夢じゃないの

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夢じゃないの

しまった、と思った。 私はいつの間にかすっかり眠ってしまっていたようだった。 硬い床に思いっきりぶつけてしまった膝とお尻の骨が痛む。 痣になってしまっただろうか、まあいいけれど、どうせ私は短いドレスは着ないのだから。 顔を上げて、ビップルームの端っこの方へと転がっている化粧ポーチを拾う為に、体を起こす。 まだ頭がフワフワとしていて、あんまり色んなことが考えられない。 床を進むにはテーブルがあって無理なので、ズリズリとソファの上へと体全体を移動させると、化粧ポーチに届く位置まで匍匐前進で辿り着く。 腕をめいいっぱい伸ばして、なんとか持ち手の部分を掴むと引き寄せた。 手元にやって来た化粧ポーチを開けて、小さな鏡を取り出すと顔を見てみる。 化粧はあまり崩れていなかったが、頬はリンゴのように真っ赤だった。 そのまんま、力尽きてうつ伏せのままソファにペタリと額と鼻の頭をくっつけた。 「起きてるか、うたこ」 「…」 「起きろ、ほら、ミサも帰ったから」 「…ミサ、いないんですか、もう」 「彼氏が迎えに来るって言って、帰ったよ」 「…そうなんだ」 ミサの彼氏、ユウくんはどうやら本当にミサを本命に選んだらしいと言うことがわかって、ちょっと安心する。 良かったよ、私が言ったことが間違えてなくて。 私の想像で話したことが間違えていて、ミサのことをぬか喜びさせただけだったり、勘違いさせてもっと貢がせたりする羽目にはならなかったようだ。 きっと彼氏も新宿で飲んでいたかなんかで、帰りに落ち合って一緒に帰ったのだろう。 後でラインして聞いてみよう。 「うたこは今日どうする」 「何がですか?」 「家に帰るか、どっかで俺のこと待ってるか」 「は?」 突っ伏していた顔を上げて、私のすぐ横にしゃがんでいたマネージャーの顔を見る。 マネージャーの部屋に今日も行っていいって、そういう話をしているのだったら、もしかしたら聞き間違いか夢だろうか。 私は相当変な顔をしていたらしくて、マネージャーが少しだけ笑う。 「今日の売り上げ、一番だったよおまえ」 「ご褒美ですか?」 「そういうわけでもないけどな」 「部長は?店長は?ボーイは?帰ったの?」 「いるよ、まだ」 「怒られるじゃないですか」 「だから、早く決めろ」 帰る前に、ミーティングみたいな、何か男性スタッフだけで集まって色々話したりしている、そういう時間だと思うのだが、今は。 何故か、マネージャーが私を起こしに来て、自分の部屋に来ても良いと言う。 なんか、色々と考えなければならないことがあるとは思うのだが、私の脳ミソはやはり働いてくれない。 「…行きますよ、そんなん」 「じゃ、急いで着替えて、普通に店出て、どっか入ってろな」 「…はい」 マネージャーはそう言い残し、ろくに私の返事も聞かないまま、すぐにフロアへと戻って行く。 私はちゃんと体を起こすと、立ち上がり、揺れる視界に耐えながら歩き出す。 嘘でしょう、嘘なんだきっと、私は騙されてるんだ、だって部長も店長もまだいるんでしょう。 一日だけだと思っていた、ただの、ちょっと幸福な、そんな「たまたま」が今日も与えられるだなんて、そんなバカなことが、続けて起こるだなんて。 なんちゃって、ってやつなんだきっと、そう思っておかないと後が怖い。 浮かれそうになる気持ちを抑えて、なんでもないような顔を心がけて、私はロッカールームへと向かう。 途中で、フロアのボックス席になっている幾つかの卓の一角に、部長と店長とマネージャーが腰掛けて何かを話しているのを見かける。 ロッカールームへ向かう方向からは遠かったので、挨拶は店を出る時にしよう、と考えそのまま進む。 バタン、とロッカールームの扉が閉まる音を聞いて、やっとで、ふう、と息をつく。 ただフロアを抜けるだけだと言うのに、物凄く緊張をしてしまった。 酔いと混乱でぼんやりしてしまいそうになるのを、無理に体だけを動かしていつも通りロッカーの鍵を開け、私服を取って、そして気づく。 しまった、服が三日間同じになってしまうじゃないか、と言うことに。 でも木村さんが二日連続で同伴すると言うことは考えられない、じゃあ平気だろうか。 いや、ダメだ、今は夏だし、何よりも三日も同じ服を着ての出勤と言うのは、さすがに違和感があるのではないだろうか、と慌ててしまう。 どうしよう、でも急いで店を出ろとマネージャーは言っていたし、とにかく帰るフリだけはしなければ。 これしかないのだから仕方ない、と二日目の白いワンピースを着ると、二日目のジャケットを羽織り、カバンの中に化粧ポーチを突っ込んで、ロッカールームを出る。 フロアまで出て、部長たちが集まっているボックス席まで行くと、「酔っぱらってしまってすみませんでした、お疲れ様でした」と言って、ペコリと一礼する。 マネージャーの顔は見ないように心がけた。 「お疲れ様、気を付けて帰るんですよ」「お疲れ、ゆっくり寝るんだよ」と言う部長と店長、「お疲れ、頑張ったなうたこ」と言うマネージャーに、「ありがとうございます」と笑顔を作って答える。 今の自分は大丈夫だろうか、ぎこちなかったり、怪しかったり、不自然だったりしないだろうか、と内心はひやひやしながら、出口の自動ドアがある辺りまで「普通」を意識してなんとか辿り着く。 外に出ると、時間的に夏にしては涼しくて、酔っぱらっているのとマネージャーの言葉でめちゃくちゃになっていた頭が少し冷静になって行くような気がした。 階段を、こけないように手すりに手のひらを滑らせながら下りると、まだやっているドレスショップやアパレルショップなど、どこかにないだろうかと考える。 もう寝てしまっているかもしれないが、ミサにラインをして聞いてみようと考え、とりあえず店のすぐ隣にあるビルの壁に寄りかかると、化粧ポーチの中からスマホを取り出し、ミサへと送る文章を作り始めた。 『ミサ、お疲れ様。今日はユウくんと帰れてよかったね。ちょっと教えて欲しいんだけど、店から歩いて行ける範囲に、朝までやってる服屋ってないかな?知ってたらでいいから、教えて欲しいな!』 今が3時ちょっと過ぎであると言うことも確認して、とりあえずどこに入ってマネージャーからの連絡を待てば良いだろうか、たまにミサと店の帰りに寄るバーでいいだろうか、と思い、そのバーがある方向へと向かう。 と、手に持ったままだったスマホがすぐに鳴り、ミサからの着信を知らせた。 『うたちゃん、おつかれー。どうしたの?服汚しちゃった?』 「…そうなの、それでちょっと困ってて、ミサならどこか知ってるかなと思って」 『多分あるよ!私が前に、店終わってからゲロ吐いて服ダメにしちゃった時、マネージャーが買って来てくれたことあるから』 「そうなの?場所はわからないかな?何時までやってるんだろう…」 『場所はごめん!知らないんだ。でも店閉めた後だったから、夜中開いてるんだと思う』 「ミサー!ありがとう、とりあえず探してみるね」 『マネージャーに聞けば?まだ店にいるよね?起きてるでしょ、多分』 「…うん、そうしてみる、本当にありがとう。ユウくんは?一緒?」 『今、一緒に飲んでたー。今日、新宿にいたみたいで、一緒に帰ろっかって連絡来てねー!』 「仲良しでいいね、なんか安心した」 『うん、うたちゃん、また今度一緒に帰ろーね!』 「そうだね。ミサ、本当にありがとう」 通話を切ると、ホッとした。 そうか、マネージャーはどこかこの時間までやっているアパレルショップか何かを知っているのかもしれない、と思った。 そうだよね、何日も同じ服で出勤させて、わざわざ周りに何か勘づかれるような失敗なんて、マネージャーがするわけない。 まあ、そういうキャストがいたとしても、と言うかミサはたまに客とどこかに泊まって同じ服で二日くらい出勤することくらいはやらかしていたが、私の場合だとキャラ的にあり得ないことだと思われるかもしれないし。 私は、焦りが少し薄まったところで、今度はマネージャーにラインをする。 『お疲れ様です。服を買いたいんですけど、近くでまだやってる店、知っていたら教えて下さい』 返信はすぐには来ないだろう、と思っていたのでそのまま良く行くバーの方向へと歩いた。 最悪着る服がなかったら、早く起きて一度家に着替えに戻れば良いだけだし。 できれば、少しでも長い時間をマネージャーと過ごしたいとは思ってしまうが、私はどうやらそこまで色ボケし過ぎているわけでもなかったらしい。 いや、色ボケはしているが、多分へんなところで無駄に真面目なだけだろう。 あーあ、色ボケしてたいな。 めちゃくちゃ色ボケしていたい、ミサみたいに、あんな風に幸せそうに。 色ボケってのが、どれだけ幸せで楽しいのかを知ってしまった私は、今日も色ボケをかます為に、マネージャーからの返信を待つのだ。 虚しくて、幸福な時間に身を委ねながら。
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