メンヘラの安らぎ

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メンヘラの安らぎ

私は、スマホの目覚ましアプリのアラーム音で目を覚ました。 16時、私の隣にぬくもりはない。 静まり返った部屋の中、シャワーの音もしないし深緑色のクッションにもその背中はない。 どうやら既に中村さんはいないようだ、と言うことがすぐにわかる。 薄い夏用の布団を剥いで立ち上がり、スマホを拾い上げてアラームを止めると、ラインが幾つもたまっていた。 ああ、返さなければ、今日も、明日も、明後日も、ずっとずっと毎日、その繰り返しだ。 ふう、とため息をついて、私は素っ裸でパンツも履いていないブラもつけていないそんなみっともない姿のまま、床にペタリと座り込む。 指名客や連絡先を交換したフリー客に、一通返し、二通返し、三通返し、四通目、くらいに、中村さんからのラインがあった。 開いてみると、彼にしては長めの文章がそこにはあって、珍しいなあなんて思う。 『うた、おはよう。よく寝てたから起こさないで先に出たから。鍵は煙草の箱の上に置いてある。ヘアメの子は18時に来るからそれ以降なら出来るから。それとドレスは注文しておいたから近々届くよ。ちゃんと飯食って来いよ、今日も送りに乗れないと困るだろ。すきっ腹に酒を入れすぎるな。それから今日、店でお前のそのドレス姿が見れるのが楽しみだよ』 一体どうしたと言うのだろう。 中村さんの、なんだか優しくて長文のラインが、せっかくの優しい言葉たちばかりだと言うのに、ものすごく怪しいような、何故だか不安を呼ぶような、そんな気分にさせる。 私が彼の部屋に自分の物を持って来ても良いか、なんて言ったからだろうか。 それとも、私がまだ19歳のガキで、そんなガキをたぶらかしてしまっていると言う罪悪感でもあるのだろうか。 まあ、考えてもわかるわけない、仕方ない、このなんとも言えないもやもやは一旦置いておいて、返事の文章を考えるとすぐに送る。 『おはようございます。起こしてくれて良かったのに、行ってらっしゃいを言いたかったです。鍵、わかりました。ヘアメの時でしたよね?中村さんが、このドレス、そんなに気に入ってくれたなら良かったです。これを今日は、店でも着ます』 大丈夫だろうか、こんな内容を送ってしまったりして怒られたり嫌われたりしないだろうか。 だってきっともうとっくに中村さんは店にいるはずだ。 部長だって店長だって来ている時間だろうし、ミーティングとか店の準備なんかをしている時間だと言うことはわかっている。 でも、中村さんのスマホのラインの内容なんて、誰もチェックしたりしないよね、きっと。 だって、中村さんがこんなん送って来てるから悪いのだし。 まるで、彼にとっての秘密の彼女のような気分になってしまったではないか。 ちくしょう、色ボケって不安なのに、楽しいなあ。 「ああもう、さてと、パンツ!!」 夏なので陽は長くて、まだ外は明るかったがそろそろ夕方の薄い闇が素早く空を淡く水色の上から紺色を垂れ流して夜へと変えてしまう頃だろう。 エアコンの送風で冷えた床に直についていたお尻とふくらはぎ、太ももがひんやりと冷たい。 とっととヌードブラをつけて小さな胸に谷間が出来るようになんとか寄せて、それからパンツを履いて、化粧をして、あの例のドレスとジャケットを着て、朝の分の処方の薬を飲んで、いやまあ夕方だけれど私にとっては朝なので良いのだ、そうそう、そんなわけで薬を飲んで、今日も明るく元気に同伴出勤をするのだ。 私はスマホを持ったまま立ち上がると、充電器を抜きに行き、それをテーブルの近くに置いておいたバックの中に放り込む。 布団の中からパンツとブラを探し出して、ブラは洗濯機に入れることにして、ドレスショップで買ったヌードブラを使い胸を寄せて、パンツも履いて、深緑色のクッションに座り込む。 それから、テーブルの下に置いておいた化粧ポーチを取って、中から小さな折り畳み式の鏡を出す。 煙草の上の鍵を箱の横に避けて、中身を一本取り出すと火をつけて吸いながら、カラコンを装着して、いつも通りの順序で化粧を始める。 中島みゆきの「荒野より」を歌う。 それが終わったら、沢田知可子の「会いたい」を歌う。 最後にユーミンの「ひこうき雲」を歌う。 煙草を一回、二回、三回、と連続で吸うと、黒猫柄のマグカップの中身が空っぽであることを確かめて、キッチンに水を汲みに行く。 ゴクゴクとシンクの前に仁王立ちになって、腰に手をあてて、牛乳を一気飲みしている人のように飲んだ。 そうだ、中村さんが食べろと言っていたから、カロリーメイトを、食べてみよう。 深緑色のクッションに戻ると、カロリーメイトの箱から中身を取り出し、包みを開けると一個だけ取り出して摘まみ、前歯を立てた。 Coccoの「Raining」を、メロディーだけ、歌う。 私は別に人や犬が死ぬ歌ばかりが好きな女なわけではない。 たまたまスナックで働いていて、私が歌うとウケが良かったから覚えた歌たちの中にそれらが含まれていたと言うだけだった。 けれど特に流行りの歌や、有名なアイドルや歌手が好きと言うわけでもなかったので、いつの間にか知っている歌が飲み屋で歌っていた歌ばかりになってしまっただけなのだ。 カロリーメイトのチョコレート味、なかなか美味しいではないか。 サクサクと歯で割っては、口内に入ると直ぐにドロドロと溶けてしまうので飲み込みやすい。 私は結局カロリーメイトのチョコレート味を二個食べた。 指名客やフリー客にラインを返しながら、歌を歌いながら、煙草を吸いながら。 そうして、夕焼けの色ってやつがとうとうこの中村さんの部屋の窓を染め出した頃に立ち上がる。 ううん、と腕を天井へ向かって伸ばすと背中がパキっと音を鳴らした。 その時、下腹部に掠れたティッシュの欠片がくっついているのを見つけて、私は一人で吹き出す。 全然、気づかなかった、ばっちいの、なんて、「わずか10CCの愛」をいらないものとしてそこに出して、拭った後の残骸を、ばっちい、愛しい、なんか可愛いものとして、さようなら、とゴシゴシ手のひらで縦長に丸めると、ゴミ箱の中へ捨てた。 ドレスショップの袋から例のドレスを引っ張り出して急いで脚を突っ込んで引き上げて袖に腕を通すと、ジャケットを羽織る。 それから最後にもう一本だけ、と思って、深緑色のクッションに三角座りして煙草に火をつけて薄暗くなって行く室内で火をつけた。 少しだけ、ぼんやりとしたかった。 けれど、そんな時間など、もう残ってはいないと言うこともわかっていたので、この一本がなくなるまでの間、その少しの間だけ、とゆっくり吸った。 ああ、もう終わり、メンヘラに安らぎなど似合わない、ってか。 衝動性の赴くまま、勢いで生きるのみだ。 フィルターギリギリまで吸った煙草を一応は灰皿に押し付けて、中村さんにもらった、じゃなくて借りた香水を手首で擦る。 うなじと、足首に残りをつけると、鍵を掴んで部屋を出なければ、と借りていたTシャツを畳んで、布団を直してその上にポン、と投げた。 多分、女モノであるそのTシャツに、私は何も思わない。 そして、深緑色のクッションに埋まっているスマホを拾うと、思い出したように今日同伴する約束になっているキヨシくんにラインを作る。 『こんばんは!お疲れ様、今日ね、会ったらきっと驚くと思うよ!お店に着くまではナイショなんだけどね』 そんな、どうなんだかよくわからないようなことを、なんとなく、で送った。 だってキヨシくんは多分、見た目はともかく性格が純粋そうで清楚な感じのする、ちょっと天然でズレたところのある、そんな私のことが好きなのだ。 ただの19歳の女の子である私のことが好きなのだ。 例の、このドレスでは、彼は喜ばないのではないだろうか、と思わなくもなかった。 私はブラを丸めて持つと、背筋を伸ばして部屋を大股で出て行く。 キッチンを通り過ぎ、洗濯機にブラを放り込み、ハイヒールにつま先をぎゅ、ぎゅ、と詰め込む。 ドアを開け外廊下に出ると、視界に飛び込んで来た大きな雲に映る青やら赤やらピンクやら紫やらで目が眩んで、ちょっとばっかし今日は夕焼けが綺麗すぎないか、と眩暈を覚える。 ああ、夏はもう残り少し、9月はすぐそこなのだ。 私は今月も、No3までに入れているだろうか。 鍵を閉めると化粧ポーチの中に仕舞って、バックの中へと入れる。 とてもとても大切な物のように。 さあ、下のコンビニで、中村さんの吸っている煙草と同じ銘柄の煙草を購入してから行こう。 明日はきっと会えないから、私は部屋で一日中それを一人で吸って過ごすのだろうか、などと思う。 ふと気づくと、カツカツと、私の意識よりも先にハイヒールのカカトがコンクリートの床を叩く音が聞こえて来ていた。 どうやら体の方はちゃんとやる気になっているようだ。 色ボケの時間は終わったのだ、さて、マネージャーが店で待っている。 私は行くのだ、今日も、何が何でも、だってまだなんとか正気を保つことが出来ていて、こうやって生きているのだから。
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