想い出が褪せる頃

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「この部屋、暑くないか?」 無言で仕事をしている中、佐藤リーダーが低く苛立った声でネクタイを緩めた。 そろそろ夏本番、真っ盛り。 ブラインドを下ろしていても室内に夏の暑さが入り込む室内。 「エアコンならちゃんと冷房で入ってます」 対照的にモニターから視線を外さず、涼しげにサラッと答える中野さん。 「もしかして二十七度?せめて二十四度にしてよ」 「暑がりなのは知ってますけどクールビズってご存知ですか?」 「そんな事言ってると俺のパフォーマンスが海抜ゼロメートル並に落ちるぜ」 「…ハイハイ。分かりました。…フゥ…」 ため息を吐き出し、中野さんが折れた形でエアコンのコントロールパネルを操作した。 冷たい風が勢いよく吹き出し口から出てきて佐藤さんの顔が緩む。 「あ〜コレコレ…」 「さあ、エベレスト並にじゃんじゃん働いて下さいね」 …にしても…この二人、仲良いよな。 三人しかいないから仲が悪くても困るんだけど。 「香束、手がお留守」 一瞬よそ見をしただけで中野さんに見つかってしまい鋭い眼光が刺さる。 「は、はいッ」 鋭い視線がトゲトゲと体に刺さるが今日も少しでも早く帰れるように頑張ろ。 そう思いキーボードの上で指を踊らせた。 いや、たいして踊らないけどね! 世間では夏休み秒読みなのだが…何故かここは繁忙期の忙しさ。 「香束、コレも!イケるか?」 「え!ハイ…だ…大丈夫デス…」 いつもならこの時期はそれほど忙しくないのに…。 今年は皆…と言ってもこの人数だが…抱えている仕事が集中していた。 「ったく!お偉いさんが勝手に話をすすめちゃうから!もう!」 「俺達は社会の歯車です」 「うっわ…キツ…」 先輩達は文句を言いつつ、手はしっかりとキーボードを叩いている…さすが! 「あ、そうだ。香束、今年は夏休み取れると思うなよ」 「え…」 「八月中は終電だからな。覚悟しとけ」 「マジっすか…」 「大マジ」 …聞いてない…。 俺の…俺の夏休み…。 「…て訳で、死亡宣告が出ました…」 「うわ…。噂には聞いてたけど…」 忙しそうだもんね、と言って涼真がカランと涼し気な音を立てて麦茶の入ったグラスをテーブルに置いた。 「サンキュ。…あーよく冷えて美味い」 今日は幸運にも終電とは無縁の時間帯に会社を出られた。 今はまだ七月だが死神が降臨するのは来月か…。 ま、ウチは三駅だからタクって帰って来てもたいして問題もない距離だけど。 「しょうがないよ。大人だもん」 「涼真、しょうがないって顔じゃないよ」 俺よりも涼真の方がショックを受けた顔に見えた。 「あ~あ、今年は真咲を海に連れて行きたかったのにな」 「…あ…あのね、真咲なら夏休みは水泳部の練習で忙しいって」 「…え…そうなの?」 コクンと涼真が頷く。 なんだ…部活か。 「じゃあ、しょうがない、な」 三人で出かけようと思っていたのに、真咲が忙しいんじゃ邪魔する訳にもいかないし。 「来年…だな」 「そうだね」 来年こそは、海に…海じゃなくてもいいんだけど…三人で泊まりで出掛けよう…俺は心に誓った。 佐藤さんの言葉通り八月中はほぼ終電で帰宅し、真咲の夏休みが終わる頃にようやく人道的な時間に帰れるようになった。 「香束お疲れ様」 「っても年明けからまた忙しくなるけどな」 労ってくれる中野さんと突き落としてくる佐藤さん。 「え!佐藤さん鬼ですか?終わったばっかりの今そんな話しないで下さい!」 「ご褒美に明日から二日間有給とっていいぞって言おうとしたけど…いらないなら…」 「嘘です〜ありがとうございます」 「もう帰っていいよ」 中野さんがくすくすと笑っている。 「お先にします!」 やったー!と俺は弾む気持ちで会社を後にした。
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