これしか出来ない

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私はこのドレスのまま店に来たので、特に着替える必要はないので、上に着て来たジャケットだけを羽織るとバックを持って、ナギサさんに「ちょっとお水もらって来ます」と声をかけてから厨房へと向かう。 部長にロッカーの鍵を返して、お疲れ様です、と言うと、私は大いに褒められた。 ナナさんの不始末を何とかしたこと、たくさんの酒を飲んだこと、呼んだ指名客の人数がそれなりに多かったこと。 それらは全てたまたまで、今日上手くそう言うことが重なっただけであって、普段から毎日がそんなに上手く行く日ばかりと言うわけではなかったが、それでも私は嬉しかった。 「今日はアフターがあるので、ナギサさんが着替え終わるまで待っていても大丈夫ですか?」 「もちろんいいですよ。来月も、この調子で頑張って下さいね」 「出来る限りのことはします。あ!あと、木村さんからのピンクのお花なんですけど、…出来れば、お店に飾ってもらってもいいですか?私の部屋には、花瓶もないし、花を置くスペースもないんです」 「構いませんよ。では、入り口にでも花瓶を用意しましょうね」 「ありがとうございます!あと、ちょっとお水もらって来ます」 「ナギサさんが来たら伝えておきますから、少し休んでから行くと良いですよ」 けれど、タツくんとキヨシくんは外で待っていると言っていたし、どこか店に入って待っているわけではないのだろう。 なるべく早く行ってあげなくては、と言う気持ちでもあった。 バッグを待機席用の大きなボックス席のテーブルの上に置くと、厨房へと向かう。 誰もいなかったので、勝手に並んでいる沢山のグラスの中の内の一つを拝借すると、水道で水を汲んで何度かに分けて飲み干す。 その後で、使ったグラスを簡単に洗って元の場所に戻すと、次はトイレへと直行する。 個室に入り鍵を掛けると、掃除された後の綺麗な状態の水洗トイレの蓋を開け、汚れてしまわないように便座を上げると、さっそく体を内側へと曲げて、人差し指と中指を舌に這わせて喉の奥へと突っ込んだ。 高校時代、摂食障害で過食嘔吐を繰り返していたので、嘔吐することには慣れていた。 胃の内容物はそのほとんどがアルコールであり、最初に逆流して来た水の後からは、苦くてほんのり甘い水分たちが唾液と共に、胃が痙攣するようヒクつくたびに溢れ出て来た。 ある程度吐けるだけ吐くと、トイレットペーパーで口元を拭って、唾液や内容物でベタベタになった手のひらも拭いて、それらを丸めてトイレに流す。 コップと歯ブラシはマネージャーの部屋に置いて来てしまったので、手だけ洗って待機席へ戻って座ると、バックの中身を探る。 ブレスケア用にと購入して常備していた、粒になっているちょっと刺激の強いミント風味の清涼菓子を取り出して、5つ程口の中に放って奥歯でガリガリと噛んだ。 「お疲れ、うたこ。おまえ、本当にアフター行くのか」 「あ、マネージャー、お疲れ様です」 「やめといた方がいいんじゃないの」 「とりあえず吐いたので、酔いはなんとかなると思うんですけど」 「ナナのこと、悪かったな。俺の判断ミスだ。迷惑かけたな」 「…いえ、ナナさん、泣いていたので心配です」 「まあ、そのうち辞めるか、店とぶんじゃないの」 「でもマネージャー、ちゃんと慰めたんでしょう、ナナさんのこと」 「俺の担当だしな。それに、つけた卓が合わなかったのなら、それは俺の失態だからな」 ふーん、そう言う風に思う人なんだ、マネージャーは。 なんか、偉いなあ。 正直言って、ナナさんが合う卓もあるとは思う。 本当にキャバクラの接客と言う仕事に慣れていないのだな、素で接することしか出来ないそんなキャストなのだな、と言うのがすぐにわかるし、彼女が彼女なりに一生懸命やろうとしているのも、私には伝わって来た。 そういう新人のキャストのお姉さんを好む客も、いるはずだと思う。 今日と言う日がたまたま週末で、まだ指名客を持っていないナナさんは、ヘルプにつくことが多かったから、あのようなことになったと言うだけだ。 あの接客も、相手がフリー客だったのならば、問題なかったかもしれない。 「マネージャー、元気出して下さいね」 「なんだ、励ましてくれるのか。はは、大丈夫だよ、俺は元気だよ」 「私も元気なので、大丈夫です。心配して下さってありがとうございます」 「ナギサも一緒なら、まあ平気か。無理ない程度で行って来いよ」 「はい、ありがとうございます」 「ナギサがもう来るだろうから、何かあったらナギサに頼るといい」 「…はい」 俺に連絡して来い、とは言ってくれない。 当たり前だ。 待機席の目の前には小さなカウンターがあって、そこには部長が座っているのだから。 でもきっと、何かあった時にラインしたら、マネージャーは少しは気にしてくれるはず。 そう思いたかった。 だって、木村さんが怒っていた時には、どうにもならなそうだったら自分を呼べと言ってくれたのだから。 でも、それも、店の中でのことだから、なのだろうか。 マネージャーの采配ミスによって引き起こされた事態だったから、自分の失態だと考えていたから、だからそう言ってくれただけなのだろうか。 多分、きっとそうなのだろうけど、でも。 「お待たせ―!うたこちゃん!行こっか。タッちゃんには、今から店出るよってラインしといたからね」 「あ、ナギサさん、ありがとうございます!じゃあ、マネージャー、部長、行ってきます!お疲れ様でした」 ナギサさんが着替え終わって、少し小走りに待機席の方へとやって来る。 彼女の私服姿はいたってシンプルで、某ブランドの少し丈の短い白いピッタリとしたTシャツに、暗めの色のスキニーのジーンズ姿。 手にしている赤いカバンと揃いの赤い色のハイヒール、と言う出で立ちだった。 豊かな胸に形の良い大き目のお尻とふくよかな太ももが強調されているけれど、細くくびれたウェストによってそのスタイルの良さが際立っている。 私は立ち上がってナギサさんの横に並ぶと、本当にちんちくりんだなあ、と言った感じがして、なんだか自分を恥じてしまう。 一応、胸はヌードブラでいっぱいいっぱい盛ってはいるけれども、本物に比べたら笑えてしまうくらいのアンバランスさで、もういっそ取ってしまいたくなった。 本来の私に似合う服装と言うのは多分、もっとボーイッシュな雰囲気のものだったり、もしくはラフな服装なのではないだろうか。 もしくは大人しく性質に合わせて、メンヘラっぽい系統の量産型女子をやった方が合ったのかもしれない。 「なんかタクシーで朝の5時までやってる、タッちゃんがよく行くキャバに行く?って言ってるんだけどうたこちゃんはいい?」 「キャバ嬢がキャバに行ってもいいものなんですか?」 「別にいいと思うよ。スナックとかにだって女の子飲みに来るでしょ~」 「ああ!ありますね、そんな感じなんですねえ」 ナギサさんと一緒に歩きながら、自動ドアを出て外の踊り場のところで私もキヨシくんにラインを打つ。 今、ナギサさんと店を出たと言うことを伝えて、どの辺りにいるのか訊ねた。 ナギサさんは踊り場を進み、やはりまだ多少は酔っているのか、うーん、と両腕を空へ伸ばすと、階段を下りて、一番下の段のところに腰掛けた。 それから化粧ポーチを出して化粧を直し始めたので、私も直しておこうと思って隣に座る。 鏡を見て、あまり化粧が崩れていない様子を確認して、頬もそんなに赤くはないし、吐いて正解だったな、と思いつつファンデーションだけを塗り直す。 「店の前まで迎えに来るって言ってたから、ちょっと待ってよーね!あー疲れたなあ」 「ナギサさん、お疲れ様でした。今日はありがとうございます、アフターまで付き合って頂いて」 「ううん!いいのいいの、ナギサどうせ暇だから。中央線沿いの小さい店らしいよ。タッちゃんて気前いいね、若いのに。タクシー代くらいくれるんじゃない?」 「どう…かなあ。なんか、謎の人じゃないですか?」 「この世なんて、謎の人ばっかじゃん。多分だけど、スカウトかなんかなんじゃない、タッちゃんって」 「スカウトですか?」 「なんとなくだけどねー」 「スカウトの人って、店、立ち入り禁止じゃありませんでしたっけ」 「そうだけど、バレなきゃいいんじゃない。別に今日、誰かキャスト引き抜いてったわけじゃないしね」 さすがナギサさんだった。 謎のタツくんの職業には、既に目星がついていたらしい。 確かに、卓につくキャストのお姉さんの接客の仕方や、店の雰囲気を探っているようなところがあったし、もしかしたら副業でスカウトをやっているのかもしれない。 それに、もしそうだったのならば、ベテランのナギサさんを場内指名したのも頷ける。 まだ25歳であるマナミさんや、新人であるナナさんにもしも場内に入れていたら、連絡先を聞き出して店から引き抜いて他の自分担当の店を紹介しようとしている、と思われる可能性があるわけだし。 何か勘づかれたとしても、そんなつもりはない、と言うことを示すことが出来るように、店のベテランである、自分で自分の働く店を選んで勤めることの出来る素質を持つ、スカウトの力を全く必要としない、そんなナギサさんに場内を入れたのかもしれない。 「いやあ、世の中って色々ですねえ」 「うたこちゃんはこれからなんだからさあ、途中で間違えないようにね」 「間違える、ですか?えっと、具体的には何を…」 「んー、まあ、お節介オバサンの独り言だよ」 「…あの、ナギサさんは、何か間違えたと、思っているんですか?」 「そうだね。だから、ナギサはもうこれ一本で行くけどね。ババアになったら太客に頼んで店出して、いつか小さい店、どっかでやりたいんだ」 「ナギサさん、カッコイイなあ!!」 「あはは!うたこちゃんて、純粋だよね。もうね、ナギサに出来ることって、これしかなくなっちゃった、って、それだけなんだよ」 そう言って、ナギサさんは憂いを含んだような表情で笑う。 私は、ナギサさんの言っていることがわかるようなわからないような、けれどちゃんとしっかりと、未来を見据えて決めていて、何かを決意してここまで来たのだ、と言うことだけはわかって、やっぱりカッコイイじゃん、と思う。 そんな彼女のことを、私は素直に尊敬の念を込めて見つめる。 「ナギサさん、私、応援してますね!」 「あはは、ありがと!うたこちゃんも、無理なくねー」 と、そこで、ナギサさんが「あ」っと、何かに気づいたように私から顔を逸らして前を見ると、化粧ポーチをバックの中に仕舞って階段から立ち上がる。 私もそれに習って、すぐに化粧品をバックの中に戻すと、視線をナギサさんと同じ方へと移動させる。 タツくんとキヨシくんが手を振りつつ、こちらにやってくるところだった。 私はまだこの時は、呑気に「何も起こらない」と考えていた。 だから微笑んで、キヨシくんに手を振れていたのだ。
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