私はコドモ

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私はコドモ

大きなソファの、木村さんが座っているそのま隣まで行くと、肩を寄せて腰を下ろす。 そうして、マネージャーがビップルームの扉を閉めて出て行ったのを確認すると、木村さんの開いて座っている片方の太ももにゆっくりと頭を乗せて、上半身をズルリともたれかからせる。 木村さんは驚いているようで、何も言葉を発さないが、それでいいのだ。 私がこんな様になったところを、木村さんは今まで一度だって見たことがないのだから。 「…木村さん、私、疲れちゃったなあ…」 「…どうしたんだ、うたこ、なんだ、嫌な客でもいたのか」 「ううん、ごめんなさい、木村さんの顔を見たら、安心しちゃって…私、つい…。困らせてしまいますよね…」 「うたこ、泣いているのか、どうした、何があったんだ」 「大丈夫です、私には…木村さんがいるから。ありがと…、いつも…」 そう言って、涙まではさすがに出なかったが、酔いのせいで瞳はややうるんではいたことだろう、勝手に誤解して頂けるのはとても助かるので、否定はしないままでおく。 木村さんの膝からそうっと起き上がろうとすると、彼が私の両肩を掴んで起こすのを手伝い、ソファのシートへと背中を埋めてくれる。 私は、彼の瞳を見つめて、首へと腕を回すと、近づきすぎない程度に、体は離した状態でそおっと抱きしめた。 「うたこ、辛いことがあったのか、どうやったら、俺に助けられるんだ」 「今、木村さんが、私のことを助けて下さいましたよ。こうして、ここにいてくれたから…」 「…うたこ、俺の側にいろ、安心できるなら、俺の側にいろ、一緒に、また笑おう、おまえを笑顔に出来るなら、俺はなんでもする」 ああ、木村さんが好きそうな、ラブロマンスの映画に出てきそうなセリフだな、と思った。 木村さんは、本当に、ロマンチックなストーリーが好きで、だから多分、なかなか両想いになれない時期も、ロマンチックな山場のようなものが用意されていれば、必ず乗ってくると思ったのだ。 引かれてしまうかどうか、少し賭けだったが、どうやら私の判断は間違えておらず、成功したようだった。 「うん…そんな木村さんがいてくれるから、私、いつも笑顔でいられるんです。ごめんね、せっかく来て頂いたんだから、楽しく飲めた方がいいですよね」 「いい、いい、静かに話をしながら飲もう。そうだ、さっきシャンパンを入れたんだ。俺は、うたこが戻って来て嬉しいからな、祝いのつもりで飲もう」 「木村さん、ありがとう、…木村さんのこと、私、もっとちゃんと、知りたいです」 「…そうか、本当にそう、思ってくれていたんだな」 そして、私への贈り物へと頼んだのに、ナナさんがワガママを言って飲みたがったと言うシャンパンとやらの記憶は、私と木村さんの新たな関係への第一歩として、彼の中では祝福の記憶へと無事に塗り替えられる。 木村さんはおしぼりを使って上手にシャンパンをあけてくれたので、私はいつものようにはしゃいで拍手などはせず、ほんのり微笑んで、照れくさそうな顔をして見せる。 少しずつシャンパングラスへと注がれる、細かな泡の粒がプツプツと逆さまの雨のように弾けて行く様子を、まるで小さな海のようだな、と思いながら、表情には出さず、少し哀しい気持ちで眺めていた。 また、指名客への色恋営業、しかもそれを深いものをしかける羽目になってしまった。 木村さんは、自分の方のシャンパングラスにも同じように注ぐと、二人で視線を合わせたまま乾杯をした。 一気などせずに、一口一口じっくりと飲み、木村さんの気持ちを確かめるように、そのぶ厚めの瞼の奥の黒くつぶらな瞳に、自分の瞳の黒い部分を合わせて、そうして静々と話し出す。 「木村さん、戻るのが遅くなってしまってごめんなさい。木村さんが待っているのに、って私、他の席でつい焦って、トチってばかりでしたよ」 「…ははは、うたこが失敗をするなんて珍しいな」 「そしたら、私よりも失敗しちゃってるコがいて、…私、励ましてあげたかったけれど、そのコは泣いてしまって」 「そうか、うたこは優しいな。俺は…ダメだな、誰だって失敗をすることはあるのにな。つい、怒ったりして」 「そうなんですか?木村さんが怒ったところなんて、私は今まで一度も見たことがないですよ」 「そうだ、あいつはきっと、頑張りすぎていただけなのかもしれないな。さっきの、名前は思い出せないが、うたこの後にやって来たやつに、俺は怒っちまったんだ」 ナナさんのことだろうな、と容易に想像できる。 けれど私はしらばっくれて、何も知らないフリをしてシャンパングラスの中身をからにする。 もちろん、話は真剣に聞いています、と言う体は崩したりしないで、そのまま木村さんと視線を合わせたまま、次に飲む分を注いだ。 「きっとそのコも反省していると思います。だって、人を怒らせてしまった後って、何が理由だったのか、考えるものですよね」 「…ついな、俺の相談に乗ってやると、そいつは言ってきたんだ。俺もあんな小娘に話さなきゃ良かったんだがな。だけど、少しでも面白い話が聞ければと思っちまった。例えば、若い女がどんなものを貰ったら嬉しいのか、どんな時間が過ごせたら喜ぶものなのか、知れたらいいなと、思っちまったんだ」 ははあ、なるほど。 ナナさんは素の自分のままで接客をしているようだし、キャバ嬢向きの性格をしていない、そういう考え方がどうやらまだ出来ない、と言うことはなんとなくわかっていた。 そういう考え方、と言うのはつまり「客を喜ばせるような会話」「持ち上げるような会話」をわざわざ考えて言葉を選べないと言うことだ。 故に、自分の価値観のみで素直に思ったことをそのまま口にしてしまうのだろう。 ただ、何一つ飾らないそのままの、自分が感じたままの言葉を、木村さんに向かって発してしまったに違いない。 きっと、木村さんの問いに、彼が傷つくであろう答えを、沢山、次々に、思ったまま伝えてしまったのではないだろうか、と察しがついた。 例えば、それは脈ナシだとか、次を探した方が良いだとか、貢がされているだけだとか。 多分だが、木村さんにとっては最悪である「真っ赤な大輪の薔薇の花束をもらって喜ぶ19歳なんていない」だとか「日本酒をもらって喜ぶ19歳なんていない」だとか、そう言ったことなんかを、もしかしたら言ってしまったのではないだろうか。 さすがに客を、と言うか、人を凹ませるとわかっているような言葉を考えなしに平気で発してしまうのはどうかと思うし、真実そうだったのかはわからない。 いくらなんでも22歳だ、「人の気持ちを気遣う、思いやること」くらいは多少出来て当然だとは思うのだが、稀にそうでもない人間もいるのかもしれない。 「木村さん…私とそのコは別人ですよ?私が嬉しいもの、私が喜ぶものと、そのコが嬉しいものと、喜ぶものは、全く別だって、そういうこともあるんです」 「…そうだったな、うたこは、いつだって本当に嬉しそうに喜んでくれたのにな、俺は人に相談事なんてしたことがなかったもんだから、その娘が言ったことを、本当なのかと思っちまったんだな」 「木村さん、聞いて下さい。私は嬉しかったらちゃんと嬉しそうにしますし、嫌だったら嫌だってちゃんと伝えますよ」 「…そうか、そうだな、うたこのことは、うたこに聞けば良いだけだったんだな」 「そうです、木村さん。木村さんは、私の言葉じゃなくて、そのコの言葉の方を信じた、ってことなんですね?」 「…そう言うことに、なっちまうなあ…」 木村さんは、バツが悪そうな顔をして、シャンパンを飲み干す。 私が、そのシャンパングラスに次に飲む分を注いでいると、シャンパンはうたこが飲んでいい、俺は日本酒を飲む、と言って、自分の日本酒のグラスの方に自分で日本酒を注いだ。 その日本酒は、グラスの三分の二辺りまでしか届かず、縁近くまでを埋めることはなかった。 私は、木村さんの分の入ったシャンパングラスを渡されたので、気にせずそれも一気飲みする。 もう本当に、何もかも酔わないとやっていられない。 私は、ちょっとふざけたように、茶目っ気が出るようなニヤニヤ笑いを顔にはりつけると、木村さんの頬を、本当に、かすめる程度に、優しく、ぴたん、とぶった。 「木村さんのバカ。私より、他の女の言うことを信じて怒るなんて。今のは、私の言葉を信じなかった木村さんへの罰です」 「ははは、うたこ、悪かった、悪かったな、本当に」 「木村さんは、私のことが好きなんだったら、他の女のコが何を言ったって、私の言葉の方を信じてくれなきゃ、嫌です」 「…そうだな、俺はうたこのことが好きなんだからな。酒の失敗談が、増えちまったな」 「大丈夫です、今私がビンタしたので、なかったことになりましたよ」 もう、ナナさんのことなど忘れたであろう木村さんの腕に、自分の腕を絡めて、太く逞しい二の腕にこめかみをこつんと乗せる。 結局残された手管と言うのは、こうなるべくしてこうなるのだ。 ナナさんのことを一瞬だけ恨んでしまいそうになったが、まあいつかはどうせ彼にも色恋をかけなければならなかったのだろうから、その時期が早まっただけと言う話。 そう、自分を納得させる。 仕方ない、どうでもいい、もう木村さんは怒ってはいないし、しかも日本酒もどうやら残ってはいないようだ。 ほとんど、怒っている間に木村さんが一人で飲んでしまったのだろう。 「うたこは、いい女だからな、俺は好かれる為に必死だったんだ」 「そんなんでもないです。多分それは、木村さんの勘違いで、私なんてただの、どこにでもいる女のうちのたった一人です。だから、哀しくなったり、辛くなったりすることも当たり前にあります。そんな時に、木村さんがいてくれたら、さっきのように弱った姿を見せてしまうことも、あるんですよ」 「そうか、そうだな、うたこだって傷つくよな。悪かったな、そんな時に他の女の言うことなんか、真に受けたりして」 「…私の言葉を、ちゃんと信じてくれなくちゃ嫌ですよ、木村さん」 わざと、呟くようにしてそう言うと、私は最後のシャンパングラスを、ゆっくりと傾ける。 拗ねてしまって、ヤケ酒を煽るように、いや実際ヤケ酒でもあったのだが、ツンとして、ちょっと怒っている風に見せる為に。 そんな、子供っぽいところを、わざと見せる。 でないと次を求められたりしたら面倒だからだ。 私はまだ、木村さんの中で「手に入りそうな、自分を知ると言ってくれた女」でもあり、「それでも年相応のコドモで、さすがに手を出すことは出来ない女」でなくてはならない。 でなければ、私の信条である「客とは寝ない」と言う決め事は、あっさりと崩れ去ることになってしまうのだから。
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