言うのもイマイチわからなくて、疎かった。 薔薇の花束でも、ブランド物のバックでも、雑貨屋で売っている髪飾りでも、私にとったらだいたいその価値は同じで、「贈り物をくれる、プレゼントをしてくれる」と言う、理由や、気持ちの方を考えて対応するなり、喜ぶ演技なりをしていた。 「うたこが好きな物はなんだ、欲しいものとか」 「好きな物ですか?欲しいもの…うーん」 「何か、ないのか」 「そうですね、私が欲しい物って、物じゃなかったりするので」 「例えば、どういうやつだ」 「楽しい時間とか、面白いこととか、幸せだなって思える、小さな事柄だとか」 「うたこは、欲がないな」 「そうですか?贅沢モノだと思いますよ」 今まで色々な話を聞いて来て、どんな映画や音楽が好きかを知っていたので、木村さんはロマンチストだな、とは思っていたが、本当にベタなロマンチストなのだなと思った。 さすがに告白と共に薔薇の花束を贈られるとは思っていなかったので多少はビックリしたが、そういう人もまあいるだろう、とそれくらいのことだ。 ねーよ、とは全く思わなかった。 「そろそろ着くな、今日は祝いの日だからなんでも頼め」 「お祝いなんですか?」 「ああ、今日、だからうたこに会いたいと言ったんだ」 「そうなんですね、木村さんにいいことがあったのなら、私も嬉しいですよ」 「そうやって、聞かないところが、うたこはいい」 「だって、何か大切なことを、邪魔をしてしまったら嫌ですからね」 私がそう言うと、木村さんはとても満足そうに腕を組んで首を縦に振る。 そうして、店の近くにタクシーを停めてもらうと、二人で並んで歩き出す。 私が大輪の赤い薔薇の花束を抱えて歩いていても、誰も気にとめることなどない道を少しばかり足早に進む。 私は何も考えなくていい、ヤクザの仕事も役職も知らないし、ヤクザがお祝いをしたくなるような良い出来事と言うのにも全く心当たりはないし、考えもつかない。 ヤクザである木村さんが、思わず好きな女に薔薇を贈って告白をしたくなるような、そんな出来事には、一切興味がなかった。 それよりもNo上位をキープすること、それがその時の私の全てだった。 私が、自分自身の存在価値を認められる、ちゃんと生きている価値があると感じられる、マネージャーに気に入っていてもらえる、その立場を守ることこそが、今一番大切なことだった。 店に着くと、まずは部長のところに二人で行って、木村さんから薔薇の花束を頂いたことを伝え、自室は狭く、置いておくスペースがないから、フロアのどこかに活けて飾ってもらうことは出来ないか、とお願いをしてみた。 部長は、木村さんと私に作り笑顔を向け、「良かったですね、うたこさん」と言うと、飾る場所と活ける為の花瓶は明日にでも用意するから、とりあえず一旦預かります、と答え、私に早く着替えてくるようにと指示をした。 「後でな、うたこ」 「はい、少し待っていて下さいね」 マネージャーがやって来て、木村さんを空いている卓へと案内する。 私は急いでロッカールームへ向かうと、化粧ポーチからロッカーの鍵を出して開け、すぐにドレスに着替える。 その時、化粧ポーチの中に、もう一つ鍵が入っていることに気づいて少し慌てる。 そうだ、マネージャーの、部屋の鍵。 いつ、渡せるだろう? 誰にもバレないように渡さなければならないが、木村さんは今日はお祝いで何を頼んでも良いと言ってくれた。 もちろんシャンパンを頼むし、それを飲みきったら、また同じように頼むだろう。 今の時点で、既に私は日本酒を飲んで酔っていて、この後他の種類の酒をちゃんぽんするのだ。 渡すならば、まだ正気である内でないと、バレるようなタイミングで、周りに誰かいるかどうかなど気づけずに鍵を渡し、大変なことになってしまうかもしれない。 とりあえず、化粧ポーチの中には入れておいて、トイレに立った時にマネージャーが気づいて、貰いに来てくれることを願うしかないだろうか。 既に22時で店はそれなりに混んでいて、マネージャーも忙しそうだ。 何より、木村さんは多分、ラストまでいるだろう。 今日は、なんだかそんな気がする。 他の指名客にだって営業をかけたのだから、これから数人は被るだろう。 いつ、鍵を渡せる瞬間が訪れるだろうか、予想が出来ない。 私はスマホを取り出すと、マネージャーにラインを打つ。 『部屋の鍵は化粧ポーチに入れてあるので、私が一人になった時に出来れば声をかけて下さい。少し酔っているので、周りに気を配れないかもしれないです』 と、そんな風に、出来ればマネージャーの方で人に気づかれないように、周りを気にしてもらえるように。 そうして私は、何名か来店してくれそうな客からのラインにだけ返信をして、化粧ポーチの中にスマホを仕舞い、木村さんが待つ卓へと急いだ。
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