2-1話

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 2人で学校を出て、学校前のバス停からバスに揺られて向かう。  向かう方面は私や彼の家がある小岬町方面。帰宅ラッシュ故に車内は混んでいた。隙間無くとは大袈裟ではあるが、それでも座席にも通路にも学生や会社帰りの通勤客でいっぱいである。多くの旅客で混み合うバスの中で、私は周囲の目を気にしつつ彼に耳打ちした。 「どこに連れて行く気なの?流石にあの話の流れから、島原くんの家に連れ込むなんてことはやめてね。前言撤回して絶交するわよ」  彼は絶交という突拍子も無く飛び出たフレーズに目を丸めつつも、私に対してひそひそと耳打ちした。 「流石にそれは無いさ。付き合っても無いのにそんなことするかよ!」  彼の強気な言葉に少々訝しみながらも、私は彼と行動を共にし続けた。どこに何をしに行くかは分からないが、一度付いていくと決めたからには、  バスに乗って20分。車内の混雑は次第に解消されて、車内のあちこちに空席が目立ってきた頃、彼は押しボタンを押して降車を告げる。停留所名を見て私は驚いた。 「ここって、私がいつも使っているバスて――」  そう言いかけた時、バスは停留所に停車し扉を開けた。彼は「降りるぞ」と一言私に告げると、足早に降車口へと歩みを進めた。そんな彼の背中を私は静かに追いかけた。  彼に付いていくと、そこはかつて慣れ親しんだあの場所だった。家のすぐ側にありながら、見えない鎖に縛られて、行くことを拒んでしまったあの場所。 「あ」  呆気にとられた私は、口を開けて目線の先に見える建物を見る。そこには小さな木造の駅舎があった。薄汚れた看板には、擦れた文字でこう書いてあった。『有明浜駅』と。  駅舎入口の引戸を彼が開ける。年月の経過で建て付けが悪くなったか、引戸は思うように滑らかに動かず、少々重苦しそうに彼は戸を横に引いて開けた。  ガッガララララ、パタン。  扉を閉めて狭い待合室を見回してみる。時刻表や様々なポスターが所狭しと貼られた壁、埃か何かで少し霞んでしまった古い硝子の付いた窓、白いペンキが剥がれて錆ばかりが目立つ鉄製の改札ラッチ、所々ステッカーが剥がれて文字が読みにくくなっているプラスチックのベンチ、・・・・・・昔と比べると傷みや汚れが目立つようになったが、私の眼前には子どもの頃に見た景色ほぼそのままの駅の姿があった。 「懐かしい・・・・・・」  思わず独り言を呟く私。その傍らで、彼は窓口の方へ笑顔を向けて、右手の平を軽く振りながら挨拶を飛ばす。 「よ、おばちゃん。来たぜ」  彼がそう挨拶すると間もなく、窓口の奥の方から物音がした。物音の主は彼の姿を視認すると、白い歯を見せながらケラケラと笑った。 「おぉ、島原の坊ちゃん。今日は珍しくバスでお帰りかいな?」 「そうだよ、今日はちょっとお客さんを連れてきていてね」 「お客さん?」 「ほら、そこで壁のポスターを真剣に見つめているじゃんか」  そう言って彼は右手の親指を立てて、背後にいる私を指し示した。窓口の向こう、駅事務室の中にいる高齢女性は指し示された方向をマジマジと眉間に皺を寄せながら見つめる。その視線に気がついた私が、ふとその方向へと振り向くと、パッタリと互いに目が合った。 「ど、どうも・・・・・・」  遠慮しがちに決まりが悪そうな顔で小さく会釈する私の向かいで、彼女は少しの間ジッと私の顔を凝視する。視力の衰えだろうか、何度か瞬きをして目を休ませる素振りを見せる。間もなく視線のピントが合った彼女は、私の顔に気がつくなり「え!?」と驚いて声を上ずらせた。  気まずそうに苦笑する私の目の前で、彼女は目を潤ませた。 「もしかして・・・・・・薫子ちゃん・・・・・・?」  こくんと小さく首を縦に振る私。彼女――平良さんはその潤んだ瞳から、一粒、また一粒と、涙の滴を落としたかと思えば、年齢を感じさせないような軽快な走りで事務室から待合室へと駆け込んでいく。駅の地面のコンクリートにローファーのゴムで出来たソールがぶつかり合う音が軽やかに響く。 「薫子ちゃん!」  歓喜の声をあげながら私に駆け寄り、力強く私を抱きしめる平良さん。 「久しぶり。よく来てくれたね――」  抱きしめながら私の後頭部をそっと撫でる平良さんは、涙声で私との再会を喜び続けた。その大きな喜悦の情に寄り添うように、私も平良さんをキュッと抱きしめた。抱きしめてみると、昔と比べるとすっかり小さくなってしまったような気がする平良さんの体。だが、その小さな肉体の内に秘めたるやさしさや温もりは何も変わっていないと、私は心の底から理解し安堵した。しかし同時に、あの豪放磊落で気の強い性格だったはずの平良さんが、どこかしおらしく元気が無くなったようにも見え、私は再会を喜ぶ裏で後悔の情を募らせていた。 『あそこに行っても、待ち人が来ることは二度と無い――』 『あそこに行ってしまうと、父のことを思い出してしまう。父のことを忘れるつもりは無い。だが、思い出したくも無い――』  かつてそう思った私は、この駅へと足を運ぶのをやめた。それは、広がり続ける傷口を閉じようとした私の精一杯の判断と行動であり、自分の身も心も守るためには致し方ないことだと思った。  確かに、傷口が広がっていくことは無くなったと思う。父のことを思い出す度に胸が痛む、そんな苦しみ感じずに済むだけで心も体も安らかにいられた。ぎこちなく浮かべていた作り笑いも、いつの間にか自然な笑みに戻っていた。  しかし、その笑みの裏で新たな傷口が開いていったことに私は気がついていなかった。平良さんと私のつながりが私の手で断たれたとき、残された平良さんは何を思ったのか・・・・・・小学生の私には理解出来ていなかったらしい。平良さんの気持ちを考慮せずに過ごしたこの何年もの月日の間に、彼女の心に出来た傷口は膿んで広がっていた。  平良さんに抱きしめられたその刹那、彼女の傷口の膿みに私は漸く気がついた。  ――それが果てしなく黒く穢れていたことを。  ――それが彼女の心に重くのしかかって、彼女を苦しめ続けていたことを。  理解した瞬間、私は幼い子どものように声を上げて泣いた。大粒の涙をこぼしながら、情けない声を上げて、顔をしわくちゃに歪めて――。3人だけの駅舎に私の慟哭が響いた。  平良さんは目に薄らと涙を浮かばせながら穏やかな笑みのまま私を抱き続ける。島原くんは決まりが悪そうにしながら改札ラッチに寄りかかって、列車も人の姿も無い薄暗いプラットホームを見つめていた。 「ごめんなさい、おばちゃん。ごめんなさい、ごめんなさい・・・・・・」  泣きながら私は何度も謝り続けた。謝ったって許して貰えるはずは無いと思いつつも、私は心の底から何度も謝り続けた。私の口は止まらなかった。 「良いのよ、薫子ちゃん。薫子ちゃんはずっと苦しんでいたんだから――」  謝り続ける私に、平良さんはそっと呟いた。  彼女の口から出たその言葉は社交辞令のような見え透いた嘘か。否、これは彼女の本心であると私はすぐに分かった。今の彼女の言葉には色や温もりがあったと私の五感が私自身に訴えるように、私の心を強く揺さぶったからだ。どくんどくんと心が疼く感覚。痛くはない、むしろ心地よい。  彼女の言葉に噎び泣いていると、平良さんは静かに抱きしめていた両手を解き、肩に手をそっと置いて私に声を掛けた。彼女の顔は微笑んでいた。 「さ、せっかくだしお茶にしましょ。島原の坊ちゃんも一緒に、ね」  私も彼も喜んで首肯した。  3人で長机を囲むようにソファに座ると、平良さんに差し出された珈琲をいただきながら、私は今までのことを全て彼女や彼に打ち明けた。2人とも神妙な面持ちで、時折相槌を打ったり頷いたりしながら話を聞いてくれた。話をしながら、2人から向けられる慈愛のこもった瞳が嬉しかった。  私が話し終える頃には、温かかった珈琲も大分ぬるくなっていた。ぬるくなった珈琲を私はそっと口に運んだ。苦みの中にある僅かな甘み、そして香ばしい豆の香りが私の心をほっと落ち着かせる。  私の向かいに座っていた平良さんもカップを小さく傾けて一口珈琲を飲む。飲み終えた口から微かに吐息を漏らすと、口角をつり上げて私の方へ顔を向けた。表情そのままに彼女は、過去を懐かしむようにしみじみとしながら話しかける。 「こうやって3人で机を囲んでゆっくりする日が来るとはね」  私の隣に座っていた彼も、珈琲を啜るように飲みながら平良さんの話に便乗する。 「そうですよ。私が初めてここに来た日から今まで、潮はここに顔を見せて無かったんですから」 「まあ、薫子ちゃんはそれだけ辛く感じてきたってことよ。本当に大事な人を喪った時ってそういうものなのよ」 「・・・・・・そうっすね」  彼は空になったカップを長机に置くと、長いため息をつく。物憂げな瞳で静かに天井を見上げる彼。・・・・・・。彼は微動だにせず物思いに耽っている。時折潤んで見えるその瞳は、今までの日々をどのように見つめていたのかは彼のみぞ知るところであり、私にも誰にも分からないような入り組んだ感情がそこに宿っているのだと思う。温かくも冷たくもある不思議な瞳だった。  私が思い耽る彼の姿を見つめていると、向かいに座っていた平良さんがフフフと小さく微笑んだ。 「どうしたの、おばちゃん?」  私が首を傾げると、平良さんは懐かしむような目をしながら語り出した。 「昨日もね、坊ちゃんはここに来ていたんだ。その時にさ、今みたいに真剣な顔をしながら考え事をしてたもんでさ。そのことを思い出したんだ」 「昨日も?」 「昨日もっていうか、坊ちゃんはよくここに来てくれるのさ。薫子ちゃんが来なくなってから、学校がある日はほぼ毎日じゃないのかってくらい」 「へぇ、何しに?」 「何しにって、それは――」  平良さんが言いかけた所で、島原くんが慌てた素振りで声を上げながら話を遮った。わぁわぁと顔を赤らめて慌てふためく彼。 「何か都合が悪いの?」  半ばからかうように平良さんがしたり顔で彼に尋ねると、彼はハッと我に返り、照れ臭さを誤魔化そうと右手で髪をかきながら、とぼけるような素振りを見せて否定する。 「べ、別に。ただ、そういうのは自分の口から言うもんだと思ってさ」 「ふ~ん」  平良さんは彼の顔を見つめながらほくそ笑む。対する彼も、彼女の顔を困り果て面倒くさがるように、はぁと呆れた様子でため息をつきながら、私の方へと視線を移した。いきなり彼と目のあった私は、その真っ赤な彼の顔に思わず軽く吹き出してしまう。はにかみながら、やれやれと困惑するような素振りを見せながらも、彼の表情はどこか嬉しそうだった。 「こんな風に3人で笑い合える日が来るなんてな、本当に」  笑いながら彼が呟くと、ハッとした平良さんがしみじみとしながら答える。 「そうね。私も貴方もこんな日を待っていたのね」 「ん、待っていた?」  私が首を傾げると、彼が咳払いをして畏まったような表情で話し始める。緊張しているのか、その口ぶりは辿々しくはあったが。 「俺がさ、ここに来る理由にもつながるんだが――。その、あれだ、ええっと、俺はだな、お前と2人で、話す時間が欲しかったんだよ」 「・・・・・・へ?」  あまりにも予想外な答えに、思わず素っ頓狂な声が私の口から飛び出る。狭い部屋の中を一瞬で静寂が包み込んでいく。しんと張り詰めた空気。丸い目を何度も瞬かせながら、私は彼の顔を見つめている。見つめられる彼と言えば、これまた意外にも表情を崩すこと無く、真剣な眼差しで私の様子を窺っているようだった。  しかし間もなくその表情は何か思い悩むように苦い表情に変わってしまい、そのまま顔を伏せてしまう。彼は腕を組んで微動だにしない。 「し、島原くん?」  不安定な彼の素振りに困惑した私が彼の顔を覗き込もうとした途端、彼は突然勢いよく顔を上げた。驚く私を横目に、彼は再び表情を引き締めて話を続ける。何かを決心したかのように自信に満ちたその表情を見て、私は少しばかり安堵すると同時に、何を聞かされるのかと身の引き締まるような思いを感じるばかりだった。  彼は軽く咳払いをし小さく首を縦に振ると、力強い眼差しを私に向けながら声を振り絞って私に告げた。 「この際、ハッキリ言う。――俺は潮のことが好きなんだ!俺はお前がここにまた来る日をずっと待ち続けたんだ!お前にこの気持ちを伝えるために!」  唖然として口を開ける私。どう反応したら良いか分からず言葉を失う。一方で向かいの彼はその眼差しを輝かせ、呼吸を整えながら私の反応を静かに待っている。2人の間にぴんと張られた、見えない緊張の糸。  向かい合う私と彼の横で、微笑ましそうに私たちを見つめる平良さん。全てを知っていたと言わんばかりの得意な表情。彼女は私の答えを期待するように胸を躍らせながら、静かに珈琲を1口飲み込んだ。  突然の告白に戸惑う私。  別に嫌いなわけではないし、むしろ"友人"として気兼ねなく接することの出来る相手だとは思っている。だから、好意が無いというのは違う。しかし、それは恋心というより友情というやつで――。でも、島原くんといた時間は不思議と心地よくて楽しくて、それって本当に"友情"の一言で片付けて良いものなのか分からなくて――。あぁ、あぁ、どうしよう。  彼への返答に対し逡巡しているとき、向かいに座っている平良さんがクスクスと小さく笑いながら私を手招きした。私が彼女の元へ近づくと、彼女は私にそっと優しく落ち着いた声で耳打ちする。 「そういえば、今日坊ちゃんから学校で何か話がなかったかい?」  なぜ今それを聞くのかと疑問に思いつつ私も彼女へ耳打ちする。 「父の亡くなった日のことについて、彼から話を聞きましたよ」  そう答えると、彼女はフフフと小さく笑った。何故笑ったのかと私が首を傾げると、彼女は朗々とした穏やかな笑みのまま再び耳打ちした。 「坊ちゃんね、ここに薫子ちゃんが来てくれるようになるには、自分が今まで隠していたことを正直に話すしかないって言っていたの。話の内容を聞く限りだと、却って逆効果じゃないかって思って辞めさせようかと思って、話して大丈夫なのって聞いてみたんだ」 「・・・・・・」 「そしたら、坊ちゃんはこう答えたのよ。自分を嘘で偽り続けるようなヤツに、愛しい人を愛しいと思う資格も守っていく力も無いはずだって。相手もきっと同じように、自分の心の内を曝け出してくれるような人を信頼し、期待し、愛してくれるはずなんだって」 「・・・・・・」 「坊ちゃんのその時の目は、とても力強かったわ。決心を固めた鋭い目だった。そんな目で見られると、とてもじゃないけど、彼を止めることは出来ないと思った。――まあ、止めるつもりも無かったんだけど」 「・・・・・・」 「ねぇ、薫子ちゃん。貴方も偽り無しに自分の気持ちを彼に伝えてみてはどうかな?坊ちゃんは『好き』という答えを待ってないわ。ただ、貴方の正直な気持ちが聞きたいだけだと思うの」 「私の・・・・・・正直な・・・・・・気持ち・・・・・・」  私がそう言うと、平良さんは微笑んだまま小さく頷いた。  私の、正直な気持ち――。私は、島原くんのことを、どう思って――。  悩む私を静かに見つめる彼の目はいつになく真剣だ。彼は私の本心を知りたいのだ。生半可な気持ちでは答えられない。  私は、ワタシは、わたしは、――。頭の中で、私の想いを、言葉を、1つ1つ紡いでいく。解けた糸を紡ぎ併せて、1つの太く硬い縄にするように。      何分もの時間が流れた。  渋面を浮かべて思い悩んでいた私は、漸く決心がついた。言おう、これが私の本心であると。心に引っかかっていたものが段々と剥がれ落ちていくように、私の顔は次第に晴れ晴れとして落ち着きを見せていった。  顔を上げた私は、和やかに笑みながら島原くんを見つめた。彼と目が合ったその刹那、私の心は一瞬だが躊躇してしまう。本当に言って良いのか、彼の心を振り回して困らせてしまわないか――。いや、もう良いんだ。彼だってそれを求めている。揺らぐ心を押さえ込んで、私は彼に打ち明けた。 「島原くん、私は――!」  その時、3人だけのこの駅に列車が入線してきた。  レールと車輪が擦れ合うフランジ音を響かせ、ジョイント音を小気味よく立てながら。ぷわんと軽く警笛を吹鳴して、列車はゆっくりと駅に入線してきた。駅舎の外、プラットホームに立って列車の到着と発車を見守る平良さんの耳に、私の声は届いていなかった。  その瞬間、私の声は駅舎の中にいた私と彼の2人だけの秘密となった。  平良さんが発車を見送り駅舎の中に戻ってきたとき、私と彼は気まずそうに視線をそらしていた。互いに顔を赤くしながら、何も語らず、ただ喜びも悲しみも寂しさも満足も、複雑な感情を全て無にしたように――。  平良さんは、全てを理解したように優しい表情で私たちを見つめると、そっと静かに声を漏らした。 「2人とも、よく頑張ったね」  優しく抱擁されるような、温もりのある声。その声を聞いた途端、私はその場に膝から崩れ落ちた。嗚咽を漏らす私を、優しく宥める平良さん。  涙で霞む私の目の先には、目に涙を浮かばせながら私たちから目線を逸らすようにして粛然と立っている彼の姿が見えた。
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