1話

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 その日以降、私は幾度もこの駅へ父を迎えに行き続けた。  大体は自分1人で、時々友達と複数人で訪ねたりもした。友達は皆、私の父が来る前までに帰ってしまうのだが、私は居残って駅の事務室で平良さんと2人っきりになって父を待つ。時折、業務が落ち着いた平良さんが私に声をかけて、2人でまったりと事務室の窓辺にもたれかかって海を眺めながらお喋りすることもあって、長い待ち時間も退屈することは無かった。  何気なく過ぎていく時間。新しい日常。大したことない時間だけれど、それがただ愛おしい。そんな時に彼女が見せる磊落な笑い顔。その表情を見ていると、どんな悩み事も苦しみもどうでもよく感じる。まるで我が家のような安心感、温もりに包まれながら、私は父を駅で待ち続けた。  そんな日々が4年続いたある夏の日。ホームルームを終えて教室を出ようとすると、クラスメイトの男子が不思議そうに話しかけてきた。 「お前って、学校帰りに駅に行ってんのか?」  唐突な問いかけに、きょとんと目を丸くする私。 「そ、そうだけど何か?」  別に悪いことをしているわけでもないが、思わずちょっと狼狽える素振りを見せる私に、彼は決まりの悪い顔を見せながら話を続けた。 「あ、いや、別に・・・・・・。ただ、俺の母ちゃんが駅でお前を見かけたって言うから気になっただけだよ・・・・・・」  気恥ずかしそうにそっぽ向きながら話す彼の仕草に思わずクスリと微笑しつつ答える。 「お父さんのお出迎え。1年生の頃からやってるの」  私がそう答えると、彼は興味が無いと言わんばかりにふ~んと軽い返事。しかし、その割に妙にチラチラと私の方を見ながらそっぽ向いていたり、どこか顔もほんのり赤い。ははん、そうかそうかと私は心中でしたり顔を浮かべた。  彼を半分からかうつもりで、私は声をかけてみた。 「良かったら、一緒に来る?」  ニッと口角を上げて白い歯を見せる私。彼はしどろもどろになりながら、「お、おう」と生返事を返し首を縦に振る。ふふふと小さく笑い声が漏れると、彼の赤い顔はムッと眉間に少し皺が寄ってしまった。  学校帰り、学校からいつものように私は駅へと向かう。いつもと違うところと言えば、今日は私と彼の2人で向かっているところだ。女友達を連れて行ったことはあったが、男友達は初めてだった。道中の彼は、何やら落ち着かない様子で周りをキョロキョロと見回しながら私と歩いていたが、一体何を考えていたのやら。  駅に着くと、平良さんは引き締まった表情でパソコンと面を向かい合っていた。何やら事務作業中の様子だ。  老眼鏡を付けて業務に勤しむ彼女の顔は、凜々しい目元といい、欧米人のような突き出た鼻といい、口紅の赤さが艶めかしい口元といい、知的で大人びた雰囲気を感じさせる。普段の豪放磊落な性格も好きな私だが、一方でこの仕事中に見せる凛とした雰囲気も、子供心に描いた『大人の女性』の理想像そのもので、惚れ惚れしながら眺めていたものである。  私は業務中の彼女を刺激しすぎないようにと、窓口の窓を軽く2度ノックし静かに声をかける。 「おばちゃん、来たよ」  平良さんは私の声に気がつくと、先程までの静謐な雰囲気はどこへやら、いつものような力強い程に眩しい笑顔を見せる。 「やあ、薫子ちゃん!いらっしゃい!外は暑いだろう?ささ、中に入って中に」  いつも通り笑顔で招き入れようとした彼女は、当然のように私の後ろで気恥ずかしそうに立つ彼の存在にもすぐ気がついた。 「おや、珍しい。男の子のお客さんかい?」 「そうなの。何だか駅に出入りする私が気になってたらしくて」 「へぇ、"気になってた"ねぇ・・・・・・」  意味ありげにそう呟いた平良さんは、彼のことをじっと見つめるとニンマリと怪しい笑みを浮かべた。見つめられた彼はと言うと、顔を赤くしながら、慌てた様子で違う違うと必死に首を横に振っていた。  そんな彼を横目に、私はカラカラと引戸を静かに開けた。きんきんに冷えた冷房の風が、私の肌を撫でるように吹き抜ける。実に心地よい風だが、一気に浴びてしまうことで溜まっていた疲れも一気に押し寄せてくる。疲れが溜まった私の体はふらふらと弱々しい足取りで、冷たい風に誘われるように事務室に入った。 「はぁ~疲れたぁ~」  情けなくだらけた様子でソファに倒れ込むように寝転がる。ランドセルをソファの側に放り出して、ごろんとふて寝。大きく口を開けて欠伸を1回。何ともはしたない姿の私が、ふと何気なく目線を上げると部屋の片隅に見慣れないものが置いてあるのが見えた。いや、置いてある、というよりは、ちょこんと静かに佇んでいたと言う方が良いだろうか。  私は体を起こすと、それを指差しながら平良さんに尋ねた。 「あれ?おばちゃん、この人形どうしたの?」 「これかい?私が若い頃に自分の子どもに買った物さ。可愛いって言って最初は可愛がってくれてたんだけど、すぐに飽きちゃって、それからずっと納戸にしまったままになってたのさ。でも、薫子ちゃんなら気に入ってくれるかなと思っていたんだけど」  部屋の片隅にあったのは、麦わら帽に白いドレスを身に纏った金髪の美少女の人形だった。白い長手袋を付けた両手で帽子のつばを掴んでいる少女は、その表情や仕草に大人びた妖艶さも持ち合わせている。  その麗しさに心打たれた私は、ただ言葉を失って惚気るような目で人形を見つめていた。可愛いなぁ、綺麗だなぁ。譫言のように小声で呟く私。 「どうやらすぐに気に入ってくれたようだね」  得意顔を浮かべる平良さん。後から遅れて入ってきた彼も、私の側に立ってその人形を見るやいなや、感嘆のため息を漏らす。 「確かに、可愛い人形だなぁ」  私や平良さんに聞こえるかどうかという程の小声で、彼はこっそり呟いた。彼は聞こえていないと思っていただろうが、私にも平良さんにもその声は聞こえていた。平良さんがケラケラと嘲るように笑いながら問いかける。 「おう、君にもこの人形が可愛いと思えるのかい?」  その大音声にハッと我に返った彼は、照れ臭そうに微笑しつつ彼女の問いかけに答えた。 「えぇ、まあ。俺にも妹が1人いて、よく遊んでましたから」 「なるほど、君には妹さんがいて世話もすると。立派なお兄ちゃんじゃないか」 「あ、ありがとうございます」  平良さんは彼の頭を何度も強く撫でた。苦笑しつつも大人しくそれを受け入れている彼の様子が可笑しく感じて、私は1人クスクスと小さく笑っていた。  小さな駅が和気藹々とした雰囲気に包まれる中、空模様は徐に不穏な様子を見せだした。晴れ晴れとした青空が嘘のように黒い暗雲で覆われたかと思うと、間もなく大粒の雨が集中して降り出した。激しい雷鳴と共に降り注ぐ無数の雨粒は、瞬く間に地面を濡らし、海や川を泥混じりの茶色く汚れた水で穢していく。稲光は鋭い光を地面に突き刺すように皎然と光らせる。  事務室の机上に置かれた無線機がザザッとノイズを混じらせながら、平良さんへ応答を呼びかける。 「業務連絡業務連絡、有明浜駅駅員応答できるか。どうぞ」  私と彼との3人で喋り合っていた彼女は、すぐに我に返り、表情を引き締めて無線に応じる。 「こちら有明浜駅、どうぞ」  無線の相手は、淡々とした口調で話を続けた。 「――あ~、こちら運行指令です。ただ今気象台より大雨洪水警報が出された。列車の運行に現時点で支障は発生していないが、今後ダイヤの遅延及び各種施設の損傷による運行中止も有り得る。万全の体制を整えておけ。どうぞ」 「災害時の体制確保、了解した。どうぞ」  一通り無線のやり取りを終えると、大きなため息をつきながら私たち2人の方を振り向いた。どっと疲れが増したような、すっかり草臥れた顔である。  どうしたのと彼が尋ねると、平良さんは寂しそうな顔をしながら私たちに告げた。 「今日はもう帰りな。これからどんどん雨が酷くなるらしい。ちょっとした通り雨なんてレベルじゃ無いようだ」  私と彼は顔を見合わせると、困ったように渋い顔をしながらも渋々それを受け入れることを決めた。せっかく楽しくなってきたのに、と思いながら、私も彼も帰り支度を整えていく。しかし私には一つ気がかりがあった。 「お父さん、無事に帰れるかな・・・・・・」  窓際に立って空を見上げる。暗く重苦しい雲に覆われた空は、私のことをせせら笑うように雷鳴を響かせた。 「気をつけて帰りな。危険な場所には近づくなよ」 「は~い――と言っても、私はすぐそこなんだけどね」 「分かったよ、平良さん」  降りしきる雨の中、偶々駅に保管してあった子供用のレインコートを羽織った私と彼は、平良さんに見つめられながら駅を後にする。駅のすぐ背後にあるはずの海は、大雨の水煙で霞んで見えにくくなっている。  レインコートを羽織った私と彼は横に並んで、小走りになって駅を後にした。水煙に消える私たちの背中を見ながら、平良さんは不安げに呟いた。 「何も悪いことが起きなきゃ良いんだけどな・・・・・・」  彼女の呟きは降りしきる雨音の中に靄となって消えていく。  駅前の通りを少し歩いたところで十字路に出る。 「なあ、潮。俺んちこっちだからさ――」  彼は交差点の左方を指差しながら、ぶっきらぼうな口ぶりで私に話す。 「あ、うん。ごめんね、付き合ってもらったのにこんな天気で」 「仕方ねえよ、雨なんて誰にも止められるものじゃねえし」  頭の後ろで手を組みながら、口を尖らせ空を睨む彼。彼が悪態をついた空は当分雨を止ませる気配が無い。私はふぅと小さくため息をついて肩を落とした。  私が悄然として彼に別れを告げようとすると、彼は心配そうに私を優しい目で見つめながら話しかけてきた。 「お前の父ちゃん、列車で会社に行ってるんだろ?列車が無事に動いてくれるなら良いんだけどな・・・・・・」  彼なりの精一杯の優しさだろう。男の子らしい低い声の中に、母性的な温もりのある優しい声をしていた。 「うん。私のパパは列車の安全を守る仕事をしてるって言ってたもん。パパがいる限りきっと大丈夫」  私は握り拳を震わせながら力強く答えた。表情を強張らせ、目をぎらぎらと光らせる。大好きな父への信頼、それを決して崩すつもりは無いのだ。私の目を見た彼は静かに「そうか」と呟くと、先程指差した方角へと踵を返した。レインコートのフードを深く被り直すと、彼はゆっくりと歩き出した。 「じゃあな、潮。――お前の父ちゃんに頑張ってくださいって伝えててくれ」  去り際に静かに呟く彼。年不相応な気取った言い回しに思わずクスリと小さく笑いつつも、彼の優しさに笑顔で答えた。 「ありがとうね、島原くん!」  私が島原くんと呼んだ彼は、顔を赤くしながら小走りで靄の中へ消えていった。まるで雨に吸い込まれるように、薄暗い闇の中に溶けるように、・・・・・・。  消え行く島原くんの背中を見送った私も、小走りで自宅へと駆け戻っていった。 「ただいま、ママ!」  玄関扉を開けて声を張り上げる私。玄関から真っ直ぐに伸びる廊下の奥、リビングダイニングから同じく私の母が声を張り上げた。 「お帰り、薫子!濡れたでしょう?お風呂湧かしてるから先に入ってきなさい!」 「は~い」  濡れたレインコートを玄関扉に掛け、濡れた鞄を足ふきマットの上に置くと、濡れたままのその体で風呂場へと駆け込んだ。下着まで濡れたその体は、夏だというのに肌寒さを覚える程に冷たくなっていた。服を脱いでいるとき、小さなクシャミが2度飛び出した。  風呂場に入ると、モウモウと沸き立つ湯気。普段なら熱いの嫌だと何だと難癖つけて避けたいくらいの温度だが、今日この時はとても恋しいものだ。急いで体を洗って風呂に浸かる。ふぅと小さく息を漏らし天井を見上げる。  外は相変らず雨足が強い。すっかり日が傾いたか、彼と別れる前よりも外は暗くなっている。日が傾きだしたら沈むまではあっという間である。そんな厳しい状況下においても、私の父はまだ"列車の安全"のために奔走し続けているのだろうと思うと、別に私が気負う必要は全くないと分かっていても、何だか気恥ずかしさを覚えてしまう。父が仕事を頑張っている裏で、私はこうも気を抜いてゆらりとしていて良いのかと。  実のところ、父が仕事している所を見たことはない。だが、並んで歩いていたときに見た父の背中からは、私には背負えないほどの責任感と矜持とが感じ取れた。長い時間、多数の経験を積んできたことで培ったあの鷹揚さ。それを持って、今この時を過ごしていると思うと何とも頼もしさを覚えるが、ずっとその背中を見てきた人間としてはそれを支えたいと思うことがある。小さな私でも父の力になりたい、私はそう小さい頃から思い続けた。この4年間続けてきた"父を迎えに行く"という行為には、そのような意味があったのだろうと思っている。 「パパ、まだ帰れないのかな」  窓の外を見つめながら静かに呟く私。  人中辺りまで浴槽に浸けながら、口から長いため息を吐く。ぶくぶくと立った泡はすぐに消えていった。  30分後。  風呂から上がった私は、呑気に歌を口遊ながらリビングへと向かう。リビングへの扉を開けようとドアノブに手を掛けたところ、リビングに置いてある固定電話から着信を告げる電子音が鳴り響くのが聞こえた。 『夜中に誰からだろう』  風呂場で疲れを癒やし睡魔に襲われる寸前のおっとりとしている私が、眠そうな目をこすりながらリビングに入ると、既に母が受話器を取っていた。受話器越しに話す母親の姿は見えるが、囁くような小さな声で話していた。 「はい・・・・・・はい・・・・・・それで、その夫は・・・・・・はい・・・・・・」  途切れ途切れに聞こえる母の声は、不安に駆られたように慄いている。  何の話をしているか気にはなるものの、どうせ私には関係ない話だろうと身勝手な想像で自分を納得させると、小さな欠伸を1つして、リビングにある大きな革張りのソファに飛び込むように寝転んだ。何の気なしにつけたテレビはどれもつまらない。食事の準備もまだ終わってない夕食前のいつもの食卓。退屈な時間が流れている。  ソファで体を起こしてうんと大きく背伸びしていると、母の電話が終わったようだ。私の方へと振り向いた母の顔は、見たことも無いほどに青かった。驚いた私は慌てて母の側に駆け寄った。 「ど、ど、どうしたの!?お母さん!?」  狼狽えながら母に呼びかける私。母は生気の感じられないような虚ろな目で私を見つめながら、硬く噤んでいた口元を徐に開けると、低い声で私に話しかけた。 「薫子、よく聞いてね。実はさっきお父さんの会社の人から電話があって、お父さんが大けがを負って、病院に運ばれたんだって・・・・・・」  私は目を大きく見開いて絶句した。  受け入れがたい現実に直面したとき、人は頭の中が白く濁って、脳裏に過ぎる『悲しい』やら『辛い』やら『無事でいて』といった不安や心配の言葉も、『ええ!?』やら『嘘でしょ!?』といった驚きの感嘆符も、それら一つ一つが真っ白になって見えなくなるものか。見えない不安感がただただ増大するばかりなのか。涙を流すことも出来ず打ち震えるだけだ。  体を震わせ目を伏せる私に、母は続けて話しかける。 「それでね、薫子。会社の人がここまで迎えに来てくれるらしいから、ママと病院に一緒に行こう、ね?」  私は首肯した。とにかくまずは寝間着を着替えて、あと他に必要なものはないかなと出かける準備を自ずから進めた。この時の私は、自分でも驚くほど冷静に体が俊敏に動いていた。  10分後、玄関の呼び鈴が鳴る。扉を開けると、泥にまみれた社名入りのレインコートを羽織った若い男性が1人玄関に立っていた。鬼気迫る表情で息を荒くしながら、扉を開けた私に声を掛けた。 「こちら、潮××さんのお宅でしょうか。私、○○鉄道のT原と申しますが」  私が勢いに押されてたじろいでいると、支度を終えた母が玄関に駆けつける。T原と私に名乗った男性の姿に気がつくと、母は何度も頭を下げた。 「この度は本当にご迷惑をおかけして――」  母がそう言いかけた時、茅原さんは慌てて母の言葉を止めた。 「――今はともかく急いで車に乗ってください!話は後で!」  我に返った母は玄関の電気を消すと、私の手を掴んで茅原の乗ってきた車へと乗り込んだ。温まったばかりの私の体に、再び冷たい雨が突き刺さる。  先に結論を言うと、父は私たちが病院へ向かう途中に息を引き取った。病院に担ぎ込まれた時もそうだったらしいが、父はとても穏やかな顔をして眠っていた。  鉄道施設の安全管理を任されている『保安課』で課長として働いていた父。大雨による線路陥没発生の一報を受け現場に駆けつけ、現場の確認作業を進めていた際に新人の保線作業員を庇う形で土砂崩れに巻き込まれたという。 「N山くんは大丈夫か・・・・・・?」  土砂の中で父は、苦しそうに呻きながらも庇った作業員を気に掛けていたらしい。「その作業員は無事だ」と同じ保安課で働くT原さんが返答すると、安心したように「そうか」と呟いて静かになった。その後発生から僅かな時間でT原さんらが救出したとのことだが、胸部圧迫や複雑骨折の傷跡は痛々しく、父の体は血にまみれていたと、T原さんは父の眠る治療室の外で語った。 「奥様が謝ることは無いのです・・・・・・。私が、私の力が無力なばかりに、このようなことになってしまったのです。・・・・・・本当に申し訳ございません!」  話の終わり、T原さんは涙を流しながら頭を下げた。母は頭を上げてほしい、気にすることは無いと彼が頭を下げる度に何度も叫んだが、彼はやめようとしなかった。終いには、母とT原さんが互いに「自分が悪い」と言って聞かず収拾が付かない。  見たこと無いほどに取り乱している母と、この混沌を知らぬまま静かに眠る父。私の小さな目には辛い光景だった。私はその場に力無くへたり込んで、声にならない声を上げて慟哭した。周りにいた大人達は、誰も止めることは出来ず、その場に無言で立ち尽くすだけだった。どれだけ泣き叫んでも、父の目が再び開くことはなかった。  そして・・・・・・私はその日から駅に行くことは無くなった。  目的の無い場所に行っても仕方は無いと、小学生の発展途上中の未熟な心で割り切っていた。『駅は会いたい人に会える場所』という幼少期の純粋な感情は、この時静かに瓦解したのだった。  父の死後、ある日の小学校からの帰り道。1人で帰ろうとする私を追いかけるように、島原くんが駆け寄ってきた。 「よ、潮。ちょっと話があるんだけど良いか?」 「どうしたの?島原くん」  私が返答すると、彼は気難しそうに渋面になって話を続けた。 「お前さ、最近駅に姿を見せなくなったけどどうしたんだ?おばちゃんも心配していたぞ?」  この時の私は、心配そうに見つめる彼の優しい目を見て、鋭い刃物で突き刺されたような鋭い痛みを感じた。毎日のように通っていた駅に急に行かなくなったことに対する背徳感の表れだろうか。割り切ったつもりだったのに、まだそんな感情が残っていたのかと拳をグッと握る。  学校帰りの友人らが横を通過していく。キャッキャと明るい笑い声が飛び交う中、私と彼の世界は重い空気が包んでいた。  私は決まりが悪そうに目を背けながら、彼の問いかけに答えた。 「・・・・・・私はもうあそこに行く用事が無くなったの。それだけ」  とりあえず彼から逃げたかった。さっと踵を返して駆け出そうとしたとき、振り上がった私の腕を彼がグッと掴んだ。待て、ということか。 「何よ、島原くん。私はもう答えたでしょ――」 「お前はそれでいいのかもしれないけどさ、だからといっておばちゃんには何も言わないままなのかよ。おばちゃんと過ごした日々は何だったんだよ」  彼は腕を掴んだまま私を鋭い目で睨むように見つめる。彼の怒りのこもった表情に何も言えなくなった。確かにその通りだし、実際言いに行こうと思ったんだが――思考を巡らす内に、悄然と項垂れる私。そんな私を見た彼も次第に手の力を緩めて掴んでいた腕を放した。  私は1回重くため息をはき出すと、心苦しそうに物憂げな表情を浮かべながら答えた。 「――身勝手でごめんなさい。でも、私はもう行くことは無い。あそこで待っていてももうお父さんは来ないの」  私は自然と涙が目に溜まっていく感覚を覚えた。  真剣な眼差しで私の話を聞いていた彼は、気まずそうに頭を手で軽くかき回したかと思えば、腕を組んで険しい表情で目を閉じ考え込む。間もなく目を開くと、彼は静かに呟くように話した。 「――おばちゃんには俺から伝えとく。もし行きたくなったら、俺も誘ってくれ。今のお前1人じゃ不安だ」  そう言うと彼は私の返事を聞くまでも無く、踵を返して静かに私の元から立ち去っていった。下校時間の雑踏の中に、彼の小さな影が埋もれていく。去りゆく彼の背中が見えなくなった所で、私は再び自宅へ向けて歩き出した。  帰り道、駅前通りの交差点から、ふと何気なく駅を見つめた。  先日まで嬉々として駆け込んでいたあの場所に、今はもう『行こう』という気が起きなくなっていた。むしろ、父の姿や父と過ごしてきた日々の記憶が思い起こされるばかりで、弱り切った私の心が崩れてしまいそうになる。  駅舎を眺めながら、父の死後、街の人や同級生、学校の先生などから何度となく掛けられてきた言葉があることを思い出す。 「お父さん、大変だったね」 「大丈夫?元気出して」  これらの言葉を掛けられることは、全く嬉しくないわけでは無い。ただ、所詮他人事としか思ってないだろうに、如何にも『薫子さんの気持ちに寄り添おうとしてますよ』と言わんばかりの押しつけがましいお節介をかけられるのは、自分のことを遠回しに軽蔑しているような気がして、あまり好意的に捉えられなかった。父の死から何日経ってもそのような言葉をかけられるし、あれだけ心配そうに言葉を掛けてきた人々の多くは数日経てば私の父の死を忘却している。無闇に辛い記憶を目覚めさせられた挙げ句、ぞんざいに扱われているのが耐えきれなく感じていた。    ――この街にいると、嫌でも父のことを思い出してしまう。思い出されては雑に扱われ忘れ去られる。路傍の石のような扱われ方だ。  ――父はもういない。私を優しく包んでくれることもない。私に和やかな笑みを浮かべながら、話しかけてくれることもない。私が困っていたとしても、私を助けてくれることもない。  ――もう、この街にいる意味が私には分からない。どんなきっかけでもいいから、この街から出て行こう。  父の死とその後の日々をきっかけに、私は次第にそう思うようになっていた。幾度も「やっぱり駅へ」と思っていた私の細い足も、内に秘めたる強大な心情が鎖となってしまい、駅へ行くことが出来なくなってしまっていた。
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