ヌワラエリヤの決意

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ヌワラエリヤの決意

 受話器を置いた手が、少し冷えている。  竹馬の友から腐れ縁が続いて、35年。小2の始業式の朝、隣席で笑っていたロングヘアの女の子とは、両親を除くと1番長く人生を並走してきた。育んできた友情の中には、必ずしもポジティブな感情だけを束ねてきた訳ではない。ライバル心や、時には嫉妬さえ、織り込まれている。  それでも――。  もらった紅茶缶の蓋を開ける。パカン、と小気味良い音を立て、花のように柔らかな茶葉の香りが心を軽くする。  ヌワラエリヤ。スリランカの高地産(ハイグロウン)の特徴、しっかりとしたコクがあり、緑茶に似た爽やかな渋みとほのかな甘さが同居する、複雑で繊細な味。この紅茶を知ったのは、かなり熱の入った1年越しの片想いが砕けた高2の夏。久実子が連れて行ってくれた喫茶店で、店長がオススメする“本日の紅茶”になっていた。  その喫茶店は、私達の生活圏から一駅離れた大学の近くにあり、ファストフード店のような明け透けな賑わいもなく、カフェのような気取った緊張感もなく、かといって、地方都市に特有のうら寂れた野暮ったさもなかった。年上のいとこの部屋みたいな、高校生が大人に憧れて、ちょっと背伸びするにはぴったりの落ち着いた佇まいだった。  ヌワラエリヤとオレンジのタルトの上質な明るさに励まされながら、私は苦い恋を飲み下した。そして、数回足を運ぶうちに、新しい恋を拾い、紅茶の種類に詳しくなった。久実子も、その喫茶店を切っ掛けにして出会った大学生の色に染まり、コーヒーの蘊蓄をやたらと披露するようになっていった。コーヒーの次は、パスタになり、蘊蓄がカクテルに変わった頃、「婚約する」とメールで第一報が届いた。それが社会人5年目、私が育児休暇中のことだ。  あの喫茶店で拾った恋は、6年間ゆっくりと熟成して、私に新しい家族をもたらした。想い出の喫茶店が閉店しても、記念日には聖士郎(ダンナ)とティーカップを傾けた。愛の結晶にも恵まれて、仕事にも復帰して……ずっと順調な日々が続くと信じていた。 『友里加ちゃんは、本当にヌワラエリヤが好きだよね。まだ先だけど、銀婚式(結婚25周年)には、紅茶の産地を旅行しようか』  そんなことを言ってくれた聖士郎(ダンナ)は、銅婚式(結婚7周年)を目前にして、ひとり旅立ってしまった。出張先で乗ったタクシーが事故に巻き込まれて……死に目にも会えなかった。  シングルマザーの子育ては、世間で言う通り大変だった。でも、世間が言うよりも楽しかった。親の欲目は承知だが、聖真は本当にいい子に育ってくれた。親想いの優しい男の子だ。そんなひとり息子は、今年大学に進学すると、同じ高校出身の先輩と付き合い始め、同棲したいと言い出した。実は、高校時代から交友はあったらしい。私は「20歳まで待て」と主張したのだけれど……息子は、彼女が来年他県に就職することを理由に焦っていた。平行線のまま時間だけが流れ、2ヶ月前、彼は相手の女性と一緒に深々と頭を下げて、この家を出て行ってしまった。  突然、子どもの世話をする日常を奪われて、私は平静ではいられなかった。  だけど――。  少し冷めたヌワラエリヤに口をつける。  そう。突然、なのだ。  最愛の人が、いつまでも側にいると……互いに世話を焼き合いながら時を重ねることを、誰も約束など出来ないのだ。私と聖士郎(ダンナ)がそうであったように。 「まだ、43、か……」  久実子の言う通り、もうを手放すタイミングなのかもしれない。私にしか出来なかったことは、そろそろバトンタッチしよう。受け継いでくれる人がいることに感謝して――。  夫婦なら、結婚35周年は「珊瑚婚式」。腐れ縁の久実子(パートナー)と、南国の海にでも旅行しようかしら。 【了】
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