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ある満月の夜に
生暖かい風が吹いた。私は岸壁の淵に立ち、海を眺めている。崖の下は目も眩むような高さだ。満月の灯りに照らされて、岩にぶつかり砕け散る波が遥か下方に見えた。
こんな夜はきっと来るに違いない。そう思っていたら、後方から砂利を踏みしめる足音が近づいてきた。
そちらに視軸を定めていると、20代後半と思しき女性が姿を現した。俯き加減に歩くうち、足元は露出した岩肌へと移っていく。
それ以上前には進めないと言うところまで来たとき、彼女はようやく顔を上げた。何かを確かめるかのように、ゆっくりと辺りを見渡し、そして私と目が合った。
「ヒッ」と短い悲鳴を上げて後退る。その拍子にかかとを岩に引っ掛け、彼女はその場に尻餅をついた。それでも視線は私に向けられている。
「ゆ、幽霊?」
独り言のようなその言葉に、
「私のことが見えるということは、あなたは死ぬ覚悟ができているということですね?」
彼女はコクリと頷くと、
「どうせ生きていたっていいことはないから」
四つんばいになり、崖下の海を覗き込む姿は今にも身を投げ出しそうだ。
「待ちなさい」
「なに?」と怪訝な眼差しが私に向けられる。
「そんなに急がなくてもいいのではと思いまして」
「もしかして、止めてるつもり?」
「ええ、まあ」
「幽霊のあなたには関係のないことでしょう?」
「そうでもないんですよ。実は私も、ここから飛び降りた口でしてね。もう20年以上も前になりますか。あの頃はパワハラなんて当たり前でしたから。営業成績が上がらないと、そりゃもうひどい有様でした。それが耐えられなくなって、気がつけばここに来ていました」
「はぁ……」と彼女は困惑した表情を浮かべた。まあ見知らぬおっさんの、ましてや幽霊の身の上話を聞かされればそうなるだろう。
「それで実際死んでみて気付いたんですけど、やっぱり死ななきゃよかったなぁ……なんて思うわけですよ」
「私は後悔なんかしないわ」
きっぱりと言い切った彼女は再び崖下を覗き込んだ。
飛び降りさせてはならないと、慌てて問いかける。
「ちなみに、あなたはどうして死にたいと?」
すると彼女はしばらく私の顔に睨むような眼差しを向けた。やがて大仰にため息をつくと、ぺたりと岩の上に座りなおした。
「何もかも嫌になったのよ。何をやってもうまくいかないし、誰からも必要とされていないし。それで、カウンセリングに行ったの。親の勧めで。そうしたらそのカウンセラーが、わかったような御託を散々並べ立てたあと、最後にこう言ったの。あなたにしか出来ないことを見つけなさい。って。そんなことは百も承知なのよ。それが見つからないから何もかもがうまくいかないんじゃない。でもね、そのときふと思ったの。一つだけ、私にしか出来ないことがあるじゃないって。なんだと思う?」
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