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人殺し
どうせ後少しですぐに始発が出る時間になるのだから、酒なんか特に飲まなくたっていい。
けれど、どれだったら飲める?と聞いてくるキヨシくんに、要らない、とは言えず、私は酎ハイを選んでプルタブをあける。
一口だけ飲んで、そのまま両の手の平で缶を包むと、正座している太ももの上で中身をぬるくする。
「あの、うたこちゃん、約束、守ってくれてありがとう」
「ううん、いいよ。でも、そんなに長居は出来ないからね。始発、もうすぐ出るし」
「良かったら、ゆっくりしてって、…って言っても、ダメかな」
「明日、…って言うか、もう今日だけど、予定があるし」
「…そっか」
物凄くわかり易くキヨシくんは落ち込むと、缶ビールをあけて、何かを吹っ切るように一気飲みをする。
友達と宅飲みをするわけではないので、私はチビチビと、これ以上酔いが回らないように、適当に口をつけるだけにする。
でも、このままキヨシくんが一気飲みばかり続けて、酔っぱらった勢いで私に何かして来たら困る。
彼がどんなに優しくて、気が弱くて、どちらかと言えばいい人だとは言っても、男性であって私よりは体も大きくて力もあることにはかわりないのだから。
「キヨシくん、話って何?時間、なくなっちゃうよ」
「…あ、ごめん。あの、うたこちゃんは、好きな人…いるよね」
「…いる」
「……ねえ、その人は、うたこちゃんが飲み屋さんで働いていても、いいって言ってくれるような、人なの?」
「…もしかして、お説教、かな?」
「違う違う!!そうじゃないんだ。あの、もし俺だったら、うたこちゃんの全部、仕事だって含めて、全部!嫌だなんて絶対に言わないし、思わないから、だから、」
だから、と、もう一度呟くと、キヨシくんは新しい酒をすぐにあけて、また一気飲みをしようとする。
さすがに私はそれを止める。
彼は酒に強くないし、あまり酔っぱらって本当にタガが外れてしまったら大変なことになるかもしれない。
それを例え本人が望んでいるのだとしても、私はそんなことは絶対に許さない。
「キヨシくんは、もうお店に来ない方がいいよ」
「…でも、俺は、うたこちゃんに会いたいんだ」
「ありがとう。でもね、無理をして通ってくれてるのわかってるし、キヨシくんにはちゃんと、もっと貴方だけのことを大切にしてくれる、普通のコがいるよ」
「うたこちゃんだって、普通の女の子だよ」
その言葉に、私は自嘲と、嘘つき、と言う意味を込めて思わず吹き出す。
そう思っているかもしれないけれど、彼は私のことを他の店でもキャストの女の子として扱ったじゃないか。
無意識だとしても、気づいていないとしても、それが真実で、私はそのことに少なからずショックを受けた。
そして、そのショックを受けたと言う事実が、私には恥でしかなかった。
だってそれは、もしかしたら私は何かを少しだけ彼に期待していたのかもしれない、と言うことだからだ。
もしかしたら、私のことを≪ふつう≫へと、戻してくれる男性なのかもしれないって。
バカだな。
今更、何にもどこにも戻れるわけなんてないし、誰にもそんなことは望まれていないのに。
だって、私自身が望んでいないのだから。
「私、始発が出るから、そろそろ帰るよ」
「待って、うたこちゃん、行かないで」
脇に置いていたカバンの中でスマホを操作して時間を確かめると、そろそろキヨシくんの部屋を出て駅に向かっても良さそうだった。
最後に、いつもそうして来たように、ちゃんと客ではない彼に向けていたであろう笑顔を作ると、まだだいぶ中身が入っている酎ハイをテーブルに残して立ち上がると、歩き出す。
「色々ありがとう、キヨシくん。じゃあね」
横を通る時に、キヨシくんが膝立ちになって腕を掴んでくる。
私は冷たく、その腕を跳ねのける。
彼は驚いたような、傷ついたような表情をした。
私は、人のことを傷つけるのは嫌だったし、とても苦手だったけれど、そうするしかなかった。
玄関へと向かって進む私のことを、キヨシくんは追いかけて来て、キッチンの真ん中辺りで背中から思いっきり抱きしめて来た。
私は身の危険を感じて、お腹に回された腕に手をかけて、ギリリ、と全ての指で思いっきり爪を立てる。
「行かないで、聞いてよ」
「やめて、私、帰るから、離して!」
「うたこちゃん、聞いて!」
「大声、出すよ!!」
「…好きなんだ、だから、また会いに来てもいい、って、言ってよ…」
店に会いに来るのは、キヨシくんの自由なので、私が来るなとは言えない。
けれど、最悪このままストーカーのようになってしまうようであれば、部長に頼んで出入り禁止の客にしてもらうことは出来る。
どうしよう、そうしてもらった方が、良いだろうか。
それとも、もういっそ、悲鳴を上げてしまおうか。
だって、私の頭はもうとっくにパンクしているのだから。
どうにか取り繕って、なんとかまともぶって生きているだけで、本当はずっとずっと前から継ぎ接ぎだらけなのだ。
「もう、やめて!!」
惨めになるからやめて、叫び出しそうになるからやめて、壊さないで、これ以上私の心の中を踏み荒らさないで。
なんとかして、なんて思ってたんだ、きっとどこかで。
普通の男性と普通の恋愛みたいなのをして、店も辞めて、何か他に出来る昼間のバイトを見つけて、優しい彼氏に毎日好きだよなんて言われて、大事にされてみたかったんだ。
そんなこと、私は知りたくなかった、気づきたくなかった、思いたくなかった。
目なんか覚めなくて良かったのに、私はずっとずっと崖っぷちのところを走り続けていたかったのに。
ぶっ倒れて死ぬまで、そうやって生きていたかっただけなのに。
「…うたこちゃんが、好きになってくれるように、頑張るから!!」
「ならない!!私はキヨシくんのことは好きにならない!!」
「また、会いに行ってもいいって、言ってよ!お願いだから…!」
「もう、離してえっ!!」
「うたこちゃん!!」
体を捩って、私は暴れて、ドタドタと足音を立てた。
ここは2階だから、1階の部屋の住人がもしまだ寝ていたら、起き出して文句を言いにやって来るかもしれない。
そうすれば、キヨシくんは私のことを離すしかないだろうと思った。
肩口に埋められた、彼の唇から漏れる熱い吐息が首筋にかかるのが、嫌で嫌でたまらなかった。
助けて、と、金切声を上げようとした、その時だった。
体を横抱きの形へと、反転させられていた。
本当に一瞬だった、時間が止まった、違う、あまりにも早すぎたように感じて、止まってしまったような気がしただけだった。
実際に止まっていたのは、凍り付いた私の心臓、心の方だった。
キヨシくんが、無理やりに私の唇に自分の唇を押し付けて、舌で抉じ開けようとしていた。
頭の方は、カッと血が上ってマグマのように沸々と泡を弾けさせているのに、まるで世界が、自分が、何もかもが冷えすぎて、死ぬような気がした。
― このひとじゃないのに。
強く噛みしめた下唇ではなく、無防備な上の唇の方から侵入され、その先端が前歯に届く。
私は力を込めて、キヨシくんの脚に密着させられていた方の右脚を振り上げると、膝で彼の太物の辺りをガスッと突いた。
何度も、何度も、繰り返しそうして、諦めたように唇が離された途端に、絶叫した。
「人殺し!!舌噛んで死んでやる!!」
頭を思いっきり左右に振って、両腕でキヨシくんの腕をひっかきまくって、喚き散らすようにそう言うと、ふ、っと、彼の腕の力が弱まる。
私はその瞬間を逃さず、その腕を振り払って走り出す。
玄関にあった自分のハイヒールをひっつかむと、その勢いのまま鍵とドアを開けて外へ出る。
ガシャン、と、音を立てて外廊下の手すり壁と手すり子に体が叩きつけられたけれど、そんなことには構っていられない。
扉が閉まる音を聞くよりも早く、鉄骨の階段を裸足で駆け降りる。
そのまま道路も、砂利道も、肌を晒した足の裏で踏みつけて、駅のある方へと向かってひたすら駆けた。
マネージャー!!
マネージャーに会いたい!!
中村さんに、会いたい!!
じゃないと私、多分、本当に死んじゃう!!
つらい、つらい、つらい、中村さん、また、私のあたま、おかしくして!!
中村さんと、一緒に煙草を吸いながら焼酎を飲んで、鼻歌を歌いながら、洗濯物を干したりしたい。
頭を撫でて欲しい、店の話がしたい、仕事の話がしたい、私に頑張れって言って欲しい、おまえなら出来るよって言って欲しい、そうやって私のことをまた正気じゃなくさせて。
私は、正気では生きて行けないのだから。
また私の、誰かが、何かが死ぬ歌を聴いて、笑って一緒に歌って。
― 本当は、お願いだから、一度でいいから、嘘じゃないって言って。
好きって言って、もっとちゃんと私のことをしっかりと操って。
そうしたら私は人形のように、そういう風にプログラムされたロボットのように、中村さんの言うことだけを聞いて動くだけの傀儡になれるのに。
そうやって、生きて行けるのに。
私は電車を待つ間にキヨシくんが駅へと来ないように、駅前に停まっていたタクシーに乗ると、自分の部屋の最寄り駅の名前を運転手に告げる。
力が抜けて、今にもシートに倒れ込んでしまいそうだった。
肩で息を整えながら、なんとかハイヒールを履く。
カバンの中からスマホを取り出すと、その画面にぼたぼたと何かが零れて濡らして行く。
そこでやっと、自分が涙を流していたことに気づいた。
― 悔しい。
運転手は何も言わない。
けれど、バックミラー越しに、目が合った。
私の顔は、歪んですらおらず、ただただ無表情な中、涙だけがとめどなく流れて頬を光らせていた。
恥ずかしくて、ハンカチを出すとすぐに目の下の部分だけに押し付ける。
アイメイクが落ちるのを防ぐ為に、瞼の上から全体を覆うようなことは出来なかった。
化粧は、私のことをなんとか強くさせておく防具であり、武器の一つだったので、泣く時にこうすることが癖になっていた。
私は、一人きりでないと、泣くことすら出来ないのだ。
早く部屋に着け、そしたら化粧を直して、中村さんの部屋に持って行く物を選んでキャリーケースに詰めて、それから、そしたら、もう、すぐに。
行ってしまおうか、会いに。
迷惑だと言われるだろうか、それとも他の女がいたりするだろうか、もしかしたら嫌われてしまうだろうか。
連絡をしたら、返事をくれるだろうか。
今日は、行くと言っていないし、来て良いとも言われていない。
ダメだろうか、どうしても、そうしたかったからと言う理由だけでは、ダメなのだろうか。
でも、中村さん、私は貴方に会わないと、きっとこれから沢山の薬を酒で一気に飲んでしまうんです。
そして、客への営業ラインも出来ず、電話も怠り、昏々と眠り続けてしまいます。
下手をしたら無断欠勤してしまうか、遅刻をしてしまうかもしれないんです。
何より、月曜日に来店してくれる指名客が減るかもしれないし、私はNo上位から脱落してしまうかもしれないんです。
私には、細かな営業を忘れずに行うこと以外、何の取柄も魅力もないので、誰も来てくれなくなってしまうかもしれないんです。
一日でもサボれば、私なんかまた、ただの何でもない、No上位に入ることの出来ない、価値のないキャストへと逆戻りしてしまうに違いないんです。
私は、そんなのは嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だよ!!
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