みっともない虚勢

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みっともない虚勢

木村さんのご機嫌を直す為にまた一人色恋をかけなければならない指名客は増えてしまったが、致し方ない。 こういうことだって生きていればあるだろう、と諦めながら、ぐるぐると酔いが回る頭のまま、和田さんの卓でも今日何本目になるかわからないシャンパンを飲んでいた。 木村さんに比べたら、和田さんの怒りなんて簡単なものだ。 色恋などかけなくても、私がこの背中の大きくあいた、素肌を晒す仕様になっているドレス姿を見せて、ただ横に座っているだけで彼は勝手に喜んでくれるのだから。 その癖、話す内容は乙女チックと言うか夢見る少女と言うか、その口が語る新婚夫婦二人の生活は、甘く平和で平穏な日々なのだ。 私はただ、その夢に乗っかって、所謂良い妻、彼が望んでいるであろう妻と言うものだったのならば、どのように夫を支え、癒すのだろうかと想像し、あたかもそれを望んでいるかのように話を合わせるだけでいい。 二人で穏やかに一戸建ての家、もしくはそれなりの広さのマンションに住んで、私は毎朝夫よりも早く起き、愛妻弁当を作る。 それから手際よく朝食をテーブルに用意して、なかなか起きて来ない夫の元へ向かうと、優しく揺り起こすのだ。 そして、まだ眠たい、と言いながらも、妻とこの家を、この幸せな空間を守る為なのだから仕方がない、と一生懸命起き上がり、シャツとスーツに腕を通す和田さん。 二人で朝食をとり、私がネクタイを締めてあげてから、朝食を作る為に使った調理器具などを洗いはじめる。 和田さんは時間になると、そろそろ行って来る、と言ってカバンを掴んで玄関へと向かうのだ。 私が「行ってらっしゃい、あなた」と言う為に水道を止め、エプロンで洗い物をしていて濡れた手を拭いながらその背中を追って…、と、そんなところで、今日の夢の時間は終わりを迎える。 「お話中、失礼致します。延長の方はいかがいたしますか?」 マネージャーがやって来て、私たちが座っているソファの前で片膝をつく。 二本目のシャンパンは空っぽだし、時間もそれなりに遅いので、和田さんはもう次で帰ると言っていた。 これで今のところ、後は木村さんとキヨシくんの卓だけとなる。 木村さんはラストまではいられないと言っていたのでもう帰るだろうと思い、少しばかりホッとする。 木村さんが帰れば、とりあえず残りの時間はキヨシくんの卓だけとなり、万が一指名客が来店しても、既にそれなりに遅い時間だ。 いずれ、店もラストとなる。 アフターだって、きっとナギサさんが場を盛り上げてくれるだろうし、キヨシくんも告ってくるような状況にはならないだろう。 「和田さん、ご馳走様でした!チェックでお願いしまーす!」 「では、こちらに置かせて頂きます」 私が酔っぱらったまんま、もう延長はしないと言うことを告げると、マネージャーは裏返した伝票、と言うか、まあオーダーしたものやら延長した時間の分やらの金額が色々と書いてある、ちょっと普通の伝票とは違ったものなのだが、まあとにかくそれを置いて一旦下がろうとする。 しかし和田さんは、伝票をすぐに裏返して内容を確認すると、財布をポケットから取り出して、私に現金を数十枚渡して来る。 私は和田さんの顔を見て、なんかちょっと怒ってる?と思いつつも、頂いたお札の束を、マネージャーへと手渡す。 マネージャーは一礼してから部長の座っているカウンターへ行き、戻ってくるとお釣りを彼に渡して「ご来店ありがとうございました」と言う。 そして、私と和田さんに向かって、遠回しに卓を立って店を後にするように、と、頭を下げながら出口の方へと片腕を伸ばす。 私はソファに置いていた和田さんのカバンを抱えて「はいどうぞ」と笑顔で言ったのだが、彼は「出口まで持って来い」と、ぶっきらぼうな返事をされてしまった。 あまり意味はわからなかったのだが、急にどうしたのだろう、と思いつつも、とりあえず言われた通り和田さんのカバンを胸に抱えたままでフロアを二人で歩き、店の出口へと歩き出す。 自動ドアを出て、少し広い踊り場に出ると、和田さんは周りに誰もいないかどうかを確認しているようにキョロキョロとして、それから私にそっと耳打ちをする。 「うたこ、さっきの続き、やってくれよ」 と。 そこで、ああなるほど、と思い、私は「良い妻」の笑顔を想像して作り、和田さんに向かって両手で持ち手を掴んでカバンを差し出した。 出来る限り「妻」が「夫」を仕事へ送り出す時のような雰囲気を心がけて、夜の闇を照らす沢山のネオンが、朝の光であると彼が感じられるように、と、朗らかで明るい声を出す。 「行ってらっしゃい、あなた」 和田さんは私からカバンを受け取ると、なんだかやっと落ち着いた、と言った風にいつもの「夢見心地」の表情へと戻る。 どうやら、ただマネージャーが延長するかどうか聞きに来た、そのタイミングが悪かっただけのようだ。 今日の「物語」はまだ終わっていないのに、と、そんな気分になってしまい、へそを曲げただけだったのだろう。 「うたこ、誰かに言うなよ。また来るからな」 「言いませんよ。和田さん、気をつけて帰って下さいね!また、お待ちしてますね!」 「おまえも残り、頑張れよ」 なんて、和田さんにしては本当に珍しく、私のことを気遣うような言葉をくれたものだから、私もかなり酔っぱらってもいたし、ちょっとばかり最後のサービスをしてみた。 「あなた、早く帰って来てくださいね~!」 そう言って手を振ると、和田さんは愉快そうに笑いながら、それでも嬉しそうな顔をして片手を一瞬上げ、階段を降りて行った。 いつものように、どの指名客にもそうするように、姿が見えなくなるまで私はそこで手を振り続け、やっとで和田さんの背中が街中に消えると、一瞬だけしゃがみ込んで、膝に額を埋めて両腕で顔を隠した。 ああ疲れた、酔っぱらった、大丈夫かな私、ああ、でももう木村さんは帰るはずだ、あともうちょっとだ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張るんだ。 私は、だいじょうぶ。 がんばれる。 そう、自分に言い聞かせる。 よし、と気合いを入れて立ち上がると、私はなんとか自動ドアをくぐり店内に戻ると、フロアの入り口で私を待っていたマネージャーの元まで歩く。 足元はフラついたけれど、せめて、と表情だけは取り繕う。 なんでもないです、全然平気です、このくらい頑張れます、もっと頑張れます、みたいな顔をして。 マネージャーは、そんな本当は泣き出しそうな私の嘘の笑顔を見て、どちらの気持ちを「本当だ」と思っているのかわからないが、微笑んでくれた。 その後、私は予想していたキヨシくんの卓ではなく、そのまま真っ直ぐ木村さんのいるビップルームの方へと案内された。 キヨシくんをこんなに放置して良いものかわからなかったが、アフターの約束をしているし、ナギサさんがついているし、チェンジをくらったナナさんはもうあそこにはつかないはずだし、多分大丈夫だろうと思った。 何より、木村さんの見送りをしたその後、ラストの時間がくればアフターまでキヨシくんに付き合うことは決定しているのだから。 気を抜いていたわけではなかったが、木村さんのいるビップルームの一室へ向かう途中で、私は一度だけこけた。 普通に脚がもつれてしまって、壁にゴツン、と肩と頭部の右側をぶつけて、ズルズルと床に向かって膝をついてしまいそうになるのを、なんとか手の平を壁にくっつけて耐えた。 「うたこ、大丈夫か、いけるか?」 「はあ、大丈夫です、なんか脚が勝手に…やばい…酔った…」 「頭は、しっかりしてるか、後一時間半くらいだ、まだ多分指名来るだろ、おまえ」 「来ますかね…」 そうだ、もしかしたら、居酒屋で仕事仲間や友人たちと飲んでから別れ、最後に飲み直そうと、寄ってくれると言う指名客だっているかもしれない。 だって今日は週末なのだから。 マネージャーは、後一時間半と言った。 つまり今は零時過ぎだと言うことだ。 多分だが、一人、二人、は指名が来店するかもしれない、そのように仕向けるような営業を日頃からしているのは私自身だからだ。 今は、とにかく木村さんを楽しませ、良い気分で帰ってもらえるようにして、その後は気合いで乗り切ると言う方法しか残っていない。 賢いわけでもなく、計算高いわけでもない私が、泥酔に近い状態になってしまった時に残されたもの。 自身を上手く操ることすら出来なくなった、そんな時。 最終的に使えるものは、哀しいことに、気合いと言うやつしかないのだ。 「水飲むか?木村さんは多分もう、延長しないだろ」 「そう…思います?」 「……するかもな、この感じだと」 「なんとか、カラオケに持って行けたらいいんですけど…」 「うたこ、どうしてもキツくなったら、ラインしろ、俺も卓について、もう酒をおまえだけで片付けなくて済むようにするから」 「……いいえ、大丈夫です」 そんなことをして頂かなくても、私は自分の指名客を、自分を好きだと言って店に通ってくれている人間である、そんな客を、満足させてみせます。 私は、ヒンヤリとしていて冷たくて、このままここに張り付いていたくなってしまうような、店の壁から、なんとか自分の体をビリビリと剥がすと、しっかりと立つ。 一生懸命、微笑んで見せる。 本当は、私に対する心配からの言葉なんかじゃなくて、私のことを上手く操って、もっと売り上げを伸ばさせようとしているに違いない。 どうしてもそう考えてしまう、自分の心のさもしさが嫌だった。 でも嬉しかったよ。 今にも崩れてしまいそうな微笑みは、あまりにも好きで、それでも私のものになることは決してない、そんなマネージャーに対する精一杯の虚勢だった。
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