3話

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3話

 故郷を離れ、遠く東京の地へと降り立った私の生活はそれなりに苦労もあったが、大学では学友にも恵まれたこともあり、悠々自適に楽しい日々を過ごしていた。勉学に励みながら友人と遊んだり、アルバイトに励んだり、サークルも活発なものでは無かったが気を休めるには丁度良い時間だった。なんてことは無い、特に変わり映えのしない人並みの大学生活である。  それなのに、私はいつも何かしら違和感を覚えていた。何かが足りないような不足感と言えば良いか、それとも変わり映えのしない日々への空虚さと言うのか。私の乏しい語彙力では形容しかねる重石のような何かが、私の心に引っかかっている。そんな気分だ。  別に周囲の人間関係に対して、不信感や嫌悪感を感じたことは無い。むしろ友好的に接してくれる人々の存在は喜ばしくて尊いものだと思っている。では、学業への不満か?それともアルバイトか?それとも・・・・・・何だろうか。うむむと唸りながら、1人考え込むことが多かった。  そのような日々が続いたある日のこと、私は友人ら3人と談笑しながら家路に就いていた。ここは都心から少し離れた、私鉄の各駅停車で10分弱の東京北部の下町。家賃が比較的安いからと選んだ街だったが、奇遇にも同じ街に住む友人が何人かいたもので、講義帰りに友人らに会うと、談笑しながらゆっくり歩いて帰るのが常であった。  そんないつもと変わらない日常の中、1人の友人がふと思い出したように声を上げた。彼女にとっては何気ない一言だったと思うが、不思議なほどに印象深く残っている。 「ね、そういえばさ。みんな将来の夢・・・・・・というか、大学出てからやりたいことってあったりする?」  ケラケラと明るく笑いながら問いかけた友人。その質問には特に深い意味が無いということは、この場にいた誰もが分かっていた。とはいえ少しの間、誰もが頭の中でどう返答するかを模索していたようだった。  すぐに別の友人が口を開いて、若干悩ましげにううんと唸りつつも答える。 「私はね、起業したいなと思っててさ。私、料理が好きだから、例えば海外の食材を扱う輸入業者とか小売業者とか――」  この答えを聞いて安堵したか、また別の友人も徐に口を開いた。 「ううんとね、私は工学を学んで建築デザインとかやってみたいの。老若男女、どんな人でも気軽に過ごせる空間を作りたいなって。良い建築は人の心を豊かにするって、建築デザイナーのお父さんも言ってたし」  そして、質問の主である友人も言葉を詰まらせつつも答えた。 「あ、ええっと、私はね・・・・・・。まあ、物理学とか化学とか理系分野の科目が好きだったし、とりあえず学者になって色々研究してみたいなって。その、2人と比べると大雑把な話だけど、でも、好きを思いっきり楽しみたいじゃん」  3人の口から、すらすらと流れるように答えが出てくる。事前に打ち合わせでもしていたのかと思うくらいに、突然の問いかけの割にはしっかりとした回答ではないか。内容の是非を問うつもりは無いが、誰も彼も皆何らかの思惑があってこの大学に来てるんだな。  そう悠長にかつ他人事のように構えていると、友人の1人が私に問いかけてきた。続けざまに他の友人らも声を上げる。 「でさ、薫子はどうなのよ?」 「そうよね、成績優秀な薫子のことだもん。きっと大きな夢があるわ」 「うわぁ、気になるなあ・・・・・・」  友人らはある種の期待をしているのか、目を爛々と輝かせている。ぴりぴり痺れるような眩しい視線だ。――あぁ、やれやれと苦笑しつつ口を開こうとした時、私はふとあることに気がつき、ピタリと体を硬直させてしまう。曇る表情に重く閉じた唇。 「どうしたの?薫子。大丈夫?」  友人の1人が心配に思ってか声を掛ける。後に続いて2人の友人も、心配そうに私の様子を窺っている。ハッと気がついた私が顔を上げると、友人達の当惑する様が目に飛び込んできたもので、慌てた私は平常心を装って気丈に振る舞った。 「大丈夫だよ、みんな。別にちょっと用事を思い出しただけだから、ハハ」  そう答えると友人達は皆ホッと胸をなで下ろしたようだが、その一方で私は気が気ではなかった。友人達のように何らかの夢や目的を引っ提げてこの大学に入った訳では無い私には、そのような夢や目的が無いと気づかされたからである。 「わたしのゆめは、あいどるかしゅになることです!」 「私の将来の夢は、父のように立派で格好いい人になることです!」 「――私の夢は、・・・・・・日々を堅実に生きて、安定した生活を送ること、かな?リスクを冒すこともなく、ただ安穏な日々を」 「夢、ゆめ、・・・・・・そんなの、いつの間にかあんまり考えなくなってたな」  "夢"や"目標"って、子どもの頃はよく考えもしたし考えさせられたりしたもののはずなのに、いつの間にか強く意識することもなくなって、そして忘却の彼方へと消え去っていく。意識しなくなるのには何かしらの理由やきっかけがあるはずで、私の場合は『父という存在の喪失』がそれに該当するのは間違いないだろう。  現に「父のようになりたい」という夢は、あの事件をきっかけに脆くも崩れ去って、命を賭してまで安全を守ってきた父の生き様を否定するようになっていき、"夢"という言葉にふさわしくないような堅苦しく現実的なものを求めるようになった。それが所謂普通の日常だと気がついた時、夢が何かも分からなくなってしまい、そして考えることを忌避していった。それが私だった。  多少曖昧だったり、現実的であったりする要素があれど、友人達は皆何かしら夢や目標を持っている。それなのに私には何もない。私の今は何のためにあるのか自分自身ですら分からず、声に出そうとしてもノートか何かに書こうとしても言葉を詰まらせるばかりであった。  あの後、夢の話から話題をどうにか逸らすことの出来た私は、友人達と別れ姿が見えなくなると、すぐさま自宅へ向かって走り出した。いつにも増して重く感じる我が身をどうにかこうにか動かしながら息せき切って駆ける私。息を荒くしながら自宅の玄関扉を開けて中に入ると、真っ先にその汗だくの体でベッドへと飛び込んだ。枕に顔を埋めながら、暫く足をばたつかせて昂ぶる気持ちを抑えようとする。  どうして気がつかなかったか、いやどうして目を向けてこなかったか。声にならない声を上げながら、ばたつく足を次第に止めていく私。冷静さを取り戻しつつあった私は、過去を顧みながら自責の念に駆られるばかりであった。  やがて、枕から顔を外し、体をぐるりと180度よじらせて仰向けになる。薄暗い部屋の中。明かりも付けずに大の字になって横たわる私の頭の中は、すぐ側へと近づいている"将来"に対して焦燥感を抱いている。 「私のしたいこと、やりたいことって何だ・・・・・・?」  天井を見上げながら、思わずそう呟いた私。しんと静まりかえる部屋の中には、私の問いに答えてくれる者もいない。無限に続くような静寂だけがある。気味の悪いほどの静けさを感じていると、余計に焦燥感や不安を募らせるばかりではないか。そう感じていると、大きなため息が1度漏れ出た。  ――どうしようか、自分。  逡巡してばかりの私。時間は止まってくれはしない。  自分の向かう未来が見出せぬまま、何日もの時間が過ぎた。私と談笑しているあの質問を投げかけた友人は、そんな問いをしたことなどとうに忘れているだろうが、私の心にはその問いが鉤爪を食い込ませるかのように強く引っかかり続けていた。  ぎこちない笑顔でその友人を見送った後、自宅のベッドでふて寝しながら呆ける私。この後の予定なんて何も無い。空っぽな日々は私の心を静かに蝕み続けている。先の見えない恐怖感を煽るように。 ――私って一体・・・・・・。  途方も無い疑問がいくつも浮かび上がっては消えていく、そんな生産性の無い禅問答の繰り返し。頭も心も体も疲れていく。これでは駄目だと髪の毛をかき回しながら、ベッドの上で仰向けになる。  薄暗い部屋の中で寝転がる。はぁ、と嘆息しつつ体を横に向けると、ふとベッドの側に転がっているショルダーバッグが目に入る。・・・・・・。・・・・・・。 ――ちょっと、外に出て考えてみるか。  まんじりともせず寝そべって、怠惰な時間を過ごすというのも不健康的である。そう考えた私は、眼前のショルダーバッグを手にとって簡単に身支度を済ませると、すぐに家を出た。時刻は夕方18時。東京の下町にも夜の帳がおりつつある時間帯だった。  行く当てもなくふらふらと街を彷徨。日の傾いた東京北部の下町は、会社帰りの人や買物に向かう主婦で賑わっていた。喧噪の中を死んだ魚のような目で呆けながらふらついている私は、さぞやこの風景から浮いた存在であろう。  そんな風貌の私が商店街を通り抜けると、そこには私鉄の駅があった。  頻繁に通勤電車が行き交う下町の駅。頻繁に出入りする電車からは、どこから来たのかと思うほどの人並みが駅改札口へと流れ込む。逆に改札口からは、遊びに行くのか何しに行くのかよく分からない人々の波が電車へと吸い込まれていく。そんな息の詰まりそうな光景を短時間で何度も見かける。  別に遠くに行きたいわけでも無かったが――。ただ、何となく今の自分には刺激が足りないような気がした。マンネリ化しているように鈍く回転する私の脳みそに程良く刺激を与えれば、何か良い考えとか浮かび上がるのではないのか。 「とりあえず、また都心に出るか」  そう呟いた私は思い浮かんだことに従い、ただ気の向くままに体を動かし、その手にICカードを握りしめて駅の改札口を潜り抜けた。ツカツカと靴の音を跨線橋に響かせながらホームに向かうと、タイミング良く電車が滑り込んできたので早速乗り込んでみることにした。 「終点、渋谷、渋谷です。ご乗車ありがとうございました」  駅員のアナウンスが響くホームを潜り抜けた先は、夜なのに昼間のように明るい都心の街並みそのものである。偶に友人らとの交遊のために足を運んでいたとはいえ、1人で来るのは初めてだった。  ここに来て漸く心細さがこみ上げてきたが、折角ここまで来たのだからと半ば強引に夜の繁華街へと躍り出た。特にどこで何をするという目的も無く、ただの気まぐれ。懶いな感情を払拭するため、そして自分について見つめ直すために私は歩く。歩いてはどこか適当な場所で休んで、そしてまた歩いて。無為に見える行動ももしかすると後々意味が出てくるかもと、僅少な希望を胸に抱きながら歩いていると、横から不意に声を掛けられた。 「あ、あの・・・・・・」  心細そうに震える低い男声。思わずドキッと吃驚して振り向くと、緊張した面持ちで私を見つめる若いスーツ姿の男性が立っていた。 「私に何かご用で?」  怪訝な面持ちで返事する私。鋭い視線にドキッと縮こまる男性。 「え、えっと、その・・・・・・私は、こういう者でして・・・・・・」  そう言いながら緊張で震える手で差し出したのは、1枚の名刺だった。名刺に書かれていたのは、"ヒフミプロ"という聞いたことも無い会社名。大凡察しが付くが、一応私は問いかけてみることにした。 「ヒフミプロ・・・・・・っていうのは?」 「はい、まだ創設して日が浅いのですが、芸能事務所になります」  思わぬ話が舞い込んできて、驚きを隠せない私は何度も瞬きを繰り返しながら、眼前の彼と名刺とを交互に見つめる。  ――いや待て、まだ怪しい。こんなタイミング良く鴨が葱を背負ってくるものか、普通。聞いたことも無い芸能事務所に、やたらオドオドとして人見知りのような雰囲気を漂わせるスカウトマンなんて胡散臭すぎるだろう。 「よ、宜しければ近くの喫茶店でお話でも・・・・・・」  不安げに問いかける彼の目。逞しい体付きには不釣り合いな、まるで小動物のような気の弱さ。スカウトマンならもう少し気を強く持ってほしいと私は内心呆れつつも、その気の弱さが何だか放っておけない物寂しさも感じさせる。  暫く考えた末、出した結論は「YES」だった。正直、彼の女々しさに根負けしたことに恥ずかしさや悔しさを覚えたが。まあ、もうどうでもいいやと半ば自暴自棄になっていたようなところもあるかもしれない。ただし快諾したわけでは無く、とりあえず話を聞くだけだと条件を提示した上でである。彼もその点を承知した上で、私に話を持ちかけることにしたようだ。  私は彼に導かれるまま、裏通りの古びた喫茶店へと入った。 「それで潮さん、今回お話ししたのがですね――」  古びた喫茶店の年季を感じさせるソファに座りながら、2人面と向き合って話す私とスーツ姿の男性。芸能事務所のスカウトマン兼プロデューサーとしてはたく彼は、渋谷の街中で偶然見かけた私に可能性を見いだし、声を掛けたという。 「私にそんなポテンシャル、ですか。何とも不思議な、どうにも信じられない話なんですけど・・・・・・」  戸惑う私を尻目に、彼はその『私のポテンシャル』とやらについて熱く語っていた。どうにも自分では腑に落ちないというか実感できないというか――自分のことをそこまで褒めちぎられると、どうも決まりが悪く気恥ずかしい。  静かで落ち着いた空間に似つかわしくない騒々しさだが、他の客はおらず、店主と思しき高齢男性も無関心そうにカップを洗っていた。 「――ということです。ぜひ、私どもの事務所に入っていただけませんか?」  彼が語り終えたタイミングを見計らい、疲れたように軽く息を吐くと、静かに物音1つ立てずにアイスコーヒーを啜り飲んだ。ズズズとストローに吸い込まれる珈琲の音だけが2人の間に響く。  さて、どう答えようものかと悩んでいた時、ふと幼い頃の記憶が脳内に舞い上がってきた。 「すごいぞ!薫子!本当に歌がうまいんだな~」 「えへへ、そうでしょ?」 「もう、あなたったらまたそうやって――」 「いいじゃないか。自分の子どもがこうやって健やかに育ってくれているんだ。それだけで嬉しいし楽しいんだ」  私の父はそう言って、よく私の頭を撫でてくれた。幼い頃、テレビ番組に出る人気歌手や芸能人の物真似をしていた私。難しいことなんて何も分からず、ただ目の前にある輝く存在を羨望の眼差しで見つめ、そしてそれに近づきたいという無垢な感情が、私にそれをさせているのかもしれない。そしてそれをやっている時に見せる両親の笑顔がたまらなく嬉しかった。 『あいどるかしゅになって、みんなをえがおにしたい』  父の愛が私の心をそう突き動かすのに時間はかからなかった。幼い私がこの夢を標榜すると、父は真っ先に満面の笑みを浮かべて賛辞を惜しまなかった。 「おう!薫子。頑張れよ!お父さんはいつでも薫子のことを応援してる!薫子がやりたいことを、俺もとことん支えていくからな!」  この声を聞く度、私はいつもニコニコと笑みを浮かべて父の懐に抱きつきに行っていた。この父の温もりがいつも側にあるのが嬉しかった。 「おや、薫子ちゃんの将来の夢って何だい?」  駅事務室奥の休憩室で、畳の上にごろんと寝転がって本を読んでいた私、とぼけたような素振りで平良さんは問いかけた。  机上には無造作に置かれた鉛筆や積み重なった原稿用紙。原稿用紙には「わたしのゆめ」と雑な文字で題名が書かれ、その後にはずらりずらりと似たような字で文章が続いている。  背伸びして起き上がった私は、目を輝かせながら答えた。 「私はね、お父さんみたいな格好いい人になりたいの!」  私がそう答えると、平良さんは目を丸くした。 「へぇ、そうだっけ?前は『あいどるかしゅ』になるって言っていたような気がするけど・・・・・・?」  不思議そうに見つめる平良さんに、私は得意な顔を浮かべながら答えた。 「前はそうだったけど、お父さんの働いているところを前見かけてから、やりたいことが変わったの!」  ふふんと鼻息を荒くしながら胸を張る私に、暫し呆気にとられていた平良さんはやがてクスクスと笑い出した。驚いた私は顔を赤らめ頬を膨らます。それに気がついた彼女は、その笑みを浮かべたまま軽い調子で詫びる。 「ごめんごめん、薫子ちゃん。別に悪気は無いんだ。ただ、やりたいことがたくさんあるようで吃驚しただけさ」  口を尖らせてふて腐れる私は彼女に問う。 「むぅ、別にいいよおばちゃん。でも、吃驚するようなことなの?それ」  何の気なしに聞いたであろう一言だったと思うが、問いかけられた平良さんはいつになく真剣な表情で暫し考え込む。きょとんと丸い目で平良さんのことを見つめていた私だったが、間もなくその私の肩に彼女はポンと手を置いて優しく微笑んで答えた。 「たくさんあることは良いことさ。どんな生き物も毎日何かやることがないと、生きてて楽しくないもんだからね。でもね、やりたいことっていうのは少なくても――うん、1個だけでも良いんだよ」 「なんで?たくさんあればあるほど良いんじゃないの?」  怪訝な面持ちで問いかける私に、彼女は笑みを浮かべたまま首を横に振る。 「それは違うわね。やりたいことが多ければ多いほど、自分が本当にやりたいことが分からなくなって見失ってしまうからさ」 「・・・・・・」 「良いかい?夢っていうのは、自分が自分の気持ちに素直になって思い浮かんだ"自分が本当にやりたいこと"なんだ。そういうものは少ない方が自分を見失わずに済むし、自分の生き方に満足できるんだ。その"やりたいこと"が、自分が本当にやりたいことなのか見つめ直すことを忘れないようにな」 「・・・・・・?」  終始呆然としていた私に、平良さんは決まりが悪そうに顔を赤くしながら笑みを浮かべている。ハハハと乾いた笑い声を出しつつ、彼女は私のもとから静かに立ち去っていく。 「何だったんだろう。・・・・・・よく分からなかったけど、まあ良いか」  立ち去る彼女の背中をぼうっと呆けながら見つめる私。小さくて丸かった幼い私の脳みそでは、平良さんの話はとても難しかった。小さく欠伸しながら、私は再び机に向かって作文を書き始めた。 『わたしのゆめは、おとうさんのようなかっこいいひとになることです。りゆうは、おとうさんのしごとのようすをみてかっこいいなとおもったからです。わたしもおとうさんのように、たくさんのひとをささえられるひとになりたいなとおもっています。』  覚えたての雑な平仮名で埋め尽くされた原稿用紙は、幼い私が胸に秘めていた様々な希望が詰まっていた。 「――あの、潮さん?」  戸惑いの色を隠せない彼が、困惑したように問いかける。  ハッと我に返り、慌てて場を取り繕うとする私。 「あ、はい。え~と、何でしたっけ?」 「それでですね、私どもとしましては今回こちらの内容で契約を考えていただきたいなと思いまして・・・・・・。すぐに返事はいただけなくても良いんです。即断できるような話では無いですしね。名刺に連絡先を記してますので、そちらに後日連絡いただければ対応しますので――」  ベラベラと饒舌に堅苦しい話を繰り返す彼。疲れと退屈さとで思わず小さくため息を零す私は、先程まで脳裏に過ぎっていた幼い頃の記憶の断片を、本のページを捲るように見返していく。 「そういえば、私って――」  不意に小声で呟く私。それに驚く目の前の彼。 「え、ととと、どうしましたか?」 「あぁ、何でも無いです!すいませんすいません」  慌てて場を取り繕いつつ、私は記憶を回顧した。あぁ、私ってどうしたら良いんだろう。やりたいことって何だろう。  あれこれ思い悩んでいると、後ろからふと誰か聞き覚えのある声が聞こえてきた気がした。驚き振り返ると、そこにいたのは――。 「薫子がやりたいことを、俺もとことん支えていくからな」  その影は仄かに明るい白い光に包まれていたかと思えばすぐに消えた。聞き覚えのある優しいバリトンボイス。あぁ、そうかこの声は――。 「誰かいらっしゃったんですか?潮さん」  不思議そうな顔で尋ねる彼。 「いえ、何でも。それより、この契約書。頂いても良いでしょうか?」  冷静を装う私が淡々と答えると、彼は嬉しそうに目を輝かせながら頭を下げた。 「えぇ!もちろん!ぜひともご検討の程、お願いします!」 「ありがとうございました。またお越し下さい」  ボソボソとか細い声で彼を見送るマスターを横目に、1人テーブル席で珈琲を飲みながら契約書を眺める。話を聞く限り環境も悪くない感じで、書面に書かれた条件を一通り眺めてみても、特段私が気になるような悪い話も見当たらない。ふむ、条件も悪くなさそうだ。  あとは私の心の問題。先程の"声"がかけてくれた言葉を思い返しつつ、私は気持ちを整理し始める。私のやりたいこと、それは・・・・・・。  思い返せば思い返すほど、たくさんの人の顔が思い浮かぶ。  皆、いつも私と楽しそうに接してくれる。辛いときも楽しいときもいつも側にいた、、私にとってはかけがえのない存在。そんな周りの人の喜ぶ顔をいつまでも見ていたい。母も平良さんも島原くんも、たくさんの友人達も、そして亡くなった父も。皆が喜んでくれれば私はそれで幸せなのだ――。  そうか、私のやりたいことってこれだったんだろうな。  幼い頃に謳っていた芸能人への夢を今更持ち出すなんてと自嘲気味にふふふと小さく笑みを零す私は、鞄の中に入れていたペンケースからボールペンを取り出すと、契約書にゆっくりと自分の名前を書いた。
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