後始末

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後始末

「リンさん、やめなさい」 キョウコさんが、ナギサさんに一言、失礼します、と断りを入れてからソファを立つと、リンさんの元まで歩いて来て、ハウスボトルをグラスに注ごうとしていたその手を抑え、ジっと彼女の目を見て視線だけで諫めているのがわかる。 キリリと上がった細い眉は、真ん中で眉間に寄せられていて、その鋭い眼光と似合わない静かな声には、思わず皆が黙ってしまう程の迫力があった。 けれど、私はもうそんなことはどうでも良いので、自分の為だけに次のウイスキーを作る。 氷をアイスペールから何個か取ってグラスへとカランコロンと三つほど放り込む。 小気味いい音に機嫌を良くして、酒を多めに注ぐと、片手でグラスを持ってカラコロと何度もその音を鳴らしていた。 リンさんに本当にキヨシくんしか指名客がいないのだとしたら、これだけ酔っぱらうと言うのはどうもおかしい。 ここが確かに大衆向けのキャバクラであったのならば、全てのフリー客が、自分の卓につくキャストのお姉さんがかわるたびに必ずドリンクを頼んでくれるとは限らないと思うのだ。 高円寺から近い駅だし、フロアを見渡してみれば、客層もどちらかと言うと若い方だと思われた。 この感じだと、指名を持つキャストのお姉さんたちの客以外のフリー客は、外でキャッチをして捉まえて迎えているような店だっりするのではないだろうか。 もし、そうだと言うのならば、尚更指名がキヨシくん一人しかいないと言うリンさんがこんなに酔っているのはおかしいような気がする。 つまり、リンさんはどの卓でも、多分勝手にハウスボトルの酒を飲んでいたのではないだろうか、と思うのだ。 しかも日常的に、なんじゃないのか、この感じだと。 飲んで愉快な気分にでもならないと、人見知りで客と上手く話せないだとか、緊張してしまうだとか、もしくは正直やっていられないだとか、何か理由があるのかもしれない。 けれど、ハウスボトルの酒を勝手に飲む、それが良いことだとは私には思えなかったし、キョウコさんも黙認出来ないと思ったから止めたのだろう。 「だって!!キヨシくん、いつも私にドリンク頼んでくれないし!!」 「だからと言って、どうしてわざわざ自分からお客様用のお酒を飲む必要があるの」 「キョウコさんはタツくんだからいいじゃん!!お酒飲めるもん!!」 「ちゃんと頼み方と言うものがあるでしょう。頼んでも、お客様によってはお断りされたりもします、当たり前のことです。だったら頼んでもらえるように、頼んであげたいと思ってもらえるように、楽しませるように努力をすればいいでしょう?」 キョウコさんが言っていることは至極全うなことで、本当にその通りだとしか言えない正論だった。 なんだかよくわからないが、キヨシくんはリンさんにはいつもドリンクを頼んであげないらしいし、リンさんはリンさんで酒が飲みたくてたまらないと言う性格らしい。 でも、私はこの店のキャストではないので、そんな事情は知ったことではない。 私には関係のないことだし、言うだけ言って、飲むだけ飲んだらスッキリしたので、私は最後のウイスキーを飲みながらナギサさんの方へと寄って行って、話しかける。 ナギサさんは、今にも笑い出しそうな顔をして、キョウコさんとリンさんのやりとりを見ていたけれど、私の呼び声に気づくと普段通りの表情へと戻る。 「ね、うたこちゃんも怒るんだねえ、ナギサびっくりしたよ」 「だって、おかしくないですか?私が全部、仕事やってたんですよ」 「私でもさすがに怒ったかもしれないけど、言い方と雰囲気は考えたかなあ。一応ね。ま、ナギサだったら、年上だから言うこと聞いたかもね、あのコも」 「私は年下ですし、リンさんは、多分私の話は聞かなかったと思いますよ」 「そうだねえ、そんな感じするね。ま、ナギサは、うたこちゃんが怒ったとこ見れて面白かったよ」 「ナギサさん、なんかすみませんでした。後、よろしくお願いします。私、帰るので、今度こそ楽しんで下さいね」 「うん、大丈夫だよ、このくらいのことなんかよくあるって!リンさんみたいなキャスト、うちの店にいないから新鮮だったなあ。じゃあ、また店でね、うたこちゃん!気をつけて帰ってね」 とりあえずナギサさんには恥ずかしいところを見せてしまったし、せっかく飲みに来ているのに不愉快な想いをさせてしまっていたら申し訳ないと思ったので、きちんと謝罪をする。 それから、私は改めてバックを腕にかけ直すと、何故だかまた自分の仕事ではないことをやる羽目になる。 「お願いしまーす」 腕をあげて、騒がしいフロアの中、私の声がこの店のボーイや店長、マネージャーなど、とにかく黒服のうちの誰かに届くよう、なるべく大きくて響く声で、言い慣れた言葉を発する。 何人かのキャストのお姉さんたちが待機していた通路の方から、黒いスーツ姿の男性スタッフが一人こちらに向かってやって来るのが見えたので、私は財布を取り出すととりあえず一万円札を二枚テーブルの上に重ねて置いた。 しかし、呼んだのは私だと言うのに、その黒服は何故かタツくんの元へ行ったので、もう何から何までこの店が嫌いになった。 基本がなってなさすぎないか、さすがに。 「何か、ございましたか」 「見たらわかると思うんですけど、何かあったので私は帰ります。それから、貴方を呼んだのは私なんですけど」 「…大変失礼致しました、お会計はいかがなさいますか」 「うたこちゃん、これ、お金いいから。俺が帰る時に払うからさ、キヨシも一緒に店出ろ。あと、リンのこと俺に場内入れてもらえる?」 「かしこまりました。…リンさん、お願いします」 「え?私タツくんの場内でしょ?どこ行くの?他に指名来た?」 「いいからリンは、一旦店長と行って来い。戻って来たらドリンク頼んでいいから」 私の隣では、ナギサさんが困ったような、微妙な顔をしながら、それでも可笑しそうに吹き出すのを堪えている。 キョウコさんが、リンさんの腕を離して、自分が元いたナギサさんの隣へと戻るとソファに浅く腰かける。 その目からは、もう責めるような厳しい色は消えていた。 リンさんが、店長らしいその黒服に連れて行かれると、タツくんが短いため息をついてから、上半身だけ倒し、私の方を向くと軽く頭を下げた。 「うたこちゃん、ごめんな。頼むから、キヨシと帰ってやってくんないかな」 「…私も、ついカーッとなってしまって、すみませんでした。リンさん、ただお仕事に慣れていなかっただけかもしれないのに」 全くもって心にもない言葉が口をついて出る。 ああ、職業病だ、私は本当はそんなことは思ってはいないし、リンさんの怠慢は良くないことだとあんなにキレていたと言うのに。 例えキャバクラで働くのがはじめてだとしても、接客が苦手だとしても、最低限やらなければいけないことや、守らなければいけないことを疎かにしていると、そう思ったから怒っただけだと言うのに。 けれど私は、ふと自分の非にも気づいてしまう。 私は、私の勝手な「思い込み」みたいな「決め事」みたいなものに、リンさんのことを当て嵌めて、「正しくない」と決めつけて怒っただけ、なのではないだろうか、と。 それって、もしかしたらあんまり良くないことなのではないだろうか。 だって、色んな価値観の人間がいて、誰もが私のような考えを持っているとは限らないのだから。 「…うたこちゃん、本当にごめん、俺が悪いんだ。先輩、俺もうこの店に来るのやめます!」 「え?え?いやいや、別にそれは全然構わないし、私全く気にしてないよ??」 「いや、違うんだ、うたこちゃん。俺がそうしたいだけなんだ」 「俺は何でもいいけど、リンは一回ちゃんと反省した方がいいと思ってたし、結果的には良かったんじゃない。まあ、店辞めるかもしんないけどな」 「マジですか!?このくらいでですか!?…なんでキャバで働いてるんだろう…リンさん…」 「ま、そういうコも多いんだよね。いやさ、ほんとうたこちゃんには悪かったよ、まあキヨシもちょっと鈍感だしさ、許してやって」 「はあ…はい、まあ、私も感情的になってしまって、ダメだなあって反省していたので。じゃあ仲直りしよっか、キヨシくん」 「…ありがとう、うたこちゃん」 キヨシくんは心底安心した、嬉しい、と言うような顔をしてくれるけれど。 でも私は、もうキヨシくんのことを、「私に普通の19歳の女のコの時間をくれる、ちょっと特別な客」としては見ていなかった。 まあ、それは全て、私の勘違いだった、と言うだけなので彼が悪いわけではないのだ。 今や、店にそんなに金を落とすことが出来ない客、でしかなくなったキヨシくんを、わざわざ大袈裟に喜ばせたり、楽しませたりする必要性など全く感じない。 けれど、一応この場をおさめる為には、以前までの「うたこ」の演技をしなければならないので、私はキヨシくんと握手をして、ニコっと微笑む。 「帰ろっか、キヨシくん。タツくん、今日はご馳走様でした」 「いいよいいよ、迷惑料だとでも思っといて」 「ナギサさん、キョウコさん、それではお先に失礼しますね」 「はーい!うたこちゃん、まったねえ!」 「本当に申し訳ございませんでした。お気をつけて、帰って下さいね」 「いえいえ、キョウコさんは何も悪くないですし、謝らないで下さい!むしろ、ありがとうございました!」 テーブルに出した二枚のお札を財布に戻すと、私はソファから立ち上がる。 少しばかりクラクラとしたが、このくらいだったらまだなんとかなる、と言う程度ではあった。 怒りでウイスキーの一気を繰り返す、なんてバカなことをしたものだ。 ただでさえ勤務中にもあんなに沢山飲んでいたと言うのに。 ああ、もうなんだか、私はすっかりクタクタだ。 キヨシくんも私に合わせて立ち上がったので、二人でテーブルを避けて狭い通路へと出た、その時、店長らしい人と一緒にリンさんがこちらへと向かって歩いて来た。 もう、顔も見たくないんだけどな、と思いつつも、店長らしいその人と、あまり反省はしていなさそうなリンさんから謝罪をされてしまう。 「不愉快なお気持ちにさせてしまい、大変申し訳ありませんでした」 「…すみませんでした」 多分、何も反省していないと思われるリンさんは、それでも、多分精一杯なのだろう、私とキヨシくんに頭を下げる。 きっと、こういうコなのだろう。 適当に一般的なバイトよりは給料の良いバイトをして、適当に最低金額を店にいた時間分貰えればそれだけで良いのだ。 この世には、はじめから仕事内容を覚える気もなく、真面目に仕事に取り組んだりするのなんてバカらしい、くらいの気持ちで働いている人だっているのだ。 出来れば誰にでも好かれていたくて、無理にでも八方美人ってやつをやって。 自分の生きている理由がわからなくて、目に見える価値が欲しくて。 好きな人に褒められたくて、可愛がられていたい一心で、ギリギリのところをいつも無茶をして。 本当はいつだって叫び出しそうな精神を押し込めて抱えて、それでも必死に一生懸命、出来うる限りの全てを尽くして、ひたすらにがむしゃらにやって来た私とは、何もかもが違って当然なのだ。 「私の方こそすみませんでした。リンさん、楽しんで下さいね。では失礼します、見送りは不要です」 「あ、うたこちゃん、待って!!」 もう笑顔を作るのも疲れたので、素でそれだけ言うと、私はくるりと背中を見せてすぐ目の前に見える小さな扉を多少乱暴に開けると、すぐに辿り着いてしまうエレベーターの前に立つ。 まだ終わらない。 まだ客がいる。 キツイなあ、と思いつつも、ボタンを押す。 その客、であるキヨシくんが小走りで追いかけて来て、私の隣へと並ぶ。 どうしようかな、駅前に何かあるかな、出来れば1人で飲み直したい気分だけれど、そういうわけにもいかなさそうだし、と考えてまた憂鬱になる。 だって私、もうキヨシくんが店に来なくなっても、どうでもいいんだもの。
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