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書庫で彼女と二人きり
「殿下、どうぞ」
古い本独特のにおいが鼻腔をくすぐる。
このにおいがたまらなく好きなのである。それは、アリサも同様である。
これはきっと、本を愛する者の共通点なのかもしれない。
「ちゃんと準備をしております。申し訳ございません。本来なら上階の執務室でゆっくりご覧になっていただきたいのですが……」
彼女のこの台詞もいつも通りである。
「承知しているよ。こうして見せてもらえるだけありがたい」
そうして、いつものように応じる。
「ご理解、ありがとうございます。頼まれていました資料は、こちらの机に準備しています。わたしは上階にいますので、ごゆっくり閲覧なさってください」
これもまた、いつも通りである。彼女は、いつも書庫に設置している机に資料を準備してくれている。
資料というのは、彼女に会いたいが為、わずかな時間でも彼女といっしょにすごしたいが為の言い訳というかごまかしである。それなのに、彼女はいつもきっちりと準備をしてくれるのである。
心苦しいし申し訳ないとも思っている。もちろん、まったくの嘘ではない。つぎに行う会談の相手国の資料を要望しているのだから。だけど、その資料がぜったいに必要で重要かというと、正直なところあまり必要ではないし重要ではない。
彼女は、資料が山積みされている机に導いてくれた。そして、一礼して背を向けてしまった。
いや、待ってくれ。
思わず、彼女の背に手を伸ばしてしまった。
「アリサッ」
必死である。ドキドキもさることながら、焦りまくっている。
彼女の名を思わず呼んでしまったが、物音一つしない書庫内でそれは大きすぎた。
「その……。仕事というか用事というか、しなければならないことあるのかな?」
いまの台詞も、いつもと同じである。
「二、三ございますが、どれも急ぎではございません。何かご要望がございましたら、すぐにいたしますが」
彼女のいまの台詞もまた、いつもと同じである。
かんがえてみたら、わたしたちはずっと同じことを繰り返している。
そこから後退することはない。だけど、前進することもない。
いいや。いまこそ、今度こそ、今日こそ、このときこそ前進すべきなのだ。
「だったら、いっしょにいてくれないかな?」
よしっ。いいぞ、その調子だ。
「はい?」
伏し目がちの彼女を見つめながら、言葉をつむぐ。
「あ、いや、その……。書庫は、どうも怖くてね。一人っきりだと不安になってしまう」
うわあああっ!
わたしは、いったい何を言っているんだ?
彼女を引き止めたくて、これまでいくつかの言い訳を使い分けてきた。
よりにもよって、大事なこのときにかぎってこんな情けない言い訳が口から飛び出してしまった。
いい歳をして、これだとただの臆病者じゃないか。
彼女に「情けないやつ」認定されてしまう。
「かしこまりました。それでは、すぐそこの区画の書棚を整理しております。何か御用がございましたら……」
さきほどの「一人っきりでは怖いからいっしょにいてくれ」という情けなさすぎる言い訳に、思わず言い訳しようとしたのに、彼女に先をこされてしまった。
「あ、いや、行かないで。その……。そう、そうだ。ほら、椅子を持ってくるから、ここに座ってくれないかな?」
彼女に去られてしまっては元も子もない。そう言いながら、向こうにある椅子まで駆けて行ってさっさと運んで机のすぐ側に置いた。
いままでだったら強引かな、という行動でもとらなければならない。
まだ公にはなってはいないものの、彼女はフリーになったのだから。
「殿下、それでは近すぎて気が散ってしまわれます」
彼女の困惑の声にハッとした。
自分の椅子の真横に置いた彼女の椅子……。
たしかに近すぎる。いくらなんでも、いまはまだそういう関係になっていないのだから、彼女としては節度を守ろうとするのは当然のこと。
「す、すまない。そうだね。きみの言う通りだよ。では、こうしよう。ほら、机をはさめばいい」
これ以上譲歩するつもりはない。
「さあ、ここに座って」
真向かいに椅子を置き、彼女を促した。
彼女は、素直に座ってくれた。
さあ、告げるぞ。
とはいえ、唐突すぎる。
そうだ。とりあえずは、本の話をしよう。恋愛物の小説の話題でもだせば、そういう雰囲気になるかもしれない。
よしっ!
実行あるのみ。
「ところで、アリサ。きみはもう、隣国の作家ラドルフ・カーンの「愛と憎悪の果てに」を読んだかい?たしか、先週入荷するよう館長にお願いしておいたんだが。外交で隣国に行った際に発売されたばかりだったから、さっそく購入して読んでみたんだ。最高に面白かったよ。だから、すぐに仕入れてもらったんだ」
ラドルフ・カーンは、恋愛物だけでなく冒険物や推理物など何でも書けるオールマイティーな作家で、彼女とともに昔からファンの作家の一人なのである。
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