想い出が褪せる頃

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平日の夕方よりは夜に近い時間帯、俺は仕事終わりのスーツのままスーパーの惣菜コーナーと乾物の棚の間に身を潜めていた。 買い物客が陳列された商品と俺を見比べるのもなんのその、俺はじっと待っていた。 そして、目前を通り過ぎる男。 色素の薄い色の髪をした細身のスーツの男はまだオムツを付けている小さな子供を抱えて、カートを押していた。 ファンシーな絵が描かれた彼に不釣り合いな大きなバッグを肩から下げて。 「ふぇ…え〜ん…ふぅぅ〜ぱぁぱぁ〜…」 「え?真咲(まさき)今泣く?ちょっとだけ待って、もうすぐ帰るから…」 彼に抱かれている子供は疲れて眠いのか、ややぐずり気味で不機嫌な声を出している。 俺は百九十センチを超える長身を乾物の棚の脇に身を小さく屈めて対象に悟られないように観察していたのだがもうダメだ。 小さな瞳が俺を捉えてしまった。 「ぱぁ!ぱ!」 「ん?真咲どうし……あ!……郁弥(いくや)?何でこんな所に……」 振り向いた男は驚きながらも俺の名を呼んだ。 「あ…その…偶然?だな…」 ちょっとわざとらしかったか。 俺の名を呼んだ男は驚いた顔から一転、不機嫌な声を出した。 「郁弥まで…?俺に何の用だよ!」 大きな声を聞きつけて通りすがりの視線が俺と涼真に突き刺さる。 「ちょっと、何そんな怒ってんだよ!」 声を荒立てる涼真(りょうま)はカートを握る手に力を込め、俺の前から足早に通り過ぎた。 あれ? こんな奴だった? 俺の記憶の中の彼は穏やかで口数が少なくて、一方的に怒りを露わにするようなタイプではなかった。 追いかけ手でカートを掴む。 緩やかにスピードを落としたが決して止まらない。 「美織(みお)の差し金なんだろ?」 「美織の差し金?どういう事なんだ?」 俺は“ 差し金 ”という言葉が胸に引っかかりながらも逃げるように俺から離れていこうとする涼真について行った。 「帰れ」 「少しでいいから話しようよ、涼真」 「…チッ…」 涼真が会計をしている間に俺は余裕で追いつき、ストーカーのように涼真の住むマンションまでやってきた。 会社から三駅の駅近で同じブロックにスーパーがあり、恐らく子育てには便利な所。 半ば強引にエレベーターに同乗したが、涼真はチラリとも俺を視界に入れない。 居住階に到着して足早に歩いていく涼真はドアの鍵を開けるやサッと中に入りドアノブを引いた。 「ね、話そうよ!涼真!」 「子供寝かせなきゃならないんだ」 「待ってるから…ちょっと、閉めるなよ!」 涼真は話の途中でも扉を閉めようとして、ドアノブを握った手に力を込めている。 俺は片足を玄関の中に突っ込んで締め出しだけは回避するスタイルだ。 「声大きい、近所迷惑!」 眉間に皺を寄せて涼真が俺を睨んだ。 ……確かに。 玄関扉を半開きにして男二人が揉めているからな。 だが俺だって譲らない。 「……じゃあ、入れてよ」 涼真が俺から視線を逸らした。 「……ちッ……」 …また舌打ちかよ! だが粘って正解。 ドアノブを掴んでいた手が緩み、俺は無理やり身体を扉の内側に滑り込ませた。 部屋に通され、とりあえず物が少なそうな床に腰を下ろした。 見回せばオモチャや大量の洗濯物が室内の至る所を占拠し、俺は小さな子供を抱えるヤモメの現実を垣間見た気がした。 「真咲、あ〜ん…」 「ん〜、ぱぁぱ……やぁ…」 小さな子供の食事風景とはこんな感じなのか? ローテーブルに並べられたおままごとのような食事。 その前で脚の短い小さな椅子に大きなヨダレ掛けを装着して座っている子供。 「真咲、食べないと大きくなれないよ」 「だぁ!」 右手に握ったフォークを宙に振り上げて左手で小さなおにぎりをご機嫌で握りつぶす。 「真咲!食べ物を粗末にしない!」 「きゃ〜ぁ!」 怒る父に喜ぶ子供。 子供の生態を知らない俺にはコントにしか見えない。 「もしかして、俺の存在に興奮してる?」 見慣れない大人がいるせいなのか? 「あー……いや、いつも…家じゃこんな感じ……」 涼真の視線は衣服やおもちゃが散らばった室内を泳ぎ、より深く刻まれる眉間の皺に涼真の苦労が容易く想像出来た。
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