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思い出してくれるなら
まだ寝てはいけないと言うことはわかっていたので、心地の良い感覚にいつまでも浸っていることは出来ない。
でも、まだ私の中には中村さんがいたので、この行為の終わりはもう少し先まで続く。
そのことが幸せだから、力の抜けそうな脚で彼の腰をずっと抱え込んでいた。
しばらく揺さぶられて、私は掠れた声で短く喘いで、そうして彼が倒れ込んでくると、ぺったりとっくついた皮膚の上でお互いの汗が混ざり合って行くのを感じて目をぎゅっと閉じた。
出て行ってしまった熱が、また今日も自分の腹を汚したことに満足をして、つくづく不格好な行為なのに、この一瞬の為にならば、晒すのも悪くないと思っていた。
可愛く思えるのだ、中村さんのことが、とても。
この最後の、出しきって私の体に体重をかけて来る、その様がとてもとても可愛く思える。
私は片方の腕では背中をさすり、もう片方の手では中村さんの黒髪を撫でた。
「…はあ、なかむら、さん、…だいじょぶ?」
「…それは逆なんじゃないの」
「…何が?」
「聞く役が」
「あはは、うん、そうだね」
「若いもんにはまだまだ負けんってな」
「中村さんも、若いじゃないですか」
「まあ、うたよりは年上だからな」
中村さんは、ごろりと私の上から退けるとすぐ横に転がってグッ、と手足を伸ばした。
確かに身長差がかなりあるから、背の高い中村さんが小さな私のことを抱くのは大変かもしれない。
布団の上に置いてあるティッシュ箱から何枚かを抜き取ると腹を拭って放ると、中村さんのことを労わらなければ、と思って大きな手のひらを取ると、唐突にツボ押しをした。
「なんだ、おまえ、結構力あるんだな」
「そうなんですよ、あと、ツボもわかりますよ、ちょっとなら」
「小指って、なんのツボなんだ」
「耳と、生殖器ですね」
「普通に気持ちいいけど」
「じゃあ、意外に大丈夫なんじゃないですか」
「何がだよ、こら」
カーテンのない中村さんの部屋の窓を、広い広い真夏の朝の光が淡く濃く染めはじめる。
私は先に起き上がると、深緑色のクッションの端っこに座って煙草をくわえる。
電子ライターを手にして、ふとあることに気づいて、そのまま、まだ寝転がっている中村さんのことを振り返って、笑いかける。
中村さんが、なんだかわからない、って顔をして私のことを見るので、人生で一度だけ言ってみたかった言葉を口にしてみる。
「めっちゃよかったです、中村さん」
「あー、はいはい」
「今、バカにしましたね」
「してないしてない、言ってみたかったんだろ」
「よくわかりましたね」
「そういうのってあるよな、漫画のセリフとか」
「でも、嘘じゃないですよ」
そう、嘘じゃない、全然嘘じゃない、毎回言える、きっと、あなたとするたびに。
今度こそ煙草の先端に火をつけると、スウッっと苦いような痛いようなそれを吸い込んで、ふっ、っと一気に吐き出した。
今日は20時から同伴だから、16時には起きて今日こそは駅までの道を聞いて電車で向かおう。
タクシーばかり使っていてはお給料がもったいない、これから新しく膝丈のドレスワンピースを新調しなければならないし、ヘアメ代だって毎日支払っているし。
本当のところは、新しいバックや靴には全く興味がなかったけれど、必要経費としてそれらには金がかかる。
そう言えば、私はネイルだけは一度もしたことがなかった。
ミサや、周りのキャストのお姉さんたちの爪はとても美しく可愛らしく飾られ輝いて見えたけれど、私にとっては爪ごときにわざわざ時間をかけると言う行動があまり理解出来なかったので、爪はいつも薄い皮膚の色のままで、なんの飾り気もなく、ただただ短く綺麗に切りそろえられていた。
私には化粧と髪色、髪型、洋服とハイヒール、それだけでもう手一杯だ。
「うた、もう飲むな」
「寝るまでだけですよ」
「じゃあ、ゆっくり飲め」
「わかりました」
再び黒猫柄のマグカップに焼酎を注いでいた私の横に、下着とスウェットを身につけた中村さんがやって来て、隣に座る。
彼も自分の煙草を箱から出して吸い始めたので、部屋が煙たくなって、まるで雲の中にいるみたい、なんて酔っぱらいらしいありきたりなことを考えていた。
「そろそろ洗濯機回すか」
「そうですね、起きた頃には乾くかなあ」
「うち日向だから、夏だしすぐ乾くよ」
「ふーん、いいなあ、三階は、高くって、明るくって、空しか見えない」
「三階は痛いよ」
「飛び降りませんよ」
中村さんがトントン、と灰皿に煙草の灰を落とすと、ニヤニヤして私にそんなことを言う。
今死んでたまるかってんです、と私は思っていたので、ふくれっ面をした。
でも、死ぬなら今かも?とも思った。
いいじゃん、幸せな気持ちであの世に行けるなら。
でも、私は、恋愛ごときで心の中身全てが満たされるような、そんな慎ましい恭しい女ではなかった。
本来は、ミサなんて可愛いものだと思えてしまう程の、激しくて荒々しい気性で、ただその本性を心の奥底でなんとか飼い慣らして、大人しいイイコに見えるように、ギリギリのところで辛うじて振る舞っているだけの狂人なのだ。
「木村さんな、なるべく同伴断れたら断れな」
「いい断り方が、なかなか浮かびませんよ」
「おまえなら出来るよ、うたは躱すの上手だろ」
「うーん、なんとかしてみますけど、同伴する日もあると思います」
「ま、そこは好きにしな」
煙草を吸いながら、中村さんが窓を開けに行く。
やはり煙たかったか、と思いつつ、私はシャワーを浴びる準備をはじめる。
クイッ、っと、彼に言われた通り、ゆっくり少しずつ焼酎を飲みながら、また鼻歌をうたう。
彼に私のことを覚えていて欲しかった。
よく、何かが、誰かが死ぬような、古い歌を歌う女がいたな、と。
たったそれだけの記憶でもいいから、なんとなく、離れてしまっても思い出す日があればいいなと思った。
クレンジングオイルと洗顔は洗面台に置きっぱなしにしたような気がするし、歯磨き用のコップと歯ブラシはキッチンの小さな窓のところに置いてあったのを部屋に来た時に見た。
シャンプーは別に男物でも女物でもなんでもいいし、リンスやトリートメントがないと言うことも、私からしたら取るに足らないことでしかない。
コンビニの袋から、買って来た生理用ショーツを出して、外装を剥ぐと、パンツと化粧ポーチを腕に抱える。
歌いながら、ふわふわとした頭で、とびきり機嫌よくゴミ箱にパンツの入ってた袋をポイっと投げ込む。
お、よし、入った!
「シャワー、お借りしますね」
「なんだ、今度は誰の歌だ」
「中島みゆきの、荒野より、ですよ」
「ほー、それ、いい歌詞だな」
私はニッコリ笑ってみせると、歌いながらシャワーを浴びる為に中村さんに背中を向ける。
洗面所で借りたTシャツを脱ぐと、履いていた昨日コンビニで買ったパンツは洗濯機に入れなくては、と思い別に避けておいた。
昨日とさして変わらず、雑に髪を洗い、クレンジングも洗顔も適当に化粧さえ落ちれば良いと言った感じでさっさと終わらせる。
体をゴシゴシと洗うと、頭のてっぺんからシャワーを一気に浴びて、全ての泡を洗い流す。
洗面所で新しいバスタオルを拝借すると髪と体を拭いて、化粧ポーチの中から幾つか必要な化粧品を選んで、眉を描いて、アイラインを引くと、黒いTシャツを着てパンツを履く。
洗濯をしようと思って、今日履いていた方のパンツと使ったバスタオルを持って洗面所のドアを開けると、中村さんもTシャツや靴下を洗濯機に入れているところだった。
そこに一緒に洗濯物を入れると、中村さんが私と入れ替わりで洗面所へと入って行く。
きっと、もう一つバスタオルを入れることになるだろうと思って、まだ洗濯機は回さないでおいた。
布団のある方の部屋へ行くと、スマホを一旦充電器から外して、深緑色のクッションに膝を抱えて座る。
私はこのキャバ嬢と言う仕事が好きだった、まだ、何も起きていなかったからだ。
まだ、なんとかなっていたからだ。
だからいつもと変わらない。
仕事をしなければ。
スマホを握って、おはようございますのラインを文章を色々と弄って、絵文字で飾り付けては作成して、次々に送る。
シャワーの音に混じって、沢田知可子の「会いたい」のメロディーだけが聴こえて来る。
私はもうすっかり自分の物になったような気でいる、黒猫柄のマグカップから焼酎を飲みながら、歌詞をつけて歌う。
今日同伴する予定になっていたのは、ちょっと大変だけれども、ガチ恋の20歳だと言う新聞屋さんで働いている青年だった。
お金を沢山使うことは出来ないが、それでも私に会う為に一生懸命店へと通ってくれていた。
一体どうしたものだろう、と私を悩ませる指名客の一人でもあった。
中村さんに相談してみようか、と思うけれど、若い客一人自分でなんとか出来ないのかと思われてしまうのもなんだか癪だった。
私はこの客、キヨシくんが、かなりの無理をして店になんとか来店している、と言う状況を知っていたし、見ていると心苦しいので、出来れば諦めてもらえたら良いのだけれど、と考えていた。
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