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流れ落ちる水に意識が集中しすぎたせいか指から食器が滑り、下にある別のそれに触れてカチャンと音を立てた。
「イケナイ…何で俺が緊張してるんだか…」
洗剤でヌルつく皿をしっかりと持ち直してから、ふと振り返ってテーブルを眺める。
さっきまで三人で食卓を囲んでいた。
いつもと同じように。
…違う…
いつもと同じように見えた…だけ。
胸の中に心配や不安な気持ちを抱えていても、笑顔で取り繕っていただけ。
今、涼真は真咲とどんな話をしてるんだろう。
確かに真咲には大切な事をずっと言っていなかった。
でも…今まで真咲や俺が、見て、聞いて、感じてきた事は全て事実なんだ。
涼真が戸籍上でも真咲の父親である事に間違いは無い。
最初が違っただけ…。
始まりが…涼真じゃなかっただけ…。
何気なく動かした腕がノブに当たって勢いよく流れ落ちる水の飛沫が辺りを濡らす。
「あちゃー…」
ぼんやりしていたせいで流し周辺や腹の辺りがびっしょりだ。
「はぁ…」
一旦手を止めてシンク際の壁や床を拭いているとため息が零れた。
「気になって集中できねぇ…」
でも、当事者でない俺は…ただ待つ事しか出来ないんだ…。
夢を見た。
手紙を読む夢。
それは真っ白な便箋に綴られていて読むのが少し怖かった。
数枚折り重なったそれには咲百合の…小さく整った文字が並んでいて、懐かしさと共に底知れぬ恐怖を感じた。
『 私が死んだ後でこの手紙を読む郁弥へ 』
こんな書き出し、絶対に中身が重いだろ?
俺は読みたくなかった。
涼真と幸せに暮らしている咲百合からの手紙なんて。
でも、これを読めば涼真がどうしているか分かる、そうも思ったんだ。
胸が締め付けられるように苦しいながらも…俺は手紙を読み進めていった。
『お元気ですか。
あなたがこの手紙を読む頃、私はもうこの世にいません。
楽しくて、美しくて、辛い人生でした……』
咲百合の透き通った高い声が耳の奥で微かに響いた。
「…くや、郁弥…」
「…ん…?」
「こんな所で寝たら風邪ひく」
声をする方に顔を動かせば涼真が俺を揺り起こしていた。
「涼真…。俺、…寝てた?」
「ぐーぐーと、そりゃ気持ちよさげにな…」
「マジか…」
いつの間に真咲との話を終えたのか、涼真はソファーの背もたれに手を付いて俺を見下ろしていた。
室内灯を背にしているせいかその表情は暗くてよく分からない。
…なんだよ、寝落ちするなんて!俺!
さっきまで緊張で眠れなかったはずなのに!
「…ウソ」
「え?」
「ホントは眉間に皺寄せてウンウン唸ってた」
視線を逸らされ角度が変わって見えたのは、少し困った涼真の顔。
「…夢のせいだ」
「夢…見てたの?」
「咲百合の…夢」
「……あぁ」
急に立ち上がり、俺に背を向ける。
「真咲に…話した」
「……」
「最初っから最後まで」
「…そう…」
小柄な背中が一段と小さく見える。
体を起こし無意識に涼真に近寄って…抱き締めた。
「頑張ったな、涼真」
「…」
「真咲だって…分かってくれる」
「……」
回した手の甲に温かな水が零れ、表情は見えないが涼真が泣いているのが分かった。
「疲れたろ?もう休もう」
室内灯を落とした暗い中、涼真の肩を抱いて寝室に送った。
楽しくても、悲しくても、辛くても…朝はやってくる。
外が明るくなり始めた頃、俺はたいして眠れぬままベッドを出た。
本棚から取り出した数冊の分厚いアルバムを持って。
リビングのソファーにそっと腰を下ろしてその表紙を捲る。
一緒に暮らしだしてからの写真。
だから真咲が産まれたての赤ちゃんだった頃の物は無いんだ。
ページを捲れば涼真と真咲の笑顔。
これは、真咲が熱を出して初めてウチに泊まった日の朝、俺がこっそり二人を撮った写真。
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