警鐘の音

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警鐘の音

店の入っていたビルを出ると、そろそろ9月に入るとは言え、エアコンの効いていた室内とは違って、少々むわっとした軽い熱気に包まれて、思わず顔を顰める。 いや、もしかしたら酔いのせいで、ただ顔や体が熱を持っていて、余計暑く感じてしまっただけなのかもしれない。 すぐ横には、閉まっている駅が見えて、もっと先、バスターミナルを通り過ぎた向かい側には居酒屋の看板が一つ灯りを燈している。 どうやら高架下にも何か店があるような雰囲気だったので、私はとりあえずその辺りを見てみるか、と思い、キヨシくんに話しかける。 「キヨシくんはどうする?帰る?私は飲み屋さんを探して、時間を潰そうと思ってるんだけど」 「あ、あの、うたこちゃん、いきなりで、嫌かもしれないんだけど、良かったら俺の部屋で飲まない?」 「はあ?」 「今日は、本当に色々ごめん。俺、ちゃんと落ち着いて、うたこちゃんに話したいことがあるんだ」 「…悪いけど、私、男の人の部屋には行きたくないんだ」 めちゃくちゃ嫌な内容のお誘いだったのと、酔いの力もあってか、思わず不信感をあからさまに態度に出してしまった。 それに、軽々しく男の人の部屋に女一人で酒を飲みに行くような女だと思われているのだろうか、と思うと不愉快だった。 いや、マネージャーの部屋にはあっさりと行ったので、そんな私が何か言えた口ではないのだが、彼は、キヨシくんは、マネージャーとは違う。 私の好きな人ではないし、友人でもないし、何よりも店の客だ。 「俺、いい雰囲気の飲み屋とかも知らないし、他に落ち着ける場所って、わかんなくて…どうしても、ダメかな。絶対に何もしないから」 「…ほら、あそこ、目の前に居酒屋さんあるよ?そこじゃダメなの?」 「ちょっと…言いにくいんだけど、カッコ悪くて言いたくなかったんだけど、俺、タクシー代くらいしか、もうなくて」 「じゃあ、先に帰りなよ。無理して私に付き合うことないんだよ?」 「お願い、部屋なら先輩が普段来るから、色々酒もあるんだ。始発まで、って…約束は、もう、ナシなのかな…?」 「……」 「俺、頑張れてなかったかな、今日…。そりゃあ、ほとんど先輩がやってくれたようなもんだけど…でも、次からはきっと、俺がもっと、自分で…!」 「……うん、始発まで、って。確かに、約束したね」 キヨシくんは、私が結構ハッキリ目に断っても、珍しく全然退かなかった。 話したいことと言うのは、多分告白とか、なんかそう言ったことなのだろうと予想は出来ていた。 キヨシくんの部屋へ行ったところで、彼ならば本当に何もしないだろうと、私は思っていた。 付き合ってもいない女のコに、嫌がっている女のコに、無理に手を出すようなタイプには思えなかった。 それに、そうだ。 私は、ちゃんと彼と約束をしたのだ、「始発までは一緒にいる」と。 「うたこちゃん、お願いします、今日の俺の失敗、挽回させて」 「挽回?そんな、キヨシくんは悪くないよ。私が勝手に思い違いしてただけなんだから」 「…思い違い?」 「そう。だから、私がバカだっただけ。キヨシくんは何もしてない」 「うたこちゃんは、バカなんかじゃないし、そんなこと言わないでよ…」 「…、本当に、始発で私、帰るからね。絶対だよ?」 ちゃんと、キヨシくんの気持ちを断ち切ってあげて、それで終わりにしよう。 そしたらもう、彼はキャバ嬢に入れ込んで無駄な金を遣い続けて、無理をして生活をしなくて済むようになるのだ。 それに私ももう、今までのようにキヨシくんに接することは二度と出来ないだろうし。 店にももう来なくていいし、彼には、私の客であることを辞めさせてあげなくては。 そんな責任なんて自分にはないのに、私はそんな風に思ってしまったのだ。 キャバクラになんて通わないで、自分に似合う普通の女の子と恋愛をして、付き合って、ちゃんと幸せになれる人生を歩めばいいのだ。 彼は、私とは違う、そう言う、もっとちゃんと明るいところを歩いた方が良いに決まっているのだから。 「ありがとう、うたこちゃん!じゃあ、行こう!先輩が持って来てくれた、焼酎とかもあるし!うたこちゃんは、普段何が好きなの?」 「…そっか、タツくんはお酒好きそうだもんね。キヨシくんは実は、そんなに好きじゃないでしょう?」 「好き嫌いじゃなくて、そんなに強くないってだけなんだ。でも、うたこちゃんが来てくれるなら、俺も一緒に飲むよ」 駅前のタクシーが停まっているところまで、一緒に並んで歩く。 私は、なるべく今までキヨシくんに対してとっていた態度を続けられるように心がけてはいた。 それでももう、当然のように私に向かって手を差し出したキヨシくんの手を、握り返すことはなかった。 腕も組まないし、手も繋ぐ気もなかったので、わざと片手にバックを持ち、もう片方の手では取り出したスマホを持って、今が何時なのか時間を確認していた。 そっけないと思われてももう構わないので、キヨシくんの部屋のある駅から自分の部屋のある最寄り駅までの始発が出る時間を検索した。 なんだ、あと一時間程で、もう始発は出るではないか、と思うと気分が少しばかり楽になった。 タクシーに乗り、キヨシくんが行先の駅名を運転手に告げると、私はシートに寄りかかって、ふう、と一息ついた。 キヨシくんはずっと色々な話を私に振って来るので、多分それなりに酔ってもいて、尚且つ緊張もしていたのだろう。 私は、話を合わせつつ、それでももうどの内容にも強く興味を示したり、楽しそうにはしゃいだりすることはなかった。 タクシーで行くと、意外と短時間でキヨシくんの部屋のあるらしいアパートの最寄り駅へと着いたので、さっきの店があった場所からだったら、もしかしたら私の部屋のある最寄り駅の方が近かったのではないだろうかと思った。 とっととタクシーに乗って、先に一人で帰るんだった、と後悔してしまう。 ああ、面倒くさいなあ、と思いつつも、二人でタクシーを降りると、キヨシくんの案内を聞いて歩き、彼の住まうアパートへと向かう。 果たしてそのアパートとやらは、駅からほんの1、2分足らずと言う、とっても便利そうな立地の場所に立っていた。 しかし、正面から見ると一体築何年なの?何十年前からそこに建っているの?と言った風貌で、二回建てで全部で六部屋ほどしかないと言う、小さな建物であった。 間取りは多分そんなに広くはない、1Kほどの部屋なのであろうと言うことが外からでも見て取れた。 やはりキヨシくんには、キャバクラに通って無駄な金を遣う生活など似合わないのではないだろうか、と改めて思う。 いや、まあそれはキヨシくんの勝手であり、自由なので、本来ならば私が口を出すことではないのだけれど。 でももう今日からは、私に夢中でいてもらう理由もないし、私の為に生活費を無駄にすることもないのだから、今までよりは自由になる金も増えるだろう。 そうしたら、きっともっと楽しい幸せなことが待っているのではないだろうか。 「キヨシくんの部屋は、一階?二階?いいね、駅からすごく近いんだね。便利でしょ」 「二階だよ。そうなんだ、駅から近いからここにしたんだ。今ね、俺、仕事二つやってるから、移動にあんまり時間取れなくて」 「そうなの?新聞屋さんだけじゃなかったんだ。じゃあ、毎日忙しいし、疲れるでしょう」 「新聞屋は、18時には終わるから、ちょっと休憩してから、先輩に紹介してもらったバイトをはじめたんだ」 「…あんまり無理しない方がいいよ、向いてる向いてないがありそうな仕事でしょ、それって」 「うーん、どうなのかな。でもさ、俺、もう少ししたらもっとちゃんと稼げるようになると思うんだ。だから、頑張ってみるよ」 「そう…」 簡素な鉄骨の階段を上がって、一番手前の部屋がキヨシくんの部屋だった。 鍵を回し、扉を開けてくれたので「お邪魔します」と言ってから先に中へと入る。 玄関は凄く小さくて、靴を沢山置くことは出来ないようで、何足か端っこの方に重ねて置いてあった。 左側にキッチンのガスコンロがあって、すぐにシンク、その先に一人暮らし用の冷蔵庫が並んでいる。 玄関を上がった靴が重なっているすぐ横のところに洗濯機があって、キッチンの向かい側には扉が一つだけあった。 多分、中はユニットバスになっているのかな、と思った。 上がって、と言われたので、ハイヒールを脱いで、三畳あるかないかのフローリングの床へと膝をつくと、玄関の石の部分にカカトの部分を揃えて並べてから立ち上がる。 「一応今日、部屋片づけたんだけど…あんまり綺麗じゃなくてごめんね」 「そうなの?全然汚くなんてないよ、それに私の部屋の方がずっとひどいよ」 そう言って笑う。 キヨシくんも靴を脱いで入って来ると、突っ立っている私の前を通り、冷蔵庫の中からビールや缶酎ハイを何本か取り出して胸に抱える。 すぐに奥にある生活スペースであろう部屋へ通じるガラスの引き戸をスライドさせると、私にもこっちに来て大丈夫だよ、と言う。 私は、ため息をなんとか喉で殺すと、キヨシくんの言う通りにする。 そうか、はじめから今日、私のことを部屋に呼ぶ予定だったのか、となんとなくわかった。 キヨシくんは、その為に部屋を片付けて、そしてアフターでどこかでタツくんたちと飲んだその後で、私を部屋へと連れてくるつもりだったに違いない。 もしかしたら、タツくんの入れ知恵だったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。 でも、シャンパンを店で入れてアフターへ行く為にラストまでの時間分の料金を支払い、私の成績に貢献し、その後で私をある程度酔わせて気分を良くして、この状況を作り出す予定だったのだろう。 そんな気がした。 「どこでも、適当に座ってね」 「ありがとう、漫画、沢山あるね」 「うん、好きなんだ。うたこちゃんは、何か好きな漫画とかある?」 「昔は漫画が大好きだったんだけど、最近全然読まなくなっちゃったなあ。でも、少女漫画より、少年漫画の方が好き」 「よかったら、何か借すよ、見てみて」 「…うん、ありがとうね」 六畳ほどだろうか、そこは畳の敷かれた和室で、結構大きな本棚が二つほど壁際にあり、横には収納スペースのあるテレビ台の上に小さなテレビがあり、すぐ下にはプレステが置いてあった。 本棚の中身は漫画でぎっしりと埋まっていた。 私が知っている、昔よく読んでいた漫画なんかも全巻揃っていたり、タイトルだけ知っている漫画や、見たことのない物もあった。 けれど、私は漫画を読みに来たわけではないし、例え借りたとしても多分返す機会はもうないような気がしていた。 本棚とは逆の壁際に、下が収納付きになっているシングルベッドがあって、丁度中心にシンプルなローテーブルがあり、周りを長座布団と普通の四角い座布団が囲んでいた。 私は、とりあえず窓際の方の長座布団の方に正座をすると、キヨシくんがテーブルの上に酒類を一つずつ置いて、私の向かい側へと腰を下ろした。 あーあ、結局来ちゃったよ、部屋まで。 本当に私って大バカだなあ、と思うと、空笑いしたいような気分になった。 酒の飲み過ぎだろうか、耳鳴りがしていた。 まるで警鐘のように、グワングワンと両耳から脳に向かって不愉快な音が大きくなったり小さくなったりする。 頬を染めて、ソワソワとしている様子のキヨシくんを見ると、ひたすらに自分を殴りたい気分になった。 私に好意を寄せるキヨシくん、その彼の部屋で二人きりになる。 何も起こらないわけなど、なかったのだ。
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