ある週末

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ある週末

木村さんが、カラオケで自分の好きな曲を、私へと捧げると言って何曲か歌ってくれた。 幾つかの古い愛がテーマとなっていると思われる歌と、映画やドラマの主題歌、そして丁度、中西保志の「最後の雨」を歌ってくれていた時だった。 木村さんが私の肩を抱いて来たのだ。 けれどそれなりに酔っぱらっていたし、木村さんは私の目を見つめながら歌っているし、ここはビップルームだし、逃げようもなければ宥めるのももはや面倒くさい。 まあ、肩くらいいいか、これだけ沢山のお金を落としてくれていて、私のことを好きだと言ってくれている人で、私も彼のことが人として嫌いなわけではないのだし。 色恋営業をこちらからかけなくても、それなりにお金を落としてくれるのであれば、いずれその手を拒絶することは出来なくなる、それは仕方のない流れでもあった。 私には、常に人に対しては、してもらった分はちゃんとその分に見合ったお返しがしたい、と言う気持ちがあった。 仁義をもって礼を尽くす、と言うやつを守りたい、と言う、よくわからないけれど、そういう性格だったのだ。 木村さんが「最後の雨」を歌い終わり、私が拍手をして褒め称えていると、そのタイミングを見計らっていたかのようにビップルームの扉がノックされ、マネージャーが入って来る。 マネージャーは木村さんに一礼すると、私に向かって声をかける。 「うたこさん、お願いします」 ああそうだ、私にはまだ指名客がいるのだった。 キヨシくんとタツくんの元へ戻らなければならない。 多分、タツくんが新しいシャンパンでも入れたのだろう、私のかわりにヘルプについているキャストのお姉さんは上手くキヨシくんのことを元気づけてくれているだろうか。 でも、きっと大丈夫だ、タツくんについているのはナギサさんだ、飲み屋でずっと働いて来たと言うベテランさんだ。 場を楽しませることがとても上手なナギサさんがいる卓なのだから、キヨシくんも楽しめているに違いない。 「木村さん、私ちょっと行ってきますね、怒って帰っちゃ嫌ですよ、私まだ、…木村さんと一緒にいたい」 「うたこ、俺はヤキモチ妬きだからな、悪いな、心配させて。うたこも、仕事なのにな」 「あ、でも、木村さんがお仕事で疲れていたら無理はなさらないで下さいね、私はいつでもお会い出来るのを待っていますから」 「そうだな、ラストまでは無理だが、まだいられるな。なあ、マネージャー、シャンパンを入れるから、そうしたらまたうたこを戻してくれ」 「そんな、いいですよ木村さん、せっかく美味しい日本酒を頂いたのに」 「いいんだ、部長が飲みきれなかった分は店に置くと言ってたからな。それか、うたこが持って帰ってもいいぞ」 「ふふ、せっかくですから、じゃあ、お店に置いてもらって、なくなるまでは一緒に楽しみましょう」 「そうかそうか。なあ、おい、日本酒セラーか、冷蔵庫はあるか、この店は」 「ございます、なので、それなりにはもつかと思います」 木村さんからの問いに、マネージャーが恭しく、と言った体で答える。 冷蔵庫は見かけたけど、日本酒セラーなどと言うものはキッチンで見かけたことがなかった気がするが。 さては冷蔵庫に保管するつもりなのだな、などと思いつつ、私は木村さんに向かって手を振る。 「うたこ、待ってるからな。マネージャー、後でメニュー表を持って来てくれ」 「わかりました、少々お待ち下さい。では、うたこさん、お願いします」 「はい。行って来まーす!木村さん」 私は精一杯の笑顔と、後ろ髪引かれる想いで、と言った表情を演出しつつマネージャーの開けてくれているドアを、木村さんに手を振り続けながらゆっくりと出る。 その私と入れかわりで、ヘルプにつく為にやって来たのは、私よりは背が高いが小柄な方である、キャストのお姉さんだった。 前髪を眉の上でパッツンに揃えていて、フワフワのウェーブがかった茶色の髪を肩までおろした、所謂森ガール風の薄めの化粧を施している、青いホルターネックのロングドレスを身に纏った、確かナナさんと言うキャストのお姉さんだ。 ちょっと前からマネージャーが担当しはじめた、22歳の、キャバクラ未体験で入店してきたキャストのお姉さん、…だったと思うのだが。 キャバクラで働きはじめてまだ日が浅いはずであるナナさんに、ヤクザの客を任せても大丈夫なのだろうか?と、思わないでもなかったが、マネージャーが選んだのであれば何か考えがあるのだろう。 そうしてビップルームを出て、扉が完全に閉まったところで、マネージャーが私に小声で話しかけて来る。 「うたこ、ナギサのいる卓の前にもう一人指名が来てるから、和田さんな、そっちにちょっとだけついてとりあえず機嫌取ってシャンパン飲んで来い、もうシャンパン入れておまえのこと待ってるから。今はヘルプでリョウさんがついてるけど、かなり機嫌が悪い。そしたら次におまえが連れてきた客、ナギサの卓で、そこは少しだけでいい。ナギサがいる間はもつと思う。ただナギサにも指名客が来るだろうから、そうしたらお前はキヨシって客のとこにもちょこちょこ戻ることになるから。一応シャンパン二本目入れてるからあそこも」 「わかりました、多分アフターの約束しているので、ヤキモチとか妬いて怒って帰ったりとかはしないと思うんですけど」 「アフターするのか、大丈夫かおまえ。あー、じゃあわかった。それならキヨシの卓は少しでいいな、そんな高いの入れてるわけじゃないし、木村さん中心で行こう」 「うん!了解でーす!」 「まーた酔ってんな、おまえ。ま、頑張れよ」 そう笑顔を見せてくれたマネージャーに、手早くこの先の流れを説明され、とりあえず私は激怒しているらしい指名客、和田さんの元へ、その怒りを鎮めにいかなければならないらしいと言うことは理解出来た。 けれど、日本酒はダメなのだ。 私は日本酒を飲むとすぐに酔っぱらってしまって、いい気分になってしまうのだ。 このまま、いい気分で、楽しく無邪気で可愛らしい「うたこ」をなんとか演じ切って、和田さんの怒りをおさめてこよう。 フロアをいつもと全然違う、大きく背中と脇腹の肌色を晒した真っ白な膝丈のワンピースドレス姿で、高いヒールのカカトを軽々と絨毯に埋めて歩く。 和田さん、和田さんかあ、和田さんは私のことが好きだけれど、私の悪口ばかり言うという、変わった指名客なのだ。 ちょっぴり肥満体型で、背丈は170ないくらいの小柄と言っていい男性で、目が細長くて黒目が小さくて、笑うとなくなってしまう。 とても頭が良いらしくて、私でも知っている有名な大学を卒業している、なんかそこそこ名の知れた会社に勤めているらしい、と言う話だった。 私は人の美醜や学歴に頓着しない為、彼が不細工だとかカッコイイだとかすごい会社だとか底辺だとか、そう言ったことは気にもとめていなかったが、自分は良い会社に勤めていて賢いのだからいつでも女が寄って来るのだと言っていた。 それならばキャバクラになど来ないで、好みの女性とお付き合いをすれば良いのでは、とはさすがに言えないので、私はいつも適当に話を合わせ、彼の褒めて欲しい部分を見つけてはひたすら褒めるのだ。 そんな和田さんは、私のスタイルだけがやたらと好みなのだと言い「顔はブスだけど本当にスタイルだけは最高だ」と、いつも顔を見ずに体ばかり見て話す。 そんな態度で私を貶す割には、他の指名客が来て卓を立つとヤキモチを妬いて怒るのだ。 どんなにスタイルの良いキャストのお姉さんをヘルプにつけてもダメなのだ、怒るのだ、意味がわからない客なのだ。 そもそも和田さんから場内が入ったはじめての日も、和田さんの隣の卓にたまたま私の指名客が座っていて、そこに私がやって来てついた時に、和田さんが私の「スタイル」を褒めるヤジを飛ばしたのがはじまりだった。 「なんだ、おまえスタイルいいな、顔はブスだけど、見てる分にはいいな、名前はなんだ」と、そう言って場内を入れると、始終、私が接客をしている姿、体だけを見ていた、と言う変わった人だ。 「お待たせ致しました、うたこさんです」 「うたこ!おい、おまえは呼んだらすぐに来いよ!」 「ごめんなさい、和田さん、私お化粧直しに行ってただけなんですよお」 「わかったわかった、ほらおまえはもういいから、うたこ、ここ座れ、シャンパンあけるぞ」 「はあい!ごめんなさーい、お待たせしちゃったのは私が悪いんだから、リョウさんに八つ当たりしないでね、和田さん」 リョウさんと言うキャストのお姉さんが、きっと愚痴を山ほど聞かされただろうに、プロらしく笑顔で「では、和田さん、ご馳走様でした。失礼します」と一礼して丸椅子を立ったので、私は「ありがとうございました」とお礼を言って頭を下げる。 リョウさんは、いいえ大丈夫ですよ、と言うと、マネージャーの後ろへと私と入れ替わりでつく。 和田さんはちょっと口調は乱暴だったり、粗暴な印象だったりするが、ちゃんとヘルプのキャストのお姉さんにもドリンクをオーダーしてくれたりするし、飲み方のマナーが悪いと言うわけではなく、それなりにいい人でもあるのだ。
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