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「あの、亜希さん」 「違うよ」 「え?」 「あたしは”りりか”ですぅ」 「そうですか、亜希さん」 「なんだよー、つれないなあ。もう少しノッてくる姿勢出してきなさいよ」  全然知らない女性が来た方が、もう少し緊張しなかった気がする。りりか……もとい亜希さんは、当初の予定通りのカフェに俺を連れてきた。手を繋いで、というか、俺の手を千切れんばかりに引っ張って。  ちなみに、手を繋ぐことと腕を組むこと以上の行為はご法度だが、逆に言うとそこまではサービスとしても許可されている。つまり亜希さんは俺がかつての後輩・平河(ひらかわ)佑介と知ってもなお、レンタル彼女「千代田りりか」としての接し方を通しているというわけである。  俺や亜希さんの通っていた高校は部活動加入が強制で、運動も厳しい統制も嫌いだった俺は仕方なく、図書局の門を叩いた。そこに先輩のひとりとして所属していたのが亜希さんで、結局は彼女の卒業間近まで図書室で時間を共にした仲である。一度、図書局に入った理由を亜希さんに訊ねてみたら「他の部活が全部面倒臭そうだったから」という地獄のような理由が返ってきた。  あの日、地獄みたいな理由ですね、と返した俺に「きみもだよ、それ」と笑っていた亜希さんが今、俺のすぐ近くにいる。  亜希さんは俺よりも先にアイスカフェラテを飲み干して、ストローの入っていた薄っぺらい袋をちまちま三角に折っていた。それが亜希さんの高校生の頃からの癖であることを俺は知っているし、やはり目の前にいるのはレンタル彼女ではなく先輩なのだ……と思い知らされる。  そんな気持ちを知ってか知らずか、亜希さんは顔から笑みをはがさないままで言った。 「ね。事前に打ち合わせしてた通り、この後はショッピングしてからごはん食べに行くってことでオッケーだよね」 「オッケーって、亜希さんマジでやる気ですか、疑似彼女」 「当たり前っしょ。きみだって、そのために申し込んだんでしょ? あたし、いつもは適当だし面倒臭がりだけど、知り合いだからって手を抜いたりなんかしないよ」  ちなみに亜希さんは高校卒業後「本当のものぐさはそんなところに受かるはずがない」という名門大学に進んだ。にもかかわらず、なぜこんな仕事をしているのかはよくわからないが、敢えて突っ込むべきことではないように思えた。 「でも、サイトの写真でわかんなかった? あたしのこと」 「目元にボカシが入ってたから気づきませんでした」 「えー。あたしが美人になったから、じゃなくて?」  そう言って微笑む亜希さんは以前と比べるとかなり髪をのばしていて、少し紫がかったヘアカラーも相まって「俺の知る佐久間亜希」とはかけ離れた外見になっていた。  ただし美人に「なった」というか、亜希さんはもともと高校生の時から可愛い人だったし、それに大人の色気がプラスされた……っていう感じだろうか。  しかし、そう素直に口にしたらこの先輩はすぐ調子に乗ることも、俺は心得ている。 「いやー、気づかなかったですね。やっぱり目元隠されたら全然わかんないです」 「そういう可愛くないこと言うとこ、昔と全然変わってないね」 「亜希さんもですよ」 「どこらへんが?」 「美人になった、とか自分で言っちゃうあたりが。まあ間違ってないとは思いますけど」  昔だったらテーブルの下で足を蹴られていただろうが、今はそうしてこないのは、亜希さんがレンタル彼女として、自身に与えられた使命を全うしようとしているからだろう。  たぶん。  頬を膨らませながら、空っぽのグラスの中で氷がとけてできた水を、ズゴゴゴと吸い込んでいるし。  そして唇から離れたストローに、ほんの少し口紅がついていることに俺が気づいたとき、亜希さんは言った。 「ねえ。ひとつだけお願いがあるんだけど」 「なんですか」 「あたしも、ここからは自分がきみの先輩だったってことは忘れて、彼女として接するからさ。きみもあたしの後輩だったこと、この先は忘れてよ」 「忘れる?」 「かつての先輩後輩とかじゃなく、あくまでも、恋人と一緒にいるつもりで接してほしいんだ。じゃなきゃあたし、ただ後輩からお金まきあげてるだけになっちゃうでしょ。きみがここに来たのだって、なんの理由もないわけじゃないと思うからさ。それが叶えられないのなら意味ないし」  その通りだ。そうでなくては、俺がコツコツと貯めていた貯金を切り崩した意味がない。なにより、こういう時に「じゃあもう昔話でもして適当にやろっか」じゃなく、亜希さんはあくまでレンタル彼女として接してくれるのだという。適当だ……とか言いながらも、いざとなればしっかりと役割をこなそうとしてくれているのがわかる。  そういえば、俺はこの人のそういうところを、昔からひそかに尊敬していたんだっけ。 「わかりました」 「よし、決定。あたしのこと亜希って3回呼んだら、罰ゲームってことにしよっか」 「なんですか、罰ゲームって」 「すっごいクサい恋愛ドラマの台詞を、バッチバチに感情込めて言ってもらおっかな。それとね」 「さてともうこんな時間だしそれじゃあ行きましょうか、りりかさん」  罰ゲームの中身が具体化する前に早口で言い切った俺は、席を立つ。目線を亜希さんに移すと、最初に駅で会った時と同じ、笑顔の花が咲いていた。 「彼女に敬語は使わなくていいよ、佑介」  減点、1。 ***  自分では選ばないような服を着せられているような。  あるいは、白昼夢の中を漂っているような。  とにかく、そんな不思議な感覚の中で俺たちの「デート」は進んだ。もちろん、相手が亜希さんだと知っていたら事前に立てたプランも違っていたのかもしれないが、俺は見知らぬその日限りのレンタル彼女と過ごす予定で組んだプランを、よく見知った仲の女性と辿っていった。 「ねえ、この服、佑介に似合いそう」  駅に直結したショッピングモール。亜希さん、いや「りりか」は笑いえくぼを浮かべながら、俺に話しかけてくる。「先輩」であることをいとも簡単に捨て去って、とても自然に。  正直、疑似恋愛などということを自分ができるとは思えなかった。さっき改札の前で待っているときもずっとそんな心配だけが胸の中で渦を巻いていたのだが、今はそれ以上に強い想いが俺を動かしている。  たとえ金を払ったのが自分だとしても、俺は目の前にいる彼女の気持ちに応えなければならない。  ひとりの一般男性として。 「そうかな。少なくとも、自分では絶対選ばない色合いなのは確かだけど」 「だからこそイイんじゃん。毎日同じことの繰り返しばかりじゃ、気持ちまで滅入っちゃうよ?」 「まあ、一理あるか」 「そうでしょう。さあ、きみの中継地点はあそこだ。早く行きたまえよ」  りりかが細い指で差し示した先には「フィッティングルーム」と書かれた一角がある。 「中継地点って、ゴールはどこなのさ」  俺が素朴な疑問を口にすると、りりかは自信に満ち溢れた声色で言った。 「あたし」  大学で演劇サークルにでも入ったのかな、この人。  そう思ってしまうほどには自然に、なんら恥ずかしがる様子がなかった。俺は口元が緩みそうになるのをこらえながら、りりかが差し出した服を受け取り、そそくさと試着室に向かった。 *  陽が沈み始める頃合いだった。  左手にはあの後、なし崩しに購入した服。そして右手は、りりかの左手を握っていた。うろうろしていたらある程度時間が経っていて、俺たちはディナーに向かい、人の間をぬって歩いていた。できるだけ自然体の調子で「りりかは、人の多いところは好き? 嫌い?」と訊ねてみる。 「あたしは割と嫌いじゃない、かな。佑介は」 「好きでも嫌いでもない」 「ほーう。理由は?」 「人と関わるのは苦手だけど、人間観察するのは好きだからな。りりかはどうして嫌いじゃないんだ?」  すぐに返ってくると思っていた返事は、やや遅れて、喧騒の中で静かに届いてきた。 「自分は結局この世界で独りぼっちなんだ……って思わなくて済むから、かも」 「独り、ねえ。わかる気もするけど、周りがみんなカップルとかだったりすると、余計に孤独感が際立つんじゃない?」  上がり調子になった語尾と裏腹に、俺は思ったことを素直に口にしないように意識すべきだ……と思い至って、気持ちが下がりかけた。  その刹那。 「ふーん、あーね。そういうこと言うんだ。……だったらこうしてあげるよ」  りりかは、そうやってわざとらしくむくれたかと思うと、繋いでいた手を振り払って、自分の腕を俺の腕に絡ませてきた。手を繋いでいる間ですらどぎまぎとしていたのに、ゼロ距離で彼女の身体に触れ合う部位が増えて、頭の芯がぴりぴりと痺れた。 「なんだよ、いきなり」 「失敬なこというな。これこそが”きみもあたしも独りなんかじゃない”っていう、証じゃないの?」  そうだ。ささやかな安らぎを求めた結果、俺は今ここにいるのだ。  少しだけ、彼女に心の中を読まれたような気がした。
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