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愛を知らない
その日は、私が思った通り、木村さんはラストまで店に居てくれた。
結構値段が高めのシャンパンを入れてくれて、珍しく饒舌になり、私に自分の思いの丈を語ってくれた。
正直愛が重たいくらいだったのと、私と言う人間をとてつもなく美化しているのではないだろうか、と思える内容だったので困ってしまう。
私は「そんなことないですよ」と「ありがとうございます」と「そんな風に言って頂けて嬉しいです」の三つでなんとか木村さんの想いに応えることしか出来なかった。
他の指名客が訪れ、私が卓を離れる際には、いつもの木村さんらしくなく、少しばかり駄々をこねる。
そういう指名客もたまにいるので、私はそのたびに軽く宥めすかし、「貴方のところに本当はずっと居たいのだけれど」と、そういう素振りをして、なんとか躱していた。
もちろん、来店してくれた他の指名客にはそんな風には見えないように、木村さんだけがそう思い込むようなやり方を選び、幾度かそれを繰り返す。
何度目かのそのやりとりが行われた後、他の指名客の卓についている時間が終わり、マネージャーに促されて木村さんの卓へ戻ると、最初のよりも値段の高いシャンパンを入れてくれていた。
他の卓でももちろん酒を飲んでいたので、結構な勢いで酔ってはいたが、飲まないわけにはいかない。
私は木村さんに「ただいま戻りました」と微笑んで、すぐにでもここへ帰って来たかった、と言うように、急いで隣に座る。
ヘルプについていてくれたキャストのお姉さんは、シャンパンには手をつけず、グラスでドリンクを別に頼んでもらったようだ。
「うたこ、幾らあったら、店を辞められるんだ」
「はい?」
木村さんが、唐突に意味のわからないことを言い出したので、呆けてしまう。
幾らも何もない、私は店を辞めるつもりはないし、嫌なのに生活費の為に無理をして働いていると言うわけでもなかった。
今思えばこの時の私は、多分、Noと言う数字で分かりやすく自分の働きが評価され、スタッフたちからの接し方からもそれを感じられる、自分の価値を認めやすい仕事だったから、このキャバクラで働いていたのではないかと思う。
「俺はうたこに、店を辞めて欲しい」
「そうなんですか?うーん、困ります、それは」
「まだ、彼氏じゃないのに、こんなことを言うのもおかしいが」
「そうですね、木村さんが彼氏だったら、彼氏がそう望めば、私はお店を辞めるかもしれないですね」
「そうか、わかった、俺はうたこの男になれるようにする」
「無理をしなくていいんですよ、木村さん」
「大丈夫だ、俺には自信がある」
木村さんが面倒な客になってしまった、と思うと少しばかり残念だった。
一人、気楽に同伴することが出来て、会話と酒だけを楽しめば良かっただけの客が減ってしまった、その事実がのしかかって来る。
最悪、木村さんは、私のことを諦めて店に来なくなっても構わないか、と考え、わざわざ色恋営業をかけることはしないでおこうと決めた。
この時は、それでも良かったから。
「じゃあ、期待していますね」
微笑んでそう答えると、木村さんに、今まで入れてもらった中で一番高いシャンパンを、自分であけたいかどうかを訊ねる。
自分がやる、と言うので新しいシャンパングラスを二つと、おしぼりをボーイに頼み、木村さんがシャンパンをワインクーラーから持ち上げるのを、キャッキャとはしゃぎながら小さく手を叩いて嬉しそうに見えるよう振る舞った。
木村さんとそのシャンパンを飲んで、他の指名客たちへの元へも呼ばれたら通い、その指名客に合った接客をし、酒を飲み、また戻る、とそんな数時間を過ごし、その間数回はトイレにも立ったが、マネージャーとは上手く二人きりになることが出来なかった。
忙しく、くるくると色んな卓へと行ったり来たりする私とマネージャーが会うのは、ついている卓を呼ばれる時か、戻される時だけだった。
そうしてやっとでラストの時間がやって来て、一人ずつ帰る指名客の卓へと回され、各々の送りをする。
もちろん最後まで残されたのは、今日一番お金を使ってくれた木村さんだった。
私の頭の中はもうぐるぐるとし始めていて、客についている間だけはなんとか理性を保っていられている、と言う状態。
何人かの指名客を出口まで送り、灯りのつけられたフロアに残っている木村さんの元へとそのまま、まっすぐつけられる。
「うたこ、ありがとうな、今日」
「そんな、綺麗な薔薇を頂きましたし、楽しい時間を過ごせて、お礼を言うのは私の方です」
今にも寝たい、何もかもが面倒くさい、ああ疲れた、出来れば誰か、今すぐ私を助けて。
叫び出しそうになるのを堪えて、最上級に見える笑顔、を作れているのか作れていないのかわからないが、とりあえずそれを頑張ってやっていた。
木村さんがソファから立ち上がったので、私もなんとかそれに続く。
フロアを抜けて、出口の自動ドアをくぐると、木村さんが私に言う。
「うたこ、本当だ、愛してる」
「…はい、ありがとう、ございます」
「忘れないでくれ」
「もちろんです」
木村さんはなんと私の事を愛していたらしい。
けれど、そのうっとりとした木村さんの酔った目を見ても、私の心が動くはずなどないのだ。
愛なんてもんは知らん。愛ってなんだ。みんな、そんなに「愛」ってやつが欲しいのか。
ミサも言っていた、彼氏から「愛されてるのかな」って。
私には全くもって理解不能だ、何がどうなったら愛なのか、どういうものがなんだったら愛なのか。
みんなは、愛ってやつがなんなのか、知ってるっていうの。
「じゃあ、またな、うたこ」
「はい!気をつけて帰って下さいね。ありがとうございました」
踊り場から、階段を下りて行く木村さんのでっかい背中を見送って、私は控えめに胸の横辺りで手の平を振る。
姿が見えなくなるまでそこに立って、手を振り続ける、それが例え限界突破していたとしてもだ。
客が、万が一振り返って、名残惜しくなった時に、まだそこに健気に手を振る私がいたら、彼らは喜ぶだろうと思うから。
だから私はどんな客が帰る時であろうとも、相当忙しい時以外は送りの時はそうしていた。
ほら、振り返った。だと思った。
今度は腕をあげて、大きく振る。
木村さんも、私に向かって手を振った。
やっと終わった、と思ってギリギリで立っているフラフラな足を縺れさせ店内へ入ると、ビップルームに向かう。
今日も、これはもう、ダメなやつだ。
私は酒を飲み過ぎても、気分が悪くなって吐いたりしたことは一度もなかった。
ただ、メンヘラだったので喜怒哀楽がかなり激しくなると言う自覚がある。
取り乱しはじめ、誰かに迷惑をかけてしまう前に、こっそり一人きりになれる場所で少し休もう、と思った。
マネージャーの部屋の鍵のことは、もうすっかり頭から抜けている。
送りの車を待つ、待機席に座っている既に着替えを済ませたキャストのお姉さんたちに「お疲れ様です」と言って、何人かの返事を背中で聞きながらフロアを歩く。
一つ目のビップルームには、ミサがいた。
広めのソファに横になって眠ってしまっているようだった。
私は二つ目のビップルームへと移動して、誰もいないとわかるとソファに向かってドサッと倒れ込む。
上半身だけがソファに引っ掛かり、お尻と膝から下が冷たく硬い床へと崩れ落ちた。
よじ登る気力も出なくて、そのままの体勢で自分のことをほったらかしにする。
私は日本酒を飲んではいけない、と改めて思いながら、瞼の内側でチカチカと赤く巡る血液の筋をぼーっと黒目で追いかけていた。
ミサが起きたら、一緒に帰ろうか、それとも、ミサが先に起きて私の存在には気づかずに帰ってしまうだろうか。
酔いが早くさめたらいいけれど、酔っているのは嫌いじゃない。
泥酔だ、泥酔がダメなんだ、この泥酔から、酔っている、にはやく治れ。
眠たい、でも薬を飲んでいない、着替え、着替えをしなければ帰れない。
ああまた今日も送りの車には乗ることが出来なかった。
もう送り組から外してもらおう、どうせ毎日こうなのだから。
でもそうなるとタクシーを使わなければならなくなる、お金がもったいないような気がする、ミサと、せめてミサと一緒ならば、始発まで二人で遊べるから、その時間に払うお金は無駄だとは思わないから、やっぱり、ミサが起きるまで頑張って起きていて一緒に帰りたい。
私もう、ひとりきりで、ひとりきりのへやに、かえるのは。
いやなんだよ、マネージャー。
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