キャパオーバー

1/1

482人が本棚に入れています
本棚に追加
/611ページ

キャパオーバー

「お待たせ致しました、うたこさんです」 「ただいまー!木村さん!ちょっと、酔っちゃったみたいで、…さっきはごめんね、楽しく飲みましょうね!」 「お、うたこ、元気になったか!いや、俺も悪かった」 「木村さんは、何も悪くないんですよ!」 私はマネージャーの紹介が終わる前に、いつもの膝を少し折り曲げる挨拶もせずに、ぴょんっと跳ねるように勢いよく木村さんの横へと着地して、ソファにお尻を埋める。 そんな私のことを、倒れ込まないように、と大きな体で受け止めながら、木村さんは楽しそうに豪快に笑った。 すると木村さんは、一礼して退室しようとしているマネージャーに、あろうことかもう一本シャンパンを、と言い出した。 「日本酒は、俺が全部飲んじまったからな。うたこ、好きなのを頼め、最後に一緒に飲もう」 「…はい!ありがとうございます!木村さん!」 それ以外に、私は一体何を、どう答えれば良かったと言うのだろう。 私の脳には「客のオーダーしてくれる物を断る」と言う選択肢などはじめから用意されていない。 だって私の成績に反映するのだ、私のNoに関わるのだ、私の価値に繋がるのだ。 何よりも、私は人からの善意や好意を無下にすることなど出来ない性格なのだ。 つまり、はじめから断ることなど、できるわけないのだ。 どれだけ無茶苦茶な「おまえの為」に対しても、喜ぶフリ、嬉しいフリ、ありがたがるフリ、それをして、私はずっと今まで生きて来たのだから。 今更、その習性を変えることなど不可能なのだ。 結局私は木村さんと一緒に、今日、合計何本目になるのかもはやわからなくなってしまったシャンパンを飲みながら、今まで知らなかった彼自身の話を少しばかり聞かされることとなった。 私が言ったのだから仕方がない、もっと木村さんのことを知ってからでないと、と。 もっと、貴方のことを知りたい、と。 私のことをすっかり「これから自分の女になるであろう少女」として扱う彼に、私は色々な表情を使い分け、会話の内容に合わせて一生懸命相槌を打ち、時に真剣に、時に微笑んで、様々な表情でもって応えた。 果たして、木村さんは普通にヤクザであり、普通にヤクザの仕事をしていた。 と、言うことがよくわかった。 それだけをとりあえず書いておこうと思う。 あまり詳しく書くのは個人の特定に繋がってしまうかもしれないし、読んでいる方がヤクザと言う職業に偏見を持つことになったり、あるいは嫌な感情を抱いてしまう場合もあるかもしれないからだ。 それに、たまたま私が人生の中で会った木村さんと言うヤクザがそう言った仕事を担っていたと言うだけで、今の世ではヤクザも全く違った内容の仕事をしているかもしれない。 何よりこのことは私の人生において大して影響を及ぼすような出来事ではなかったので、まあ割愛させて頂くと言うだけの話でもある。 そう言うわけで、私がそれなりに「良い人」だと思っていた彼は、やはりマネージャーの言う通り、なるべく深い関係になるのは避けるべき人物であったと言うことが発覚したのだった。 まあ、もう何もかも遅いし、既に手遅れと言う状態だったので、私はそれら全てを受け入れて、「それでも木村さんは木村さん」「ヤクザの仕事をしている木村さんとしては見ない」と言う方法でもってこれからも彼に接する、と言うことに決めた。 「うたこ、次の同伴の時は、他の日本酒を紹介してやるからな」 「もう、大丈夫ですよ、そんなに気にしなくって。十分沢山飲んだ後でしたし、とても美味しかったですよ」 「何か、他に欲しいものはないのか」 「急にどうしたんですか?」 「うたこの喜ぶものは、うたこに聞くことにしたと言ったろう」 「私は本当に、木村さんから頂くものならばなんだって嬉しいですよ。私の為に考えてくれた時間、悩んでくれた時間、すごく大切で、ありがたいと思うからです」 「…そうか、わかった」 最後のシャンパンを二人で分けっこすると、シャンパングラスの半分半分で丁度になった。 それを、乾杯して飲んでから、私は一緒に写真を撮りませんか?と木村さんに断りを入れて了承をもらう。 今日頼んでもらったシャンパンのボトルと日本酒と花束をテーブルの真ん中に集めて素敵に見えるように配置すると、ボーイを呼ぶ。 テーブルの上に並べたプレゼント達と、木村さんにぺったり寄り添って腕を組んで仲が良さそうに微笑む私たちが映るように、スマホで撮影してもらった。 「ほら見て、木村さん、素敵に撮れましたよ!」 「ああ、うたこ、なあ、これを、待ち受けの画像ってやつにしたいんだが、どうやるんだ」 「良かったら、私がやりましょうか?」 「…頼む」 照れている木村さんの顔は、酒の酔いでの方の赤なのか、それともつい私に合わせてはしゃいでしまって恥ずかしい、と言う気持ちからの赤なのか。 私が木村さんのスマホを弄って、先ほどボーイに撮影してもらった写真を待ち受け画面へと設定すると、はいどうぞ、とニッコリ笑って手渡す。 照れて顔や首や耳まで真っ赤にして、困ったようにおしぼりで大きな顔を拭く木村さんのことを、私は可愛い人だと思う。 そうだ。 木村さんは優しくて繊細で、ロマンチックなものや、思わず涙してしまうような、そんな胸を打つような映画やドラマが好きな、とても可愛らしい人なのだ。 私にとっては、それが木村さん。 それでいい、そんな木村さんでいいのだ。 マネージャーが延長の確認を取りに来ると、木村さんはチェックだと言い、それから今日の分の支払いを現金で済ますと私と一緒に手を繋いでソファを立つ。 共にビップルームを出て、フロアを通り、部長の前を通る。 部長が木村さんにまたお礼を言って、木村さんは「また来るよ」と返事をすると、少しばかり目の前の待機席を見渡したので、私もそうする。 しかし、ナナさんの姿はもうそこにはなかった。 自動ドアを出ると、和田さんを見送った時とは違い、私は木村さんと繋いでいた手を離すと、一度だけ思いっきり背伸びをして、ぎゅうっと背中に腕を回してみた。 木村さんは、大変な人生を送って来た人だったのだと言うことを、多分今まで出会ったキャバクラ嬢の中で、私にだけ話したのではないだろうか、と思ったのだ。 それは私の勝手な思い込みで、もしかしたら今まで熱を上げたキャバクラ嬢たち全てに話していたことなのかもしれなかったが、それでもまあ別になんでも良いかと思った。 ああ、本当にでっかい人だなあ、と思い、それと共に、もちろん小さな頃もあったのだろうな、と思った。 「木村さん、ご馳走様でした!気をつけて帰って下さいね」 「またな、うたこ。時間が出来たら、連絡するからな」 「はい!お仕事、頑張りすぎて倒れないように気をつけて下さいね!」 「おう、心配するな」 そう言って片手をほんの少しあげる木村さんを見て、ついでだからこの人が死なないといいなあ、となんとなく思った。 どちらでも良いけれど、きっと私の人生にはあんまり関係ないだろうけれど、そのうち別れが来るのだろうけど、でも、死ぬか死なないかならば、死なないで欲しい人だな、と思った。 階段を下りて行く木村さんの背中を見送り、彼が振り返るたびにジャンプをして腕を上げるとぶんぶんと振った。 まだいます、ここにいます、ずっといますよ、とわかるように、大きく何度も振った。 そうして私は木村さんの背中が見えなくなると、そのまま踊り場にどさっと膝をついてズルリと体を横たえる。 つまり、ぶっ倒れた。 少しでいいから休ませて、と言う気持ちと、もうどうでもいい、と言う気持ちの二つを抱えつつ、上半身も床めがけて崩れ落ちて行く。 白く硬いまっ平なそこに、思いっきりぶっつけた膝小僧やお尻の方よりも、鎖骨の辺りが息をするたびに痛みを訴えた。 アルコールの過剰摂取のせいだろうか。 キヨシくんの卓に戻らなければならない、そして今日はアフターもある、とりあえず厨房に寄って水をもらっていっぱい飲んで、酒をありったけトイレで吐こう、と思った。 自動ドアが開く音がして、他の客とキャストのお姉さんの邪魔になってはいけないと思い、急いで立ち上がろうとする。 しかし、振り返ってみると、そこに立っていたのは私と同じ頃に店に入ったと聞いていた、若い黒服、つまりボーイだった。 しまった、マネージャーから私を早く連れて来るようにと言われて迎えに来たのかもしれない、と思って慌てて冷たい床に手をついて胸元まで起き上がらせると、そのボーイが私の腕を引っ張って、なんとか立たせてくれる。 「大丈夫ですか、うたこさん。水を用意してあるので、一旦厨房へ」 「はい、すみません、あの、マネージャーは」 「…マネージャーはミサさんの卓についていて一緒に飲んでいるので、貴女の様子を見に行くことが出来ないからと、僕がかわりを頼まれました」 「そっか…」 そりゃそうだろう、ミサは客の脚に自分の長く細い形の良い脚を乗せて、まるでお姫様抱っこの状態で酒を煽っていたのだから、マネージャーが卓について、宥める以外ないだろう。 客だって目の前にマネージャーがいればミサのそんな行動を容易に受け入れたり出来ないし、本人だってさすがに多少は控えるはずだ。 …多分。 何よりあの有り様じゃ他のキャストにも客にも示しがつかない。 酔った客たちがあんな状態のミサを見ていたら、人によっては自分もああ言う接客をして欲しい、と望んでしまいかねない。 でも、私、迎えに来てくれるならマネージャーが良かったな。 せっかく私の体を支えて運んでくれている、私よりも多分年下であろうボーイには申し訳のないことを考えてしまう。 彼は背はそんなに高くはなくて、私よりは大きいけれどマネージャーよりははるかに小さい、と言う具合だったので、多分170ないだろう。 金髪の傷んだ様子の髪は、身近で見るとどうやら癖毛だったようで、フワフワとしていて愛玩動物のようだ。 ああ、そうだ、猫。 瞳自体は大きいけれど、それと比例しない黒目はなんだかアンバランスに小さめな気がする。 唇が化粧をしているわけでもないのに赤いから、なんだか雰囲気がどことなく猫っぽい。 所謂イケメンと言うやつなのだろうけれど、あまりチャラチャラしてはいないのではないだろうか。 いつも、調子の良いことを言ってキャストのお姉さんたちを笑わせたりしていた。 何より、まだボーイをはじめたばかりにしては、色々と仕事に向いていたようで、なかなか上手いことをやるのだ。 指名客とキャストのお姉さんの仲の良さを、普段から良く見ていなければ気づけないような事柄や雰囲気などを読み、的確に客の喜ぶポイントを突いて褒めたりして、延長を取ることに一役買うことが出来る優秀なボーイだった。 けれど、こんな状態の私に対しても敬語を崩さない所や、雑務や仕事を自分なりに精一杯こなしている姿を見る限り、本来は真面目で誠実な人間なのではないだろうか、と思っていた。 「あの、すみませんでした」 「…ん?何がです??」 「いえ…あの、…今日…」 「…いや、いい。大丈夫です。別に、なんでもいいですよ、私は」 なんとか店内に入りフロアへ向かう通路の、部長のいるカウンターよりも手前にある厨房まで体を支えてもらって辿り着く。 私は、もう大丈夫です、と言って体を離してもらう。 そうして、厨房を担当している男性スタッフから用意されていた氷のいっぱい入った水をもらって飲んでいたところ、何故かそのボーイに唐突に謝られた。 しかし、理由は聞きたくなかった。 聞いてはいけないような気がしたので、私の方で勝手に話を終わらせた。 だって、きっとまた面倒くさいことがあるに違いないのだから。 正直、もう面倒なことはごめんだった。
/611ページ

最初のコメントを投稿しよう!

482人が本棚に入れています
本棚に追加