ある満月の夜に

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「もしかして、死ぬこと、ですか?」 「そう。自分の命を絶つことなのよ。これならあのバカなカウンセラーへの意趣返しにもなるじゃない」  さも楽しげにくすくすと笑う横顔に、私は静かに言い放った。 「それは間違いだと思いますよ」 「なにが?」と彼女が眉根を寄せた。 「あなたにしか出来ないことが、自分の命を絶つことだという考えですよ。だって、あなたの命を絶つのはあなたじゃなくても出来るじゃないですか。やる気さえあればその辺にいる人にもできるんです。私にだってあなたを崇り殺すことくらいは簡単にできますから」 「崇り……殺せるの?」 「いや、例え話なだけで実際にはやりませんからご安心を」  表情を強張らせていた彼女がほっと息をついた。 「あなたにしか出来ないことは、命を絶つことじゃありません。その逆です」 「逆?」 「その命を、燃やし続けることですよ。あなたにしか出来ないことは、どんなにつらいことや苦しいことがあっても、その命の火を、寿命が尽きるまで全力で燃やし続けることなんです」 「命の火を、燃やし続けること?」  無意識なのだろう。彼女の右手はぎゅっと自分の胸を掴んでいた。  次の瞬間、視線を上げた彼女は「え?」と言ってきょろきょろと辺りに視線を廻らせた。 「消えた……」  私のことが見えなくなったのだ。と、言うことは、彼女の中の死の覚悟が薄らいだのだろう。  徐に立ち上がった彼女は両手でズボンのお尻をはたいた。 「ばかばかしい。何が命の火よ。幽霊に説教されるなんて最悪じゃん」  それから崖下を覗き込むと、 「まったく……。死ぬ気が失せちゃったじゃない」  愚痴のようにこぼしてから踵を返し、来た道を戻っていった。  ここはW県S町の海岸線にある断崖絶壁だ。その景観から名勝として知られているのだが、一部では自殺の名所としても有名だった。そんな場所だから幽霊が出るとの噂が絶えず、私も若い頃には肝試しにきたことがあった。結局そんなものは見ることが出来なかったのだが、まさか後に自分が幽霊になるとは思いもよらなかった。  私がこんなことになった理由は明白だ。この世に悔いを残したからだ。何も死ぬことはなかったのだ。少し休むか、逃げ出せばよかっただけなのに。  こんな思いを他人にはさせたくない。そう考えて私はここに留まり、自殺者の抑止に努めている。今日の女性で236人目だ。  今になって思う。これは、私にしか出来ないことなのだ。
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