私の寝物語

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私の寝物語

エアコンを消して窓半分を全開にして網戸だけにすると、中村さんがバルコニーに置いてあったゴミを出しに行っている間に、私は彼に頼まれていたので洗濯籠に洗濯機の中の湿った衣類を取り出して詰めていた。 どうやら中村さんが気に入ったらしい、沢田知可子の会いたい、を歌いながらそれを窓際までよいせよいせと運ぶと、ふう、と一息ついた。 その間に中村さんが戻って来たので、カーテンレールにひっかけられているハンガーにTシャツを通しては手渡す、と言うのを何度かやって、ハンカチ、靴下や下着なんかはピンチハンガーの洗濯ばさみに挟んで吊る下げて行く。 そうやって、歌って、機嫌よく、楽しい気持ちで一緒に洗濯物を干した。 中村さんがバルコニーに出ると、バスタオルを手すり子になっている部分を覆うようにしてかけて行き、大きめの洗濯ばさみで真ん中をパチンと止めた。 彼はしばらくそこに立っていたので、私も隣に出ると並んで顔を見上げてみる。 今日も良い天気になりそうで、三階だからか8時を過ぎたとは言え風もあり、清々しくて気持ちが良かった。 「そういやうた、いつもの香水、今日してなかったよな」 「香水!あーそうだ、私持ち歩いてなくて。家にあるんですよ、汗臭かったかもですよね、すみません」 「それはあんまわかんなかったけど、やるよ、いらないのあるから」 「いいんですか?助かります」 何より、中村さんのものがもらえるのは嬉しい、あ、でも、形に残るものって、あんまりもらったらよくないかも。 でもその時が来たならば、まあ香水くらい、置いてたって中村さんが残りを使えばいいし、捨てたっていいし。 香水、かあ。 ううん、どうしよう。 良く言うじゃん?会えなくなった人って、匂いで覚えてるって。匂いで思い出すって。 そういうのって、聞いたことあるよ、私。 もしかしてもらわない方がいい?断ろうか?コンビニで制汗剤でも買えば良くない? 「うたー、そろそろ入れ、エアコンにするから」 「あ、はい、あの、中村さん」 「どうした?」 「香水は、お借りします。次に来る時、自分の持って来るので」 「なんだ、今までの、そんな気に入ってるやつだったの」 「…はい、好きなので、あれが」 「じゃ、ま、たまたま同じのでもあったらいいんだけどな」 中村さんが、私がスマホの充電器を刺させてもらっている、モデムやルーターが収納されている小さな整理ワゴンのような収納棚についている、二つの引き出しのうちの小さな方を開く。 私も部屋の中に入って窓を閉じて鍵をかけると、彼の側に寄って行って中を覗き込む。 そこには香水や、髪を整える為のヘアスタイリング剤や、ワックス、カチューシャなんかが乱雑につまっていた。 その中の内の、香水だろうと思われる瓶を何個かを中村さんが見つけ出して、私に寄越して来るので、慌てて受け取り床に一つずつ並べて行く。 「中村さん、中村さんが使っているやつって、どれですか」 「それはキッチンに置いてあるよ」 「そっか、いつも同じ匂いがしますもんね、毎日変えるタイプじゃないんだ」 「おまえもそうだろ、うたもいつも同じ匂いしてたよ」 「うん、そうなの」 あれ、私が高3の時に付き合ってた人に、私東京に行くから別れようって言った時に、もらったやつなんですよ、中村さん。 優しい人でした。付き合って半年の間、私に一度も手を出さなかったんですよ。結婚してからって言って、私バカみたいに笑っちゃって、今は悪かったなって思ってるんです。 でもさ、結婚なんてするわけないじゃんこの年で、って。 結婚なんて、そんな未来のことなんて、愛してるっぽいことなんて考えて、男と付き合う女だとでも思ったの、こんな私のことを。 何考えてんのこいつ、って私そんな風に思っちゃって。 相手は怒ってなかったけれど、でもきっと哀しかったよね。 だから私は自分の自由過ぎる感情で人を傷つけないようにしようって、その時からは気を付けようって、思ったんです。 「こっからなんか選んでいいよ」 「私すっごく疎くって、どれがキャバ嬢らしいの?」 「香水にらしいも何もないと思うけどなあ」 「私が使ってるのはシャネルのなんたらかんたら」 「はは、なんなんだよ、結局」 「良くわかんないんですよね、香水って、読めないし名前忘れました」 「あるよ、シャネル」 「でもディオール使ってみたかった」 「なんだ、こだわりじゃなかったのか」 床にしゃがんで香水を一個ずつ持って鼻に近づけると、匂いを嗅いで、これにする、やっぱこれ、なんて私が選んでいる姿を、中村さんは深緑色のクッションへと戻って胡坐をかきながら、微笑みを浮かべて見守ってくれていた。 部屋はもうすっかり明るくて、酔いもほろ酔い程度のものへとさめて来ていた。 ああもう、今日もなんて本当に良い天気、それはつまり「今日も一日暑くなりそうだ」と言うことで、暑がりなのに汗っかきなのに長袖を着ることしか出来ない私からしたら憂鬱でもあるわけだ。 しかし中村さんの部屋の収納に、何だってこんなに沢山女モノの香水の瓶が転がっているのだ。 いやいい、そんなことはどうだっていい。 はじめは確かにくれると言ったのだから、一緒にいる間は私が持ち歩いたっていいはずだ。 うん、そう言うことにする、いいよね、いいの、はい、じゃあもうコレに決めた。 本当は、キッチンに置いてあると言う中村さんと同じ香りのモノを使いたかったけれど、それは絶対に避けるべきだとわかっていたので、あえて何も言わなかったし、ブランドも名前も何も聞かなかった。 「中村さん、これにします、持って行ってもいいですか?」 「いいよ、好きに使いな」 「…ありがとうございます」 そう言うと、私は起きて着替えてからつけようと、テーブルの端の方にその香水の瓶を丁寧に置いておく。 カバンに入れて同伴にこのまま持って行くつもりだが、割ったりしてしまわないだろうか、大丈夫だろうか、と少しばかり心配だったが、まあ今日ばっかりは仕方がない。 きっと誰か他の女の香水、わかんない、ドンキでたまたま不機嫌だったキャストの機嫌を取る為に買ったのかもしんない香水、もしかしたらプレゼントのつもりで渡せなかっただけかもしんない、一緒に住んでた女が忘れてったのかもしんない、そんないわくつきの香水。その中の一個。 つまりそれはただの香水でしかない。 私専用ではない、それでも私の為の一個。 「うた、また歌ってる、さっきのやつ、なんだっけな、中島みゆきの」 「ああ、荒野より、ですよ」 「そうそうそれ。なあ、荒野より、は、誰が死ぬ歌なんだ」 「誰がと言うかなんと言うか、あのね、この歌はドラマの主題歌なんですけど」 グイグイと焼酎が並々と注がれているグラスを傾け、一気に飲み干す中村さんの横に座り、私の方は逆にチビチビと少しずつ飲み進めながら話始める。 なんとなく、ただ思い出したから話すだけの話、そんなのが今日の寝物語になるのかなあ、などと思いつつ、それにしては甘ったるくも女の子らしくもないお話を、記憶を頼りに語る為に脳ミソの中の棚を次々と開ける。 「ああ、なんか聴いたことあるな、と思ったよ」 「南極大陸ってドラマなんですけど、えっと、日本は戦争に負けた後で、がんばろうってしてて、南極観測ってのへ参加するって言ったんですね」 「ほー、それで、日本は参加はさせてもらえたのか」 「敗戦国なんでまあ嫌な扱いされて、そんな場所人間にはマジ無理じゃんキツイってば、みたいな、そういう場所を割り当てられて、そこに主人公たちは行かされることになりましたね」 「そんな感じだよな、敗戦国の末路ってのは」 「まあ、勝とうが負けようが戦争はろくなもんじゃないと思います」 「そんで、結局日本はその、無理そうなとこに行かされて、南極観測をするわけ」 「あ、じゃあ話に飽きて来たら言って下さいね。で、ですね、そんな中でも、主人公は日本が世界と肩を並べる時が来たんだ!って、やる気で行くわけですよ、そうそう、この主人公がキムタクなんですけど」 「じゃあ、録画してでも観てたキャストとかいるんじゃないか」 「いそうですね、確かに人気のある方ですし」 「みんな好きだろ、キムタクはー」 「私は特に興味がないのであれなんですけど、演技はとても良かったですよ」 「キムタクが死ぬ歌ってことか?歌詞だけ聴いてたら、誰か死ぬって言うより、前向きな歌かと思ったけどな」 「ええ、人は、死にませんよ」 私だけが、少ししんみりとそう言うと、中村さんが片手で掴んだまんまだった焼酎のボトルをするりと引き抜くと、自分の黒猫柄のマグカップにも焼酎を並々と継ぎ足した。 それから煙草をくわえて火をつけると、中村さんも気づいたように自分の煙草を出すと口に持って行って火をつける。 ふう、と二人してだいたい同時に紫煙を吐いたら、テーブルの真ん中あたりで混ざり合って、大きな綿あめみたいになった。
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