優しい雨の向こう側

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優しい雨の向こう側

 今年も止まない雨に慣れる季節がやって来た。去年と同じように学校の昇降口で、傘が嫌いな僕は雨が止むのを待っている。去年と違うのは少しだけ高くなった視界と、こんな時に隣に星野がいないってことだ。それだけなのに、ひどく独りぼっちになった気分になって来る。坂崎とも、もっと色んなことをちゃんと話せたら良かった。だったら、もしかしたらあいつもまだここに居たかもしれないのに。  湿ったグラウンドに人の気配はなく、陰った夕方が紫を引き連れて、もうすぐ夜に変わろうとしている。長雨のせいで運動部が揃って休んでいるから校庭の照明もついてなくて、夕方と夜の隙間は灯りのある暗闇よりもずっと深く暗く感じてしまう。雨が降り止む様子もないまま、僕は誰かが置き忘れた傘を盗もうと手を伸ばして、止める。溜息を吐いて、深く息を吸い込むと六月の匂いがした。鼻だけでゆっくりと息を吐きながら、ぼんやりと去年の今頃を思い出す。  高校二年に上がったばかりの僕は、右も左も分からないフリをしてトラブルから逃げてばかりのせこい人間だったように思う。クラスではある問題が起こっていて、その問題には首謀者がいた。それが坂崎だった。坂崎と僕は小学五年からの付き合いで、まだ知り合ったばかりの坂崎は顔立ちが整っているのもあって、シャイな女の子みたいに大人しい性格の奴だった。五年生に上がった時、クラスの違う僕らは放課後の卓球クラブに入ったことで口を利くようになった。体育館の隅っこでアニメやゲームの話で盛り上がり、すぐに僕らは仲良くなった。当時の坂崎はあまり友達が多いタイプではなかったし、面白いことを言う訳でもないし、とにかく全然目立たないタイプの奴で、おまけに父親が地元権力者の議員だったから何だか近寄り難いというのもあった。「ボンボン」と陰口を叩かれていた坂崎は中学に入るとイジメの対象になった。だけど僕はそれを知ってて助ける訳でもなく、かと言って同じクラスではなかったから半ば知らないフリをして坂崎とは付かず離れずの距離でお互いの家へ遊びへ行ったりしながら、付き合いを続けていた。  中学一年の間はイジメが止まる気配はなかったけれど、中学二年の夏休み明けを境にピタリと止んだ。夏休みが明けると、坂崎はとんだ変貌を遂げて学校にやって来たのだ。いかにも真面目そうな坊ちゃん刈りだったヘアスタイルを目が覚めるような金髪にして、サイドにはラインを刈り込み、大きなピアスを耳でぶらぶら揺らしながら堂々と登校して来たのだった。  坂崎をイジメていた連中は片っ端から復讐の闇討ちや鉄拳制裁を受け、日に日に形勢が逆転して行き、坂崎は中学二年が終わる頃にはもう誰も手がつけられないほどの悪ガキになっていた。  僕と坂崎は中学二年の秋に偶然外で出会ってそのままゲームセンターへ遊びへ行ったきりで、それからは廊下で擦れ違っても話し込んだりはせず、軽く挨拶する程度の関係になっていた。  いよいよ高校の志望校を決めなきゃならない時になって、僕が行こうとしていた高校を坂崎も志望していると他の友人から聞かされて、その時はちょっとだけ寂しい思いをしたりもした。冬を迎えると僕も坂崎も元々偏差値の高くない、一応名ばかりは「共学」だけれど実態は男だらけの高校へ晴れて無事、合格を果たした。  そして高校二年の五月。中学二年からずっと疎遠になっていた僕と坂崎は小学五年で知り合って以来、初めて同じクラスになった。  同じクラスになって一ヶ月足らずで、僕の知らない坂崎のことを知ることが出来た。休憩時間が終わると坂崎はいつも煙草臭いということ。これは中学の時からだけど、相変わらずヤンキー風な男子連中を常に引き連れて歩いているということ。先輩や後輩と校内でなんらかの金品のやりとりをしているということ。背も高くて顔も良いから他校の女子達にモテまくってるということ。まだ中型の免許はないけれど、大きなバイクを持っているということ。週末は色んな場所へ出入りしていて、その場所の中には僕の想像も及ばないような危ない場所もあるということ。  その話のほとんどを、坂崎を中心とするクラスの男連中から聞かされた。  同じクラスになれたけど、坂崎はずいぶん遠くの人になってしまったんだなぁと思っていると、奴が授業中に前の席に座る丸山という物静かな男子生徒の背中を足でガンガン蹴っている場面を目撃してしまった。 「僕は外国のね……ミッキーマウスの、昔の白黒のアニメがとっても好きなんだ」  そんな風に顔を真っ赤にし、照れながら語っていた小学五年の坂崎はもうこの世界のどこにもいないのだと、前蹴りを食らわす姿を眺めながら痛感した。  その日、僕らは校庭の片隅でクラスの男連中と意味もなく思い切りフェンスに飛び込んで激突して、腹がちぎれそうになるくらいの笑い声をあげていた。たまたま外に出て空気を吸っていたら声を掛けられて、「フェンス激突チャレンジ」に僕も参加することになった。もしも参加しなかったら、坂崎からどんなイチャモンをつけられるか分かったもんじゃなかった。  僕がフェンスに向かって全力疾走して大の字でジャンプし、フェンスに突っ込むと周りからワッと大きな笑い声が上がった。 「海斗マジで馬鹿だわー!」 「漫画だったら人の形の穴が空いてるよ!」  その声に少しだけ気分を良くして立ち上がり、坂崎が笑っているのを見てホッとしている自分に、気分を良くしたのと同じくらいの嫌気が差す。  僕と坂崎は小学校からの幼馴染だけど、今はもう昔みたいなおとなしい坂崎はいない。今の坂崎はクラスの、そして地域の圧倒的なボスとして君臨している。僕はその取り巻き以下の、たまたま声を掛けられた端っこの一人に過ぎない。ここで生きていくには彼らに笑ってもらえるのが唯一の免罪符なのだ。  取り巻きの中でもクラスの数少ない女子達から「金魚の糞」と呼ばれている色白で小太りの山瀬が、坂崎をチラ見しながら手を上げた。 「よし、次俺行かせてもらうぜ。見てろよ!」  山瀬は親が美容師で人一倍お洒落に敏感な奴だ。坂崎の傍にいつも居て、友人価格で坂崎の髪を親に切らせているらしい。最近空けたばかりの坂崎とお揃いの髑髏の銀ピアスを光らせながら助走をつけ、「うおー!」と叫ぶと、フェンスにぶつかる手前で半回転し、そのまま尻を向けて見事に突っ込んでいった。ガシャンとたわむフェンスの音と、大笑いする男子達の声。その声の中には僕の笑い声も、今は交わらない坂崎の笑い声も混じっている。  こんなものの何が一体おかしく笑っているのかも分からなかったけれど、こんな馬鹿馬鹿しいことをしながら僕らはその日、昼休みの暇を潰していた。  半回転して突っ込んだ山瀬をげらげら笑っていると、同じクラスだけど滅多に僕らとは絡まない星野という美術部の男子がやって来た。スケッチブックを小脇に抱えながら、人が良さそうにヘラヘラ笑っている。細くて小さな身体の星野は、いつ見てもヘラヘラと笑っていた。フェンスに突っ込んで倒れ、起き上がった山瀬が星野に声を掛けた。 「おい、どうしたんだよ。珍しいじゃん」   その声に坊主頭を掻きながら、星野は照れているような、だらしがないようにも見える笑顔になって応える。 「う、うん……あの、みんな楽しそうだったから、来てみた」 「おまえもフェンス突っ込む?」 「ぼ、僕は、ちょっと……あの、みんなのこと、描いてもいいかな?」  誰も良いとも悪いとも言わなかったけれど、星野は受け入れられたと思ったみたいで、嬉しそうにスケッチブックを捲りながらフェンス横の大きな木の根元に腰掛けた。「こんなもの描くのかよ」と言ってみんなで笑っていると、坂崎が無言のまま星野のスケッチブックを取り上げた。 「描くんじゃなくて、まずはおまえも突っ込めよ。ほら」 「いや、僕は、ちょっと。い、痛そうだし……」 「痛そうじゃねーんだよ、痛ぇんだよ。描きたいなら突っ込めよ」  フェンスに突っ込むように迫る坂崎の目は真っ直ぐに星野を見据えていて、本気だった。ちっとも笑ってないし、隙がなかった。こんな時に、僕らは何も言えなくなる。押し黙ったまま、責任がこっちに回って来ないように祈るだけ。坂崎は平気で人を殴るし、蹴るし、そして傷付ける。本当は付き合いが長い僕が止めた方が良さそうなことは分かっている。けれど、僕は何も言えず、突っ立ったままその様子を眺めている。しかも、悪びれたフリをしてニヤニヤしているんだろうな、というのが自分でも分かる。  スケッチブックを足元に置いた星野は「わかった」と言って立ち上がり、小走りになってフェンスへ駆け出した。坊主頭が五月の光を所々反射して、細くて小さな身体はフェンスの手前で横向きになり、すぐにフェンスがカシャンと軽い音を立て、青色が揺れる。みんな全身全霊で突っ込んだのに対して、星野は自分の身体を守るためにフェンスに片手をついて、フェンスにしっかりと身体を受け止められていた。それを見た坂崎は「はぁ?」と不満げな声を漏らした。 「おいおい、何だよそれ。マジで突っ込めよ」 「つ、突っ込んだよ。すごく痛いし、指がジンジンしてる」  「知るかよ」  坂崎は星野が置いたままにしていたスケッチブックを拾い上げると、それを校庭へ向かって遠投する時みたいに思い切り放り投げた。勢い良く空中に投げ出されたスケッチブックはバサバサと音を立てながら、途中で失速して地面に真っ逆さまに落ちた。星野が小走りになって駆け出すと、今度はその後姿を坂崎が全速力で追い掛ける。 「ほらっ、しょー!」  走りながら飛び上がった坂崎は、星野の背中に何の前触れもなく突然ドロップキックを食らわせた。僕も含め、坂崎を知っている男子連中ならやられても笑って済ますしかないけれど、星野は違った。蹴られた瞬間に蛙みたいな格好で軽々と吹っ飛んで行き、そのままの姿勢でグラウンドの上に転がった。すぐに半身を起こして立ち上がると、坊主頭を掻きながら星野はしじみみたいに小さな目に涙を浮かべていた。数回咳き込んで、今にも泣きそうな顔で側に立って心底楽しそうに笑い声を上げる坂崎を見上げている。 「さ、坂崎君、僕、な、何か悪いことした? したんだったら、謝る」  これはヤバイ、と直感的に思った。星野が悪いことをしたから坂崎はドロップキックをしたんじゃない。坂崎はただ、ふざけたかったからドロップキックをしただけなんだ。それを本気にされた坂崎は、あからさまに機嫌を損ねた。海外では猟銃を持ってスポーツとして兎や狐を狩猟する遊びがあるみたいだけど、それをやってる人ってこんな感じなんだろうな、という「獲物を見つけた」と言わんばかりの嫌な表情を坂崎が浮かべ始めた。 「はぁ? もう行けよ。おまえ、マジになり過ぎててつまんねぇんだよ」 「えっ、ご、ごめん。坂崎君、ごめん。つ、つまんないのは、僕が悪いよね」 「行け、つったんだけど? 用ねーんだよ。バーカ」  坂崎は身長が一八十センチもあって、高校二年にしては背が高い。一五六くらいしかない星野はそんな大きな坂崎にずっと見下されたまま、汚れたスケッチブックを拾い上げ、あからさまに肩を落としながら校内へ戻って行った。坂崎は多分、その後姿を眺めながら苛立っていたと思う。悪者にされたと思ったのだろう。その日を境に、クラスの中で星野の扱いが少しずつ変わって行った。    僕は星野のことを高校二年になった年になってから初めて知った。顔だけは何となく見覚えはあったけど、教室の中ではいつも一人でいるし、絵ばっかり描いているし、とにかくおとなしくて人の良さそうな奴という印象しかなかった。けれど、一年の頃に同じクラスだった連中が言うには星野はクラスの人気者だったらしい。とにかく馬鹿でいつもヘラヘラしていて、周りの奴らからは「ナイスキャラ」と言われていたようだった。  その時、こんな逸話を聞かされた。高校一年の頃、星野はスマホ欲しさに近所のコンビニでアルバイトを始めたらしかった。ところが計算が元々大の苦手だった星野はシフトに入るたびに会計を間違え、たった二ヶ月でバイトをクビになった。そうして二ヶ月の間に稼いだ金をスマホの購入代金には使わず、大きな駅前で犬の保護を訴える団体に唆されると、なんと稼いだ金を全額寄付したのだそうだ。そんなエピソードもあり、星野は一気にクラスの人気者になったようだった。 「笑わせるタイプじゃなくって、笑われる天才だよ」  そんな風に山瀬から聞かされていたけれど、僕は「ふーん」としか思わなかった。クラスではいつ見ても机の上でスケッチブックを広げて何か描いていて、それもたった一人で楽しそうな顔をして描いているもんだから、星野はちょっとおかしな奴だと思っていたのだ。そういう種類の奴を笑うのは何だか違う気がしていたけれど、本人がそれでいいならまぁいっか。くらいの認識だった。  星野とは二年になって同じクラスになるまで接点は何もなかった。中学も僕とはまるで違う学校の奴だったし、一年の頃も僕のクラスでは星野が話題になることも特になかった。そのクラスだけの、それもあまり目立たないタイプの人気者は少なからずいると思うし、星野もそれくらいのレベルの奴なんだろうと思っていた。実際、廊下を歩いていると一年の頃は星野と同じクラスだった連中が奴を見つけるなり、その坊主頭を撫で回したりヘッドロックを掛けてふざけたりしているのを見ていたし、星野も楽しそうにやり返そうとしたりしているのも何度か見掛けたことがあった。  坂崎がスケッチブックをぶん投げた翌朝も、同じような光景が朝の廊下で繰り広げられていた。僕は廊下を歩きながら星野がみんなにからかわれているのを遠目で見ていると、僕の肩にぶつかりながら坂崎と山瀬が早歩きになって追い越して行った。  坂崎がやって来るのを見た他のクラスの連中はすぐに星野から手を離し、すぐに気まずそうな顔になって行く。坂崎はその連中に向かって「こうやるんだよ」と言うと、長い腕をいきなり星野の首に回し、体重を掛け始めた。星野は苦しそうに坂崎の腕をタップしたけれど、坂崎は楽しそうな顔になって星野の首から手を離そうとしない。そのうち星野の顔が真っ赤になり、歯を食い縛り始める。これは不味いと思って近寄ってみると、星野の顔がどんどん青ざめて行くのが分かった。それでも坂崎は満足げな表情のまま、決して首から腕を離そうとしなかった。 「坂崎、やばいって」  さすがに問題になりそうだったので声を掛けると、坂崎は「あぁ?」と僕に凄んでみせようとしてこちらを振り返り、諦めたような表情になって星野からすぐに腕を離した。背後で早歩きの足音が聞こえたので振り返ると、担任の体育教師で声と態度がデカイ大磯が眉間に皺を寄せながら、こっちに向かってずんずん歩いて来ているのが見えた。 「おまえら何してんだ! さっさと教室入れ!」  その場に居た連中は散り散りになり、星野も喉を抑えながら教室へ入って行く。僕も中へ入ろうとすると、坂崎に肩を軽く叩かれた。 「海斗、助かった。サンキュー」 「いや、うん。いいんだ」  そう答えた途端に、胸が沈みそうになった。僕は知らずのうちに坂崎に加担し、感謝されていた。  机に戻った星野はまだ喉を抑えていて、ホームルームが始まると土埃のついたスケッチブックを机の上に広げ、また何かを描き始めた。その様子を大磯に見つかると、「描いてないで真面目に聞けよ!」と怒鳴られていた。星野はつくづく不憫な奴だと、僕は思った。    星野の絵がどんな物か今まで気にしたことは無かったけれど、実は上手くないということを知った。それを知ったのは休み時間に坂崎達が絵を描く星野をからかい始めたのがきっかけだった。 「星野、スケッチブック貸せよ」  坂崎に命令されたんだろう。山瀬が星野から奪うようにしてスケッチブックを取り上げると、それを囲んだ途端に坂崎達は爆笑の声を上げ始めた。数人の女子が怪訝な顔を浮かべていたが、そんなもの奴らにとってはお構いなしだ。 「すげー下手じゃん! うわ、これ猫?」 「いやいや、犬でしょ」 「マジかよ! こいつ裸の女描いてる! エッロー!」  星野はその間、ずっと机に座ったまま俯いて、相変わらずヘラヘラとした笑みを浮かべていた。連中がスケッチブックを持って星野を取り囲むと、山瀬による尋問みたいな時間が始まった。聞いてて、良い気分はしなかった。 「おまえさぁ、なんでこんな下手なのに絵描いてんの? 恥ずかしくねぇの?」 「今年から、び、美術部に入ったから。その、課題」 「美術部? おまえさぁ、馬鹿なんだろ? おまえに「ゲージュツ」なんか分かってたまるかよ」 「た、たまたま美術部に遊びに行って、そこにあった石膏像を描いたら、こ、顧問の相田先生が、す、すごく褒めてくれたんだよ。大胆で、でも繊細だって」 「だーかーらー、おまえは馬鹿なのー! 美術部って全然部員いねーから、おまえを騙したんだよ。あのセンコーもジジイの癖してタチ悪いよなぁ」 「だ、騙されてなんかないよ! 本当なんだから!」  珍しくムキになって星野が答えると、坂崎達は腹を抱えて笑い出す。坂崎、金魚のフンの山瀬、たまに学校をサボる有坂、僕と同じ卓球部の広井、柔道部の肩山、常に一緒に行動してるって訳じゃないけれど、その中に稀に僕もいる。だからなのだろう、奴らの言葉は小説を読んでいるフリをしていた僕に向けられた。 「海斗! 見てみ、これ! センスあると思う?」  目を向けると、山瀬がスケッチブックを高々と掲げて犬なのか猫なのか分からない生き物を指差している。確かに、スケッチブックいっぱいに描かれたその生き物は線もヘロヘロだったけど、なんだかとても大胆で豪快だった。あんなに下手ならもう少し遠慮して小さく描いてしまいそうだけど、星野はなんであんなに堂々と描けるんだろうかと気にもなった。けれど、僕は奴らに合わせて苦笑いを浮かべ、首を傾げてこう答える。 「さぁ、センス以前の問題なんじゃない?」  たちまち起こる大爆笑。星野はヘラヘラ笑いから突然悲しそうな顔になって、僕は言い過ぎたことを少し後悔する。それでも、奴らは止まらない。今度は坂崎が僕に別の質問を投げ掛ける。 「海斗、おまえならいくらでこの絵買う?」  千円、と言い掛けて口元でブレーキを掛ける。そして、思ってもないことを言葉にしてしまう。 「星野に千円払ってもらって、処分する」 「金取って処分かよ! その答え、最高!」  ギャハハー、という漫画みたいな坂崎達の笑い声が教室中に響いて、僕もまんざらでもない顔を意識して笑みを浮かべる。人を貶める時の、とっても嫌な笑顔だ。きっと女子達は僕みたいな遠巻きで人を傷つける人間を一番嫌うんだろう。そんなことが確か、ネットに書いてあった。  僕は僕を見ないフリをして、ちゃんと奴らの耳まで届くような笑い声を意識して笑う。そうしなければ、次に「笑われる」のは僕かもしれないから。  スケッチブックは坂崎の手によってゴミ箱に投げ捨てられ、星野がそれを拾うと始業のチャイムが鳴った。一人の女子が星野に駆け寄って何か言葉を掛けていて、僕はそれが羨ましいと感じながら、机から数学Aの教科書を取り出した。  普段から坂崎の授業態度は反抗的だ。教師から質問を投げられても、十中八九「わかんねっす」と机の上に足を投げ出したまま答える。怒りに震える教師が坂崎の前に立とうものなら、PTAやマスコミの名前を口に出し、スマホで動画撮影をし始める。相手にするだけ自分が損をすると分かってる教師達は何も言わなくなり、授業中もおざなりに坂崎に質問を投げるだけになった。しかし、その日は少しだけ違った。 「坂崎。Aの問一の答えはなんだ?」  数学の授業中に指名された坂崎の楽しげな声が、背後から飛んで来る。 「星野君が答えたいそうでーす。一生懸命勉強したそうでーす」 「おお、なんだ。本当か、星野?」  白髪混じりの頭をした数学の谷口が尋ねると、星野は慌てた様子で急に立ち上がった。 「え、あの、あの」 「なんだ。坂崎の嘘か? 嘘はついたらダメだぞ、坂崎」  クラスの大半が坂崎に顔を向けると、奴は星野を向いて目を鋭くさせた。星野はその途端、さらに慌てた様子を見せて答えた。 「ちっ、違うんです、その、勉強はしました! こ、答えたいです!」 「へぇ、やるじゃないか。じゃあ 三枚の硬貨を同時に投げてみて、表が二枚出る確率。この答えは?」 「えっと……ちょっと、ちょっと待って下さい……三枚のお金を投げるんだから……えっと……えーっと」 「おまえ、えっとえーとって、星野は「エイトマン」か」  何気ない教師の一言に、教室は爆笑に包まれた。  あの教師はみんなを笑わせるつもりだったんだろう。だとしたら、大成功だ。僕は「エイトマン」が何者なのか良く分からなかったけど、確かに語呂も良いしちょっと面白いと思った。それはみんなも同じだったようで、星野のあだ名はその日から「エイトマン」になった。みんなが笑い声を上げる中、振り返ってみると坂崎だけがつまらなそうな顔を浮かべていた。  昼休み、ヘッセの「荒野のおおかみ」を借りに図書室へ向かった。外国の小説は滅多に読まないけれど、僕は中学校の読書感想文で「車輪の下」を読んで以来、ヘッセを好きになっていた。本を借りる時は別に格好つけたい訳じゃないけれど、読む時はちょっとだけ格好つけたい気持ちになる。  クラスの中で一人、机に向かって文庫本を広げていると誰とも違う特別な存在になれた気がしていた。数人の女子生徒の目線を気にして、少し難しい顔を意識して作ってみたりする。そんな時は大体、山瀬が僕をからかいに来る。 「海斗、またウンコ漏らしそうな顔して根暗の小説読んでんのかよ」 「暗くないって、おまえも読んでみろよ」 「無理無理! 絵がついてないと読めないもん」  そんなやり取りを交わしていると、クラスの端の方から女子達のくすくすという笑い声が聞こえてきて、その途端に恥ずかしくなる。笑い声で「バカだ」と言われている気がするし、僕は実際勉強はてんでダメだった。  そんなことを思い出しながら「荒野のおおかみ」を見つけ、受付へ持って行こうとして僕は思わず踵を返してしまった。  受付の女子が数少ないうちのクラスの女子だったのだ。その子は野原さんという子で、ショートカットで顔立ちが整っているため、うちの学年の男子達の間でトップクラスに人気のある女の子だった。目立つけど誰かと仲良くしている所を見たことがなくて、人付き合いが苦手な子なんだろうと僕は感じていたし、周りの男子も声を掛け辛いといつも言っている。まさか図書委員をやっているとは思わず、僕はなるべく顔を合わせないようにして受付に本を差し出した。  本から図書カードを抜き取り、日付を書き込んでカードを戻すと本に目を落としたままの野原さんに声を掛けられた。一瞬にして身体中に緊張が走る。 「早川海斗くん、私と同じクラスだよね?」 「あぁ、うん。そうだね」 「この本も漏らしそうな顔して読むの?」  ふいに恥ずかしい所を突かれて、僕は思わず変な声が漏れそうになった。いきなりそんなこと言われるなんて思ってもいなかった。 「なんていうか、そういう訳じゃないよ。普通に読んでるだけなんだって」 「なんか、いっつも怖い顔して本読んでるよね」 「そうかな? 自分じゃ分からないけど」 「星野君のことも、本ばっか見てるから気付かないの?」  星野君のこと。それはきっと、坂崎達にイジメられつつあることを言っているんだろう。こんな可愛い子にダサい奴と思われたくはなかったけど、僕はしらばっくれて目に見える恐怖から逃げ出す方を選んだ。その方が、立ち向かうよりも圧倒的に楽だからだ。 「星野が、どうかしたの?」 「……貸出期間、二週間なんで。返却忘れずによろしくお願いします」  野原さんは早口でそう言って、放りなげるみたいにして僕に本を渡して来た。その間、二重の大きな目で僕のことをじっと睨んでいた。  しらばっくれたのは認めるけれど、星野のことは僕がどうこう出来る問題じゃないと分かっていた。クラスの中で何の権力もない僕に、一体何を求めていたんだろう? それとも、男子一人一人をあぁやって際どい質問で突いてるんだろうか。万が一、坂崎の耳にでも入ったら大変なことになりそうだと思いながら、僕は図書室を後にした。この頃は星野に何があっても、何がどうなろうとも、僕にとってただの他人でしかなかった。  教室へ帰ろうとすると、坂崎達が廊下で輪を作っていた。近付いて行くと、その輪の隙間から誰かが激しく動いているのが見えて来た。誰かが喧嘩をしているのだろうと思ったら、喧嘩とは無縁そうな星野と坂崎に背中を前蹴りされていた丸山が泣きながら殴り合っている最中だった。  僕の姿に気付いた山瀬は笑いながら手招きして、腹を抱えて笑っている。 「あの二人、何かあったの?」 「違う違う! 面白ぇから坂崎が殴り合いさせたんだよ。ウケるべ?」 「面白い?」  事の発端は僕が図書室へ行っている間に起きていた。丸山は星野から漫画を借りていたらしく、漫画を返す際に最新刊が読みたいから早く買うように星野にせがんだらしかった。星野は「まだ買えないよ」と困った様子を見せていたが、むきになった丸山は「星野のくせに生意気だ」と発言したらしい。それを愉しげに眺めていた坂崎は二人を呼びつけ、どちらがこのクラスで最弱か殴り合って決めろと迫ったとのことだった。  おまけに、勝ったほうは「名誉クラス員」としてクラスに存在することが認められ、負けた方は「クラス奴隷」として二年生の一年間を過ごさなければならない、というルールまで課していたのだ。  それを断った星野と丸山は二人とも坂崎に殴られ、仕方なくみんなの前で殴り合いを始めたのだそうだ。  周りの連中は二人を囃し立て、ジュースや小銭を賭けたりしていたが、正直な所、僕は見ていて気持ちの良いものとは全く感じなかった。 「荒野のおおかみ」を手に持ちながら、二人は一体どんな気持ちで殴り合っているのだろうと思った。当然、人を殴り慣れてなんていないだろう。泣きながら、拳を握り締めてドアをノックするみたいにお互いを叩き合っているし、二人はきっと悲しくて泣いているんじゃない。きっと自分の弱さが悔しくて泣いているんだろうと僕は感じ、そんな二人から目を背けたくなった。  そんな僕に気付いたのか、坂崎の横にいた有坂が僕の横に来て肩に腕を回して来た。 「海斗ちゃーん、なーにそんなにマジになっちゃってんの? 顔、怖いよ~?」 「いや、ほら。さっさと勝負決めちゃえばいいのにって思ってさ」 「だったら渇入れてやらないと。これじゃあ延々勝負つかないよ」  有坂に肩を軽く二回叩かれた僕は、二人に向かって叫んだ。 「何やってんだよ! 足も使えよ!」  口をついて出る言葉は、自分でも驚くほど酷いものだった。あの輪の中にいる自分を想像したら、身体が縮むような思いをした。そんな思いをしたくないから、それを遠去けるように酷い言葉を僕は人に与えている。みんなの目線が投げた言葉の方へ向けば、僕は救われる。ここで「喧嘩なんて止めろよ」と言えば、その目線は僕の方へと一気に集まる。それは頭で考える想像以上に、身体が拒絶する。  僕の声を聞いた丸山は握り拳で星野を叩くのを止めた。少しだけ後ずさると、「あー!」と泣き叫びながら星野の腹に正面から前蹴りを入れる。腹を蹴られた星野がその場に倒れ込むと、全然気が付かなかったけれど、僕の真後ろを数学の谷口が通り過ぎようとしていた。ヤバイと思ったけれど、谷口は輪の中に目を一瞬落とすと、呑気な口ぶりで 「エイトマン、負けるなー」  と笑いながら通り過ぎて行った。その声に周りからドッと笑い声が起きると、次は倒れ込んでいた星野に「エイトマン! エイトマン!」というコールが巻き起こる。手拍子に煽られた星野がゆっくりと立ち上がると、一斉に拍手が起きた。コールだって、拍手だって、本気で星野を応援しようと思ってやってる訳じゃないのはみんな分かっていた。本人達は必死だろうけど、周りはそんな二人を馬鹿にしながら、ふざけて遊んでいるだけなのだ。膝に手をつきながら立ち上がった星野は、もう握り拳を作ることはなかった。泣いたままの顔で笑って 「僕の、負けだよ」  と負けを認め、丸山に握手を求めた。腕を持ち上げられ、勝者として称えられた丸山は泣き腫らした顔で星野の手を払い落とすと、鼻を啜りながら 「早く漫画持ってこいよ、奴隷」  そう言って、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。それを見ながら、僕はなんだかとても虚しい気分になって行く。いくら勝ち誇ったって、心の底ではおまえは馬鹿にされているんだよ、丸山。本当の勝者なんて、きっと星野と丸山のどっちでもない。取巻きの中心で高笑いする坂崎だけが、心底勝利の味を堪能しているんだろうと僕は感じていた。  昼休みが終わると、星野は「最底辺のクラス奴隷」というポジションに落ちて行った。  小学五年で卓球部に入って以来、僕は卓球をずっと続けている。それでも地区予選で二回戦負けするくらいの実力しかなく、ちっとも上手くはならないけどボールを打ち合っている瞬間だけは何も考えなくて済むから好きなのだ。口うるさい親のことも、テストのことも、縁のない恋愛のことも、球を捉えてラケットを振っている間は遠いどこかへ行ってしまう。  坂崎とも小学校の二年間、ラリーを続けていた。練習試合ではいつも坂崎とペアを組んでいたし、公私共に仲の良かった僕達はお互いのことを最高の相方だと公言していた。  中学に入ってからは部活も別々になってしまったけれど、あの頃が一番楽しかったと僕は今でもずっと思っている。   部活が終わって体育館を出ると、いつの間にか雨が降っていた。朝の天気予報で雨になると言っていたけれど、傘を差すのが面倒臭くてあまり好きじゃない僕はその日、見事に傘を持って来ることを忘れていた。  着替え終えて昇降口で雨宿りをしていると、チームメイト達が傘のない僕を笑いながら通り過ぎて行く。今学期に傘を持って来なかったのはこれでもう三回目だから、雨宿りをする僕は雨の恒例行事と化している。昇降口をみんなが出て行くと、曇天の下で透明に紛れて赤や青の花が咲いているみたいに見えた。笑い声に合わせてふらふらと楽しげに揺れながら、遠くなって消えて行く。  思ったよりも強い雨に濡れる覚悟が出せずに突っ立っていると、横に誰かが来た気配があって振り返ってみる。僕の横に肩を並べたのは、昼休みから奴隷になったばかりの星野だった。僕が何も言わずにいると、星野は僕に話し掛けてるつもりなのか、独り言なのか、はっきり聞こえる声で「あちゃ〜、こんなに雨が降ってたんだなぁ」と言って空を見上げた。 「は、早川君も傘がないのかい?」  こいつ、僕の名前を覚えてたんだな。そんなことを思いながら、星野を振り向くと目の下が少し痣になっていた。丸山の拳が当たっていたんだろうか、さすがに痛々しいと感じた。 「傘、持って来てないんだよ」 「え、か、傘がないと濡れちゃうよ。どうして?」 「どうしてって……ていうか、エイトマンは傘どうしたんだよ?」 「ぼ、僕は盗まれた」  とことんツイてない奴だなぁと思うと可笑しくなって、僕は笑い声を漏らした。 「本当、今日ツイてないんだな」 「そ、そんなことない。僕は傘を盗まれたけど、その代わり、盗んだ誰かが、濡れなくて済むよ」  星野は良い奴ぶってる訳でもなさそうに、極自然と真顔でそんなことを言った。心からそう思っているんだろうか。そんな聖人みたいな高校生がいてたまるか、という気持ちになって僕は星野に追い込みを掛けたい気持ちに駆られた。 「なんだよそれ。だったら丸山と喧嘩させられたのも、クラスの奴隷になったのも、全然平気なのかよ?」 「ぼ、僕がみんなの言う通りにすると、み、みんな笑ってくれるんだ。だから、良いことだと思う」 「なんだよそれ、馬鹿じゃねーの」 「う、うん。だって、ぼ、僕は馬鹿だから」 「最近みんな笑ってないよ。エイトマンは笑われてるんだよ」 「そ、それくらいは分かる。知ってる」  知っているのに、何故こいつはあんな状況を受け入れられるんだろう。へらへら笑って、馬鹿にされて、奴隷にされても苦にならないというのだろうか。いや、こいつは坂崎の恐ろしさを分かっていないから呑気でいられるだけなんだろう。 「おまえ、何も知らねーのな」 「う、うん。僕は知ってることが全然、ない。頭も馬鹿だし、勉強も全然ダメだし、先生の難しい話も、分からない」 「誰ともまともに会話出来ないだろ、そんなんじゃ」 「で、出来る方法が、あるよ」  星野はへらへら笑いを止めて真顔になってこっちを見た。どうやらこいつなりに人と話す秘策があるみたいで、僕はそれが一体何なのか気になった。 「それってどんな方法だよ?」  星野は脇に挟んでいたスケッチブックを両手で持ち、嬉しそうに高々と抱え上げた。 「これがある!」  自信満々な顔で星野がそんなことを言うもんだから、僕はたまらず噴き出してしまった。 「おいおい! 冗談よせよ!」 「じょ、冗談じゃないよ、本気だよ。本気で描いた絵は、心があるからちゃんと通じるんだよ」 「それって相田に言われたの?」 「う、うん。相田先生は本当にいい言葉を、僕にいっぱい教えてくれるんだ」  芸術はてんで興味が持てない僕は相田の言ったことが本当かどうかなんて分からなかったけど、星野のスケッチブックは一度ちゃんと見てみたいと思った。坂崎達が散々からかった挙句、ゴミ箱に投げ入れたスケッチブックにはきっと星野なりの本気が描かれているんだろう。絵のことはさっぱりだけど、坂崎達の意思が混じらない状態でしっかり見ないと分からないこともあるんじゃないかと思った。  僕が黙って手を差し出すと、星野は素直にスケッチブックを僕に手渡して来た。  一枚めくって現れたのは教室でも見た犬なのか猫なのか分からないけど、とにかくヘロヘロの線で画面いっぱいに描かれた生き物だった。顔は小さな子供が読む絵本に出て来るように簡単に描かれていて、にっこりと笑ってる。その次の絵も、またその次の絵も、人や鳥、ワニ、馬(らしき生き物)に被写体は変わっても、みんな顔だけはにっこりと微笑んでいた。  それを眺めているうちに何だか気が抜けてきて、笑いが込み上げて来た。その笑いは坂崎達が星野を馬鹿にして大笑いするような笑いじゃなくて、もっと単純で誰にでも分かるんじゃないかと思えるような、優しい笑いだった。  これが伝わるってことなんだろうか。そう思うと、星野は本当に根っからの良い奴なのかもしれない。  笑いながらスケッチブックを返した僕は、星野に感想は伝えないでおいた。絵の印象を言葉にしたらちょっと違う形になってしまう気がしたし、万が一「早川君には褒められた」なんて星野が坂崎達に言ったとしたら、今度は僕が何をされるか分からないというズルイ計算もあった。  それでも星野は特に感想を求めてくる訳でもなく、隣でへらへら笑いながら雨を眺めていた。僕らは黙ったままだったけれど、不思議と居心地は悪くなかった。  その日の雨は優しく町を濡らす小雨に変わり、僕らは高校近くの小さな駅まで走って改札で別れた。これと言って色んな話をした訳じゃないけれど、星野の印象が僕の中でちょっとだけ変わった日になった。    五月が終わろうとしている頃。教室の中で星野の立場は以前より低く、劣悪なものになって行った。休み時間になると坂崎達は日頃のストレスを星野にぶつけるのが日常になっていた。殴る蹴るなんて当たり前で、校庭の隅で星野を的にして野球ボールを投げつけたりしている光景も目にしたことがあった。星野の身体は痣だらけになっていたけれど、担任の大磯も見て見ぬふりをし続けていた。 「星野、おまえはトロいから怪我ばっかりするんだ。歩く時はちゃんと地面をと足元を見て歩くこと! いいな!」  そんなことを言われても、星野は悔しがる様子も悲しがる様子も見せることなく、いつも通りへらへらと笑うだけだった。日に日にひどい扱いをされる星野を、ひどいことをする坂崎を、僕は関係ない素振りをしながらやり過ごしている。  坂崎は頭に血が昇ると手がつけられなくなり、中学校の頃は警察沙汰になることが何度もあった。坂崎が今と同じようにクラスの男子生徒を的にしてイジメ続けていたある日、クラス委員の女子が坂崎にイジメを止めるように強く言ったことがあった。散々文句を言われ、怒り狂った坂崎はその女子の髪の毛を掴むと力任せに教室の壁に後頭部を叩き付け、なんと真正面から顔面を殴ったのだそうだ。  その女子は鼻の骨が曲がるほどの大怪我をし、問題はかなり大きくなった。けれど、やられた女子の親は坂崎を訴えたりはしなかった。噂だと議員の坂崎の父親が金で解決したとか、訴えさせないように権力を使ったのだとか言われていた。怪我をしたため鼻に大きなガーゼを当てたまま登校したクラス委員の女子は、教室に入った途端に何のお咎めもなかった坂崎に怒鳴られ、それから卒業まで二度と登校することはなかった。  僕は違うクラスだったから教室の中で起こったことは噂話で聞いただけだったけれど、その女子が学校に来なくなったのは本当の話だ。  あれだけおとなしかった坂崎が荒れ狂ったのは、坂崎のお兄さんが原因だと密かに噂になっていた。僕らが中学に上がる頃、年が若干離れた坂崎のお兄さんは名前を聞けば全国の誰もが知っている有名な国立大学に合格した。それからというもの、家の中ではことある毎にお兄さんと比べられて嫌になると、当時まだ僕と仲が良かった坂崎はよく愚痴っていた。学校でイジメられていた坂崎の話し相手は僕しかいなかったし、学校も休みがちだった。当然成績は落ちるし、その頃はまだ人に怯えていた少年だったから家の中でも親にイジメられていることを伝えられず、親の顔色を伺ってはおどおどしていたそうだ。 「兄貴はいい大学入ったし、毎日「お兄ちゃんみたいになれ」って母さんも父さんもうるさいんだよね」 「でも坂崎は坂崎じゃん。関係ないって」 「議員の家だからなのかな、そうもいかないんだ。父さんが怖くてさ、逆らえなくておどおどしてるとね、父さんに怒られるんだよ。おまえは男のくせにみっともないって毎日うるさく言われてる。みっともないって、そんなのどうしろって言うんだよ」  中学一年の坂崎に、そんな悩みを打ち明けられたこともあった。  僕は「坂崎は関係ないよ」と言うばかりで、坂崎のことを助けてやろうとはしなかった。自分がイジメられたら嫌だし、クラスも違うからと放っておいた。学年が変わればイジメも止んで、同じクラスになれたらちゃんとみんなの前で坂崎と仲良くしてやろうなんて軽く考えていた。  僕らは中学二年になっても同じクラスにはなれず、坂崎へのイジメも止まらなかった。先輩も後輩も、坂崎のことを「ボンボン」と馬鹿にして呼んでいたし、休み時間になるたびに金をせびったり殴ったり蹴ったりして笑っていた。卓球部の部活に出ていたある日、入ってきたばかりの一年生にこんなことを言われたことがあった。 「早川先輩、坂崎さんってめっちゃ弱くないっすか? 俺、パンチしたら泣かせちゃったんすけど。マジ、あいつ年上の癖に超ひょろいっすよ」  その時、僕は頭にカッと血が昇る思いをした。それと同時に、何も出来ない自分が悔しくて、情けなくなった。ラケットを手元でくるくる回しながら、怒りを飲み込んだ僕は「あいつ、すぐ泣くんだよ」なんて話を後輩に合わせたりまでしていた。その癖、放課後になると心配になって坂崎に電話を掛けたりしていた。仲良くしているのを誰かに見られたら、僕が攻撃されるんじゃないかと冷や冷やしたこともあった。だから、二年生になる頃には自然と一緒に遊ばなくなって、話をする機会も少なくなって行った。  僕には坂崎をどうすることも出来ないと諦めて、目を背け続けていた六月。坂崎のお兄さんがバイク事故で亡くなった。それからというもの、坂崎はピタリと学校に来なくなった。あいつ、自殺するんじゃねーの? なんて、同級生の連中は冗談交じりに言って笑っていた。このまま本当に来なくなったら、きっと僕のせいもあるかもしれないと思っていたけれど、坂崎は学校に来た。  けれど、夏休み明けに学校へやって来た坂崎は見る影もないほどの変貌を遂げていた。  久しぶりに学校へやって来た坂崎に、僕は何の言葉も掛けられなかった。  お兄さんのことは可哀想だと思ったけど、僕にはなんで坂崎があんなに変わってしまったのか分からなかった。悪い友達が出来たのか、それとも弱い自分が嫌で強くなろうとしたのか。色々考えた結果、そのどれもが違うような気がした。けれど、分かったことが一つだけある。それは坂崎のことを見て見ぬフリをし続けた挙句、関わることさえもう止めようとしている僕は本当に最低な人間だということ。  分かったことは、ただそれだけだった。  六月になっても星野の扱いは何も変わらなかった。    休み時間になれば星野は誰かの手足となって働き、ストレス解消と称してサンドバックにされ、おまけに昼飯代や飲み物代とか、かなり細々したお金を毎日のように坂崎にたかられているようだった。それを断れば当然腹や背中を殴られたり蹴られたりするらしく、星野はそのお金の為にアルバイトを始めたと有坂から笑いながら聞かされた。  体育の授業で校庭へ出る途中に坂崎と二人になったので、それとなく訊ねてみると噂はどうやら本当のことらしかった。 「エイトマンから金取ってるって本当?」 「海斗、違うなぁ。取ってるんじゃなくて払ってもらってるんだよ」 「払うって、何を?」 「セキュリティー料金。あいつ、俺にイジメられてるからまだマシなんだよ。見境ない他のヤツにイジメられてたらさ、とっくに自殺してるかもしれないだろ?」  だから、金もらってイジメてやってんだよ。  こいつはそういうことを平気で言う奴だと直感的に思っていると、思った通りのことを全く悪びれた様子もなく言った。 「俺にイジメられてるうちは誰も手ぇ出さないんだからさ、ありがたいと思って欲しい訳よ。金取る理由は簡単だよ、守る為のイジメも慈善事業じゃねーからな。こっちゃ金もらってわざわざイジメてやってんの。そろそろ料金上げねーとなー」 「へぇー。ナイスアイデアなんじゃない?」 「だろ? 俺、天才だから」 「さすがだね」  調子を合わせて坂崎を持ち上げる自分に、心底虫唾が走った。顔も、力も、頭も、僕には何一つ坂崎に勝てる要素がない。だからといって大人しく全てを遣り過して、あの目をこちらに向けられないようにびくびくするのにもいい加減嫌気が差し始めていた。  けれど、本当に怖くて仕方ないのだ。だから、僕は再び目を背けて何も見てないフリをする。サッカーの授業が始まってすぐ、山瀬と坂崎が僕に楽しそうに目配せをする。何をすればいいのかすぐに判断して、僕は星野の後頭部目掛けて思い切りボールを蹴る。  夏を感じさせる眩しい陽射の真下で、ボールは見事に星野の後頭部を直撃した。  部活を終えて家に帰ると、リビングで母さんと仕事から帰って来たばかりの父さんが立ったままテレビの画面に食い付いていた。小学五年の妹の杏まで、一緒になってテレビに夢中になっている。  夕方のテレビニュースで流れていたのは、隣町の高校生が自殺したという内容だった。ただいま、と声を掛けても振り返はなかったけれど、おかえりの代わりに不安げな母さんがこんなことを聞いてきた。 「海斗のクラスはイジメとか大丈夫なの?」 「イジメ? まさか。うちのクラスはみんな仲良いし、そんなガキじゃないよ」 「そうよね……この子、クラスでイジメられてたんだって。今年十七歳ってことは海斗と同級生ってことよね? 知ってる?」  僕と同じ歳だという画面に映し出された「被害者」の男子は、見たことも聞いたこともない人だった。でも、心の中が妙にざわついた。親に嘘をついている、という自覚があったからだ。坂崎はハッキリと星野のことを「守る為のイジメ」だと言っていた。そんなイジメが、果たして本当にあるんだろうか。星野はいつも笑っているけれど、いつこの画面の中に登場してもおかしくないような気がした。 「この人のことは知らないけど……学校全体で見たらあるんじゃないかな、イジメ」 「イジメがあるの? どこの誰が誰をイジメてるのか分かってるなら助けなきゃダメよ。まだ若いのに自分で死ぬなんて一番の親不孝なんだから」 「助けるって言っても、見ただけじゃ分からないよ」  本当は分かってるけれど、そうやってぼやかすと母さんはムキになったのか、目を吊り上げて何かを言おうとした。それをクタクタのワイシャツ姿のままの父さんが遮った。 「母さん、イジメの範囲っていうのも外からじゃ中々分かりづらいんだよ。今の子達なんかは余計に見えて来ないんじゃないか? そういうのに関わらないっていうのも、海斗が自分の身を守る為には必要だよ」   そう、関わらないのが一番良い。だけど、実際はどうだろう。僕はどちらかと言えば加担している側の人間だし、関わらずにいてこちらに目を向けられることを恐れている。母さんの言うことも、父さんの言うことも、僕にとっては違うものだとしか思えなかった。  父さんは擁護してくれたつもりだったのかもしれないけれど、うまく言葉を返せずにいると杏だけが呑気に「みんな仲良くしなきゃダメだよ〜」と明るい声をリビングに響かせた。その通りだよ、とは思いながらもなぜか口には出せずにいた。  翌日。朝から雨が降り出していたから面倒だと思いながら傘を差して学校へ向かった。  この辺りは四方が山に囲まれた街だから、梅雨時になると山に立ち込めた雲のせいで街全体が一気に薄暗くなるように感じる。橋の下を見ると川の量はそれほど増えていなくて、これからだらだらと雨が続きそうな気がして朝から気分が落ち込んだ。  教室へ入ろうとすると山瀬達の笑い声が廊下にまで響いていた。また朝から馬鹿なことでもやっているんだろうと思って中へ入ると、星野の机を取り囲む山瀬達が見えた。こちらに背を向けている星野は鞄を持ったまま、席には座らずボーッと立っている。人垣の隙間から星野の机が見えて、その上には花瓶にささった一輪の花が置かれているのがちらりと見えた。  その花は、菊だった。  有坂が甲高い笑い声を響かせ、星野の机を指差して大きな声で言う。 「エイトマン、ニュース見たぁ!? 俺さぁ、自殺男子がてっきりエイトマンかと思って間違えてお供えしちゃったぁ。おまえってまだ生きてたんだなぁ!」  山瀬が菊の花を指で弾きながら、笑っている。 「もしも俺がおまえだったらとっくに死んでるわぁ。馬鹿だし顔も悪いしトロいし、絵もヘタくそだしさぁ。おまえ、毎日何が楽しくて生きてる訳?」  そんなことを言われても、星野は泣く訳でもなく怒る訳でもなく、頭を掻いて「わかんない」と呟いた。きっと、またへらへらと笑っているんだろう。  星野はいつも何かがおかしくてたまらなくて、笑っているんだろうか。悲しいことが、痛いことが、言葉に出来ずに笑うしかないのだとしたら、このイジメは守る為のイジメなんかじゃなくて、きっとただ人を傷付けるだけのイジメに過ぎないんじゃないだろうか。  坂崎はイジメられていた経験があるからこそ、ギリギリの線を知っているつもりなんだろう。でも、だからってそれを大義名分にして良い理由にはならない。きっと、誰もがそれを分かってる。怖くて声を上げられないから、坂崎だって気付けないでいるんじゃない のだろうか。    そう思って気付いたけど、坂崎はまだ教室にやって来てないみたいだった。どこにも姿がなかったのだ。  僕は山瀬に囃し立てるように催促されたけれど、とてもじゃないけどそんな気分にはなれなかった。 「海斗、マジな顔してどうしたんだよ! またうんこ漏らしそうなん?」 「いや、なんかさ。これは違くない?」 「違うって、何がだよ」 「死んでもないのに菊なんか供えてさ。死ねって言ってるようなもんじゃん、こんなの」 「うわー、出た! シリアスー!」  山瀬がそんな風に僕をからかっても、ちっとも楽しい気持ちになんかなれなかった。有坂は「言ってるようなもんじゃなくて、言ってんの!」と笑う。その声に、周りは星野を含めてみんな笑っている。その中に居ると僕はなんだかどんどん虚しくなるような、悲しくなるような、だけどここにいる全員がムカついてしょうがないような気持ちになった。こんなことをやらせたのは誰だろう? 坂崎だろうか。  山瀬が僕をからかっていると、坂崎が「うぃーっす」と調子良さげに教室へ入って来た。こちらをチラッと見ると、机の上に置かれた花瓶に気付いたようで、菊の花に目を落としたまま真顔になった。 「何これ?」  山瀬と有坂は目を合わせると、楽しげに「星野の葬式」と声を揃えた。 「それ、つまんねーから早く片付けろよ」  真顔のままそう言って、自分の席へ向かって行った。僕は何となく救われた気がして、山瀬にようやく応えることが出来た。 「だから言ったじゃないかよ。これはやり過ぎなんだよ」 「なんだよ、坂崎までマジになっちゃってさぁ。ジョークジョーク」 「あんなニュースがあったばっかなのにこんな真似、良くないだろ」  山瀬は肩をすくめて花瓶から花を抜くと、その肩を押し退けて坂崎が僕の前へ立った。改めて向き合ってみると、僕とは頭が一個分も違うから見上げる形になる。 「海斗、関係ねぇ癖につっかかってんじゃねーよ」 「ニュース見てないのかよ? もしも同じことが起きたらって、山瀬と有坂は考えたりしないのかなって、そう思ったんだよ」 「考える? エイトマンが自殺なんかする訳ねぇだろ」 「だってさ、あの二年生だってイジメで死んだんじゃないの?」  自分の口をついて出る言葉に、僕は自分自身で恐怖を覚えた。こんなことを言ったら間違いなく坂崎の機嫌を損ねるに決まってる。それでも、僕の頭の中とは裏腹に言葉は溢れるようにして口から飛び出して来た。坂崎は半歩前に進むと、僕の胸倉を思い切り掴み上げて来た。僕の手は、震えていた。 「いい子ぶってんじゃねーよ! 海斗はあん時みてぇに黙って見てりゃあ良いんだよ!」 「あん時って……あん時っていつのことだよ?」 「中学二年だよ。俺の時みてぇにおまえは黙って見過ごしてりゃ良いんだよ! 助ける気もねぇ癖によ!」  そう言って、坂崎は僕を突き飛ばした。怒ってるだろうと思っていたけと、坂崎の目はなんだかとても悲しそうだった。それが痛いほど伝わって来て、僕は何も出来なかった自分を思い出して、胸が抉られるような気持ちになった。突き飛ばされて尻餅をついたけど、僕を笑ってくれる奴は一人もいなかった。  しらけた様子でみんな席へと戻って行くと、大磯が教室にやって来てすぐにホームルームが始まった。  次の休み時間になると、坂崎達はもう僕と口を利いてくれなくなった。   それからの僕は星野みたいに分かりやすくイジメられる訳じゃなく、クラスの中でまるで存在していないみたいな扱いを受ける日々が始まった。目を合わせても逸されるし、話し掛けても誰も返事をしてくれなくなった。それは坂崎達だけじゃなくて、他の部活連中やおとなしい奴らも同じだった。どこにいても、何をしていても、僕はひとりぼっちになってしまった。昼休みになってみんなのサンドバッグにされたり小馬鹿にされ続けて笑われる星野のことでさえ、目の端で見ながら羨ましいと感じるようになっていた。  授業中に数学の谷口から僕が指されて答えを間違えても、誰の笑い声も忍び笑いも起きない。前なら山瀬が「うんこ我慢してっからだろ」とかからかって来たのに、今ではからかう所か、みんなつまらなそうな顔さえも浮かべてくれない。  その原因となっているのはやっぱり坂崎だった。陸上部の小島が体育祭の用件で僕に話し掛けた時、坂崎は自分の座っていた机の脚を蹴っ飛ばして小島を威嚇した。「話し掛けてんじゃねー」と言いたげに坂崎に睨まれた小島はバツが悪そうな顔になって、手刀を切ると「すまん」と言って僕の側から離れていった。それからはもう話し掛けてこなくなったし、何を聞いても「大磯に聞いて」と顔も見ずに言ってくるようになった。    六月。クラスの中で空気にもなれない僕は、雨が降り出しそうな雲を眺めながら図書室へ向かう。ヘッセの「少年の日の思い出」を借りへ図書室へ行く。その日の受付は野原さんで、何となく気まずくて何も言わずに本を差し出すと、野原さんは顔を上げた。クラスの中で空気以下の存在の僕はあまり意識してクラスの人の姿を見ないようにしていたけれど、野原さんは黒かったショートカットを少しだけ赤く染めているのに気が付いた。大きな目がこっちを向いて、一瞬目が合った。その途端に恥ずかしくなってすぐに目を逸らすと、小さく笑われた。 「早川君、最近ずっと一人だね」 「うん。でも、前から一人が好きだったから」 「一人でいるのと、一人になるのと、違うと思うけど」 「坂崎の機嫌損ねたんだから、仕方ないよ」 「星野くんのことであいつらに楯突いたんでしょ? 凄いじゃん」  凄いと言われて、僕は単純に嬉しいと思ってしまう。 「そんなことないよ」 「私、早川君とは口利いてもいいよ」 「そんなことしたら何されるか分からないし、やめた方がいいよ」 「うちのクラスさ、女子は五人しかいないじゃん? それなのに私、ハブられてるからね」 「え、何で?」 「知らないよ。男子達がわーわーやってる間にも、女子は女子で五人しかいないのに忙しかったりするんだよ」  それは野原さんに言われてみて初めて気が付いたことだった。確かに野原さんはいつもクラスの中で浮いていた。教室では一人でいる所しか見ないし、休み時間はいつも机でスマホをいじっていて誰とも話している様子がなかった。人付き合いが苦手な子なのかと思っていたけれど、僕と同じような状況だったことを知って急に親近感が湧いて来てしまう。 「早川君、前から一人で夢中になって本読んだり一人でいる所見てたから、なんとなく友達になれるかなって思ってた」 「そうなの? 嬉しいけど、僕と友達になるのはあまりオススメしないよ」 「なんで? なんでそう思うの?」 「多分、坂崎が怒るから」 「なにそれ……じゃあ早川君は坂崎君のものなの?」 「別に、違うけど」 「下らないなぁ、そういうの。貸出期間、二週間なんで。お忘れなく」  野原さんは短い溜息を吐くと僕に本を差し出した。この前みたいに投げられる感じじゃないだけマシだったけど、下らないと言われたことが少し頭に来てしまった。 「下らなくてもさ、仕方ないじゃん。どうにも出来ないんだから」 「次の方、どうぞ」  僕の言葉を無視して野原さんは僕の存在を無視して図書係の務めをまっとうし始めた。そりゃそうか。仲良くなれるかな、なんて一瞬でも思った僕が馬鹿だった。だけど、友達になるのに良いも悪いも本当はないはずなんだ。それに制限を掛けているのは僕の方で、やっぱり僕が間違っているんだなと思うと急に恥ずかしくなって、急いで図書室を出た。  五限目が終わると雨がゆっくりと降り出して来た。放課後になっても雨は降り止む様子がなくて、傘がない僕はまた昇降口で立ち往生してしまった。   話し掛けてくる相手も、話し掛ける相手もいない僕は雨を眺めながらプレーヤーアプリの再生ボタンを押した。シャッフルされた曲の中から流れて来たのはドビュッシーの「月の光」で、普段ピアノ曲なんて聴かないのにいつこんなものを入れたんだろうと気になってみると、スマホのプレイリストから無選別にオススメされた音楽が流れるモードになっていた。  スキップして飛ばそうかと思ったけれど、無人の校庭に降る暗い雨を眺めていたら何だかとてもしっくり聴こえて来て、結局フルで聴き終えてしまった。次に何の音楽を聴こうかと迷っていると、隣に人の気配を感じて振り向いてみる。やって来たのは星野で、相変わらずへらへらした顔で突っ立っていた。 「は、早川君。また傘がないのかい?」 「……俺に話し掛けない方がいいよ。坂崎にぶっ飛ばされるぞ」 「お、お礼まだ言えてなかったから、二人だけで話せるから、今、う、嬉しいんだよね」 「お礼なんて別に。何もしてないし」 「花、おかしいって言ってくれた。ありがとう。ぼ、僕も、少し変だなって思ってた」 「いいよ、俺が勝手に言ったことだし。だけど、今度からは自分で言えよな」 「う、うん」  感謝されていたのか。だったら、今無視をされているのも少なくとも何の意味もないなんてことは無かったんだ。花を添えられて、やっぱり星野も少しは悲しかったんだろうか。ただへらへら笑っていて、悲しい気持ちがぶっ壊れた機械みたいな奴だと思っていたけれど、ちゃんとこいつも人間なんだ。そんなことをぼんやり考えながら、二人で雨を眺めていた。 「坂崎君、いつも「海斗と話すんじゃねー」って、言ってるから。だから、話せなくて困ってた」 「話してるのバレたら、あいつは本気で怒ると思うよ」 「もっと、みんな、仲良くすればいいのになぁ」 「そうもいかないんだよ。坂崎のことに関しては、僕が悪いのも分かってるし」 「は、早川君は、いい人だと思う。悪いことなんて、してない」 「したんだよ。説明するのも面倒だけど。おまえはおまえでイジメられて大変だよな」 「うーん……大変?」  星野は坊主頭を掻きながら、口を曲げながら下を向いて考え込み始めた。それがどうやら、真剣に何かを考える時の癖みたいだった。 「痛いのは大変だけど、みんな笑ってくれるし、みんながそれで平和だったら、いいと思うし、僕も楽しいから大丈夫だよ」 「楽しいからって言ってもさ、金も取られてるんだろ?」 「毎日、五百円。だけど、坂崎君は「お守り代」だって言ってるから、いいんだ。それ以上に、坂崎君はお金取ったりしないよ」 「それでも払ってんだろ?」 「う、ううん。最初だけ。お、お金ないって言ったら、おまえは特別馬鹿ですぐバイトをクビになるから、ツケ払いで、いいって」 「じゃあ今は払ってないのかよ。ツケ払いねぇ……」 「でも、別の人から、取られそうになった」 「別の人?」 「ち、違うクラスの、灰色みたいに頭染めてる人。四月に体育館の裏に連れてかれて、五万円持って来いって、言われた」  灰色みたいな頭。それは隣のクラスの不良軍団のリーダーで篠山というサッカー部の奴だった。坂崎に比べたらだいぶ格下だけど、悪そうな連中といつもつるんでいる。 「おまえ、まさか払ったの?」 「ううん。坂崎君が話を聞いてたみたいで、や、やっつけてくれたんだ。だから、大丈夫だった」 「そうだったんだ。良かったじゃん」 「うん、助かった」  坂崎が言っていた言葉を思い出す。 ――俺にイジメられてるうちは誰も手ぇ出さないんだからさ、ありがたいと思って欲しい訳よ。  出任せで言ってる訳じゃなくて、やることはしっかりやってたんだ。  そう思うと、無視をされても坂崎のことをどこか嫌いになれない自分がいることに気が付けた。それでもイジメは度を越えているとは思うし、やっていることはひどいことに違いない。だけど、坂崎はきっと計算して星野をイジメているんだろう。壊れない、ギリギリのラインで遊んでいるのに過ぎないんだ。本気になったら、きっと星野なんてあっという間に壊されてしまう。 「星野、嫌な時は嫌って言えよな」 「う、うん。みんなが、困らない場合は、そうする」 「みんなじゃなくて、おまえはおまえのことだけを考えてればいいんだよ」  少しずつ雨が弱くなっていって、薄暗くなり始めた空気が急に冷めて行くのを感じ始める。近くを通る車の音が昼の音から夜の音へ変わろうとしているのを聞いて、僕は昇降口の階段を下りた。  後ろからついて来た星野と並んで歩いていると雨が再び急に降り出して来て、結局濡れて帰るハメになった。  駅へ着くと星野の誘いで家へお邪魔することになった。星野の駅は僕とは反対方向だったけど一駅だったし、シャツと傘も貸してくれるというので僕は素直に甘えることにした。  星野の家は公団住宅の一角にあって、家の中は割りと綺麗に片付けられていた。風呂を借りて上がると、星野は丁寧に麦茶を用意して待ってくれていた。家には両親の姿はなく、あんまり似ていない小学三年の弟がひとりでゲームをして遊んでいた。 「おまえん家、共働きなの?」 「う、ううん。うち、お父さんいないんだ」 「へぇ……そっか」 「うん。お母さん、いつも夕方から仕事だから、ご飯はいつもぼ、僕が作ってる」 「へぇ、偉いんだな」 「ご、ご飯もあるから食べて行っていいよ」 「それは遠慮しとくよ。遅くなっちゃうし、うちは親がいるからご飯作って待ってくれてるし」  こんな時に相変わらずなんて酷いことを言う人間なんだと、僕は自分でも思ってしまう。遠回しな断り方が出来ないのは、相手のことを想像する力が足りないからなのだろうか。  けれど星野は全然嫌な顔をする訳でもなく、うんうんと楽しそうに頷いて「わかったよ」と言っていた。帰る前に星野の部屋へ行くと、僕は思わず驚いしまった。  机の上にはテレビや雑誌でしか見たことがないような漫画家が使うような道具が並んでいたのだ。描きかけの原稿まであって、かなり本格的に取り組んでいるのが素人の僕から見てもすぐに分かった。 「星野、おまえ漫画描いてるの?」 「う、うん。ず、ずっと憧れてて、下手クソだから美術部に入った」 「すげーなぁ。漫画家目指してんだ?」 「まだまだ、全然目指せるレベルじゃないから、い、今は相田先生に言われて、ク、クロッキー描いてる」 「クロッキー? なにそれ、漫画のタイトル?」 「ち、違う。こ、これ」  星野は机の横に掛けてあった大きめのスケッチブックを取って僕に見せて来た。中を開けると色んなポーズをとっている人の絵が描かれていた。しかも、いつも見ている星野の絵のタッチとまるで違っていて、かなり上手くてリアルな感じがした。 「これがクロッキー?」 「う、うん。短い時間で、色んなものとか、ポーズとか、いっぱい描くんだ」 「これ、おまえが描いたの? 全然タッチ違うじゃん」 「ぼ、僕が描いたよ。ま、前に見せた時は、線だけでかわいい絵を描く、れ、練習だったから。相田先生が、漫画を描きたいなら色んな線を、描いた方がいいって言うから、確かにと思って、色々描いてる」 「おまえ、本当は上手いんじゃん」  ヘロヘロ線の動物が星野の絵だとばっかり思っていたけれど、それがわざと描いていたものだと知って僕はちょっとしたショックを受けていた。 「おまえ、坂崎達に馬鹿にされてたんだからこれ見せてやれば良かったじゃん。悔しかっただろ?」 「う、ううん。僕、みんなが言う通り全然まだまだ下手だし、べ、別に作品を馬鹿にされた訳じゃない、だからいいんだよ」 「いいんだよって、凄いな。僕はそんな風に思えないだろうな、きっと」 「す、好きなことだったら、早川君だって、きっと思える」  好きなこと。僕の好きなこと? いつまでも上達しない卓球のラリー。小説を一人で読む時間。ロックを聴くこと。けれど、本気でこれが好きだと言えるものを僕は何一つとして持っていなかった。  悔しいなんて思う暇がなくなるくらい何かを好きになった経験がなかった僕は、この時初めて星野のことを見直した。 「星野は凄いな、夢があって。僕なんか何もないよ」 「は、早川君は難しそうな本、い、いっぱい読んでる。僕なんか、ちっとも読めないから、全然読まないよ」 「読んでる時間が好きなだけだから、自分でやろうとか思ったことないよ」 「た、多分だけど、早川君も、本を書ける日が来ると思う」 「冗談やめてくれよ。何も思い浮かばないよ」  僕には何もない。小説を読むのは好きだけれど、自分で書こうと思ったことさえ一度もなかった。僕が話しを終わらせてしまうと、星野は机の上に置かれた道具を一つ一つ説明し始めた。僕には細かいことなんか全然分からなかったけれど、ペンやスクリーントーンを説明する星野は活き活きしていたし、とても楽しそうで羨ましいと感じた。  こんな奴になぁと思ったけれど、何も持っていない自分と比べてしまって星野が羨ましくて仕方なくなった。  その日はご飯はご馳走にならず、着替えのシャツを借りて家へ帰った。雨はすっかり上がっていて、夜の雲の隙間からは輪郭のハッキリした星がきらきらと顔を覗かせていた。  クラスでは誰とも口を聞いてもらえなかったけれど、部活ではこんな僕にも話し掛けてくれる人がいた。それでも坂崎の影響がやっぱりあるのか、みんなどこかよそよそしい感じがあった。中でも後輩から 「早川先輩、ハブられてるって本当ですか?」  と不安げな顔で心配された時にはちょっと自分で自分のことが情けなくなったりもした。それでも部活に出ていれば少しは気が紛れるから、クラスで無視され続ける日々にも徐々に慣れることが出来た。  星野の家へ行ってから三日後。シャツを返そうと思い、みんなの前で話し掛けずに移動教室の間にどうしたらいいか尋ねると鞄の中に入れておいてくれたら良いと言われた。  その日の体育はサッカーで、授業に出ても僕だけ無視されてボールが回って来ないことが分かっていたので見学することにして、みんなが教室を出た後に星野の鞄の中へシャツを入れてから向かうことにした。  学校指定のナイロンバックを開けると中には数冊のノートと鉛筆が何本も入ったペンケースが入っていた。星野らしいな、と思ったけれど僕はシャツを入れようとして手を止めた。  バックの底に銀色に光るものがあると思い、ノートを避けてみて思わず「えっ」と声を出してしまった。幸い教室は無人だったから誰にも見られてはいなかったけれど、星野の鞄の奥底を見て僕は驚いてしまった。  バックの底には刃渡りが十センチ以上ある大きなナイフが剥き出しのまま入れられていたのだ。  あの星野が、どうしてこんな物騒なものを持っているのか想像がつかなかった。坂崎が入れさせているのだろうか。いや、あいつは自分のものをわざわざ他人に預けたりはしないだろう。そうなると、このナイフの持ち主はやっぱり星野に違いなさそうだった。  なんだか、見てはいけないもの。それは星野の心の闇の部分だったり、本音の部分を見てしまった気がして、僕はすぐに鞄のファスナーを閉めた。  放課後になってもナイフのことが頭をちらちらと過っていて部活もあまり集中出来なかった。集中し直そうと思って後輩相手に練習試合をしてみると、追いつくチャンスもなくあっさりと負けてしまった。  ナイフの真意を確かめたかったけれど番号は知らないし、星野の側にはいつも彼を奴隷にしている坂崎達がいるしで結局聞くに聞けなかった。  みんなが楽しそうにしていたらそれでいい、という星野の言葉は本気じゃなかったのかもしれない。いつか限界を迎えたら、あのナイフを星野は手に取るのだろうか。あのナイフを星野がどんな顔をして手に取り、どこに敵意を向けるのかが全く想像出来なかった。でも、ナイフは確実に星野の鞄の底に入っている。それは間違いのないことなのだ。  それからしばらくして、放課後になってから星野が昇降口から出て来るのを待つことにした。その日、雨は降っていなくて人が残る校庭を眺めている時間はなんとなく気分が落ち着かなかった。夕方になってもまだいくらか高い場所にいる太陽を眺めていると、星野がやって来るのが見えた。昇降口を出た所で、その日は僕から声を掛けた。 「この前、シャツ貸してくれてありがとな」 「う、ううん。いいんだよ、早川君が濡れて風邪ひいたら、た、大変だからね」 「あのさ、単刀直入に聞くけど。おまえ学校にナイフ持って来てんだろ?」 「……」  少し尖った声で尋ねると、星野は明らかに動揺した素振りを見せた。うん、とも、違う、とも言わずに手を結んだり開いたりしたまま俯いている。 「あんなでかいナイフ、何に使うんだよ?」 「……あれは、た、確かに、僕のだよ」 「おまえ、あれ何に使うんだよ?」 「え、鉛筆をけ、削ったりするのにも使えるから」 「するのに「も」ってことはさ、別の目的があるんだろ?」 「……な、ないよ」 「嘘ついてんだろ? みんなが楽しくて平和ならとか言ってるけど、無理してるだけなんじゃないの?」 「ほ、本当のことだよ……あれは、坂崎くんが、持ってろって」 「坂崎が? なんで?」 「エ、エイトマンは弱くてダサいから、ハンデだって。それで殺せるなら、い、いつでも俺を殺してみろって。こ、殺したいって思うくらい、俺にやられたら、それで刺せばいい、って」 「何だよ、それ」 「ぼ、僕はそんなこと思ったことないから、わ、わからない。だけど、失くしたら坂崎君が悲しむかもしれないから、も、持ってる」  あのナイフは坂崎が持たせた物だったのか。星野が言う通りだとしたら、イジメの自制が効かなくなったら自分を刺せということなのだろう。その発想は死ぬことを恐怖しない人間にしか出来ない気がした。どこの世界にイジメられっこに自分を殺すためのナイフを手渡すイジメっ子がいると言うのだろう。  それは命を懸けたイジメのようにも感じたし、何か特別な主従関係のような不気味さも僕は感じたりした。 「星野は坂崎が怖いと思う?」 「こ、怖くはないけど、かわいそうだって、思う時がある」 「かわいそう? あいつ、おまえのことイジメてんだろ?」 「違う。見た目じゃ、わからないけど、坂崎くんが一番、坂崎くんのことが怖いんだと、僕は思う。でも、坂崎君は僕達じゃないから、坂崎君は坂崎君から離れられない。だ、だから、かわいそうだと思う」 「おまえ、哲学者みたいなこと言ってるぞ。どういうことだよ?」 「ば、馬鹿だから、上手く言えないけど、ナイフは、お、お守りみたいな感じだと思う」 「お守り……なんだそれ」  坂崎が坂崎を怖がっていて、それでナイフを星野に渡す理由がいまいち分からなかった。死ぬなら自分で死ねば良い気がしたけれど、きっと違うのかもしれない。僕にとって死ぬことなんかもうずっと何十年も先の出来事だろうし、自ら死を呼び寄せるような真似をする坂崎を僕は理解できなかった。  お兄さんの死で悲しんだはずなのに、なんでそんな真似をするのだろう。もしかして僕以上に孤独なのは坂崎なのかもしれない。そんな風に思っていた六月の終わりに、ある事件が世間を賑わせた。  早く起きてしまって二度寝をしていると、母さんが部屋のドアを思い切りノックしながら僕の名前を呼ぶ声で目が覚めた。最悪な目覚めで、いつもの目覚めよりもずっと身体が重く感じる。 「海斗! 大変! 起きて!」 「起きるよー……なんだよ、朝っから」 「早く開けて! ニュース見て! ニュース!」 「ええ……なんだよ。ったく」  欠伸を噛み殺しながらテレビの前に立つと、画面を見た瞬間に目が覚めた。テレビニュースには警察官に囲まれながらワゴン車に乗り込む坂崎のお父さんが大きく映し出されていた。 〈議員の坂崎容疑者は秘書の田中容疑者を通じて八山工業に便宜を図り、その見返りとして五百万円を受け取ったとされ〉  まさか。夢でも見ているんじゃないかと思ったけれど、何度見ても逮捕されているのは坂崎のお父さんに間違いなかった。ニュースでは八山工業という会社とグルになって仕事を融通し、多額の見返りを長年に渡って受け取り続けていたらしかった。逮捕された人は他にもいたけれど、全国放送で顔まで出ているのは坂崎のお父さんだけだった。まるで悪のボスキャラみたいな悪人顔がすっぱ抜かれていて、かなり悪意を感じる報道のされ方をしていた。  無視をされているとは言え、急に坂崎のことが心配になった。母さんは今の僕と坂崎のことを何も知らないからか、手に頬を置きながら真剣に坂崎のことを心配していた。 「こんな時にこそお友達が側にいてあげた方がいいんだから。困った時に側にいるのが本当のお友達でしょ?」  お友達だったのは実は中学二年生までだったんだ。同じ高校に入れて良かったねって母さんは言ってたけど、その頃にはもうすっかり口を利かなくなっていたんだ。今の僕はそのお友達に無視されて困らされているんだよ。  そんな言葉を飲み込んで、黙って頷いた。  学校へ行くと教室から怒鳴り声が聞こえて来て、僕は急いで教室へ駆け込んだ。  クラスメイト達が輪を作る真ん中で、担任の大磯と坂崎が掴み合いをしていたのだ。 「っせーんだよ! 生徒が学校に来て何が悪ぃんだよ!」 「おまえの為を思って言ってるんだろうが! 家から出たら大変になることくらい分かるだろう?」 「たかが教師の分際で人ん家のことに口出ししてんじゃねぇよ! 席座るんだよ! どけよ!」 「おまえ、まだ分からないのか! おまえが学校に来たらマスコミが来るかもしれないって言ってんだよ! 他の生徒達の迷惑なんだよ!」 「他の生徒達って誰だよ! 言ってみろよ!」 「誰がとか、そういう問題じゃない! 学校全体の迷惑になるんだよ! いいからさっさと帰れ!」  親が逮捕され、全国報道された朝。坂崎は学校へ来ていた。きっといつもと変わらない様子で、堂々と教室へやって来たのだろう。山瀬や有坂は心配なんかしないで、きっと面白おかしく話を聞きたがったのかもしれない。坂崎も見栄を張って弱い部分を見せないだろうから、うちの親父がさぁなんて聞かせたのかもしれない。  結果、坂崎はみんなの前で迷惑だと罵られた。  大磯にしても、もっと言い方ってものがあるんじゃないかと、さすがの僕でも思ったくらいだ。  坂崎は大磯を掴んでいた手を離すと、辺りに向かって吠え始めた。 「なんだよ! 笑えよ! テメェら、どうせざまぁねぇって思ってんだろ? あぁ? 山瀬、テメェ笑えよ!」 「坂崎! 山瀬に絡むな、さっさと帰れ!」 「うるせぇんだよ! 山瀬、笑えよ!」  山瀬は腕を組んだまま、何も言わずに坂崎を真顔で見詰めたままだった。その様子は近寄らないでくれ、という雰囲気さえも感じさせた。  クラスの誰も笑っていなかったし、坂崎を拒んでいる空気を漂わせていた。坂崎が散々喚き散らして教室を出て行くと、臨時の全校集会が開かれた。集会の内容は事件のことには何も触れない癖に、唐突に「マスコミが来ても何も答えず、対応しないように」というお達しだった。訳が分かってなさそうにひそひそ話す声があちらこちらから漏れて聞こえて来た。もちろん、そこに坂崎の姿はなかった。  そして、坂崎はそれから学校へ姿を見せなくなった。  七月に入ると星野の身体に痣が増えた。  坂崎が居なくなった代わりに、山瀬が星野を奴隷にするようになったのだ。それに、山瀬は事あるごとに坂崎の悪口を大声で語り、周りに共感を求めていた。 「坂崎さぁ、あいつマジ人間からして終わってるヤツだったかんなぁ。人を見下すことしか頭になくてマジで馬鹿なんじゃねぇって思ってたわ。分かるっしょ?」  その声に、有坂が調子を合わせている。 「デケーバイク乗ってるかんなぁ。兄貴みたいに事故って死んでくれたら超ウケんだけどなぁ」 「なぁ。マジうぜーわ。親も恥知らずで「私はやってない!」って言ってんだろ? あいつ、もう学校来れないっしょ」 「来なくていいわー、面倒臭ぇ。女みてーにピーピー喚いてさぁ、情けねぇの。オカマかよ」  有坂の声に野原さんが顔を振り向け、睨みを利かせた。有坂は気まずそうに顔を背けると、すぐに話題を変えた。 「エイトマン! 今月のセキュリティー料金、八万な。エイトマンだから、八万。持って来なかったらおまえん家でまた爆竹テロ起こすから」 「この前の爆竹テロ、マジウケたよなぁ! 弟がションベン漏らしながらドア叩いてさぁ「たしゅけてー! たしゅけてー!」って!」 「またやりに行くかんな。嫌なら八万持って来いよ、な? くだらねー絵なんか描いてる暇あったらバイトしろよクソ野郎」 「なんだっけ、グロッキーだっけ? テメェ見てるこっちがグロッキーなんだわ。へらへら笑いやがってよ」  聞いているだけでも僕は胸糞が悪くなった。坂崎が居なくなった後からイジメはエスカレートし、大磯にも相談へ行った。大磯は笑いながら 「星野はあれで遊んでもらってるって喜んでんだわ。イジメの事実は確認出来なかったし、おまえが少しナイーブ過ぎるんだよ。本ばっか読んでないでクラスの連中ともっと話してみたらどうだ? え?」  と、逆に説教されてしまった。  僕は無視され続けていたものの、坂崎がいなくなってからは存在を認知されるようになった。けれど、友好的認知では無かった。  昼休みになって本を読んでいると、頭にボールをぶつけられる。 「二号! ボール拾ってー。ヘーイ、パス!」  床に転がったボールを拾い、山瀬の元へ運んで行く。にやにやしながら、山瀬と有坂、そして取巻き達が僕を眺めている。山瀬の手にボールを手渡すと、山瀬はそれを開け放った窓から外へ放り投げる。 「あれー? ボールが逃げちゃったよう! 二号、ボールを拾って来て!」  取巻き達の爆笑する声が、耳と腹の底にズンと響く。 「AIに話し掛けてるみてぇ!」 「こいつ物分かり良いし動くから、AIより使えるぜ? 二号、ボールを拾って来て」  二号というのは僕の新しいあだ名だ。一号はもちろん星野。そのスペアとして、僕はこのクラスで認知されている。  坂崎が居た頃、僕は彼らと付かず離れずでなんとか上手くやっていた。坂崎と仲が良かったことを僕から言ったことはなかったけれど、坂崎が周りに話していたらしかった。  あいつは一番の幼馴染だから、絶対に誰も手を出すなよ。  そんな風に言っていたと、後になって初めて知った。そのおかげで、僕は坂崎に恨みを持っていた山瀬や有坂から目をつけられてしまったのだ。  外へ出ると七月の真っ白い光に目が眩んだ。教室の真下にある水飲場の横に落ちていたボールを拾い、中へ戻ろうとすると後を追って来ていた野原さんに声を掛けられた。 「犬じゃないんだから、やめたら?」 「星野に比べたら大丈夫だよ、これくらい」 「二人ともおかしいって思わないの? なんで?」 「なんでって、こういうもんだから。自分がやって来たことが返って来てるだけだからさ」 「何言ってんの? 早川君何も悪いことしてないじゃん」 「元を正せば坂崎があぁなったの、多分僕の責任だから。じゃあ、急いでるから行くよ」  野原さんは何か言い掛けていたけれど、僕は敢えて見ないフリをして階段を上がって行く。教室へ続く廊下が物凄く長く感じて、急激に身体が重くなる。なぜ、僕は拾わされたボールを落ちないようにわざわざ両手で握り締めているんだろう。別に大事なものじゃないはずなのに、このボールは、僕の物でもないはずなのに。  泣きたくなったけれど、泣かないように我慢して教室に入ると山瀬達はどこかへ出たのか、教室からいなくなっていた。山瀬の机にボールを置いて席へ戻ると、女子でガタイの良い櫻井が「情けなっ」と吐き捨てるように呟く声が聞こえて来た。  無理にでも意識を他のことに集中しようとしてヘッセを開いてみたけれど、一文字も上手く頭に入って来なかった。その間に、女子達がひそひそ話をし始めて、嫌でも会話が耳に入って来る。 「でさぁ、マジなんでしょ? 野原がパパ活でヤリまくってるって」 「西町のラブホ街で変な親父と一緒にいるの見たって二組のエリナが言ってたからマジだよ。本人に直接聞いたら女優目指してて芸能関係の人と会ってたとかなんとか言ってたけどさ、嘘くせーって感じ。こんな田舎でそんなのある訳なくね?」 「芸能? あんなのちょっと顔が良くて股開くのが得意なだけでしょ。オッサンなんか若けりゃ誰だって良いに決まってんじゃん。どうせ騙されてヤラれて終わるんがオチじゃね?」 「いやいや、もう終わってるっしょ。私、席隣だしさぁ、変な病気感染されたらどうしよー」 「やーん、こわーい!」  耳を塞ぎたくなる会話も、塞ぐ動作すら許されないと自然と聞き耳を立ててしまう。始めは小さな小さな、それこそビーズくらいの大きさの悪意だったのかもしれない。たまたま悪意を拾った誰かが見せびらかすことで、小さなビーズは他人の悪意を集め続け、やがて雪だるまのように大きくなって行く。  悪意は常に誰かに目を向けていて、目が合わないように僕は今まで逃げ続けて来た、はずだった。  筆箱の中のHBは二本、真ん中から折れている。これはこの前山瀬が「新芸思いついた」と言って急に僕の鉛筆を筆箱から取り出し、二本まとめて折ったからこうなった。もちろん、僕は何も抵抗しなかった。笑うことも怒ることも出来ず、床に投げられた折れた鉛筆を拾い、筆箱に戻した。ただ、それだけだった。  取り憑いた悪意をいくら振り払おうとしても、背中に重たくしがみついたままだった。  もうすぐ夏休みになるが浮かれるな。という大磯のホームルームが終わると、クラス中で賑やかな声が上がった。今年はディズニーランドへ行くとか、グアムに行くとか、東京で連泊するとか、そんな話でみんな盛り上がっている。野原さんは頬杖をついて机の上に置かれたスマホを指先でタップし続けていて、星野はバイト疲れの為か、朝から眠りこけている。  僕は頭に何かがぶつかる感触がして、くしゃくしゃに丸まったメモ用紙が落ちたのに気が付いた。拾い上げる気力もなく一限目の準備を始めようとしていると、山瀬から「二号、ラブレターを読んで」とAIに命令する時みたいな声が掛かる。 「はやくぅ! 二号、ラブレターを声に出して読んで!」 「最近性能悪くなったんじゃねーの? 蹴飛ばして直すか」  僕は有坂に背中を蹴られ、笑われながら紙を拾い上げる。ここ半月くらい、ずっとこんな調子だ。  坂崎は中一、中二とこんな時期を過ごしていたのかと思うと、気が狂いそうになった。今さら過ぎるけれど、それがどれほど辛いことなのかようやく僕には理解が出来た。  くしゃくしゃになった紙を広げ、書かれている言葉をそのまま何の感情もなく読み上げる。 「僕は今すぐ、シコシコがしたいです」  その瞬間、教室の背後の方で大爆笑が巻き起こる。  心が、何の刺激も受け入れようとしなくなる。こんなことを笑って許せる星野は、本当に強い人なんだと思い知らされた。こんな状況で漫画家になる為に練習したり、部活に打ち込んだり出来る精神力は僕には無い。ただひたすらに耐え続け、一日が終わると夜にはまた新しい地獄がやって来るのを待つだけの日々。何を読んでいても頭に入って来なくなったし、部活にも行かなくなった。一日の授業が終わった途端に逃げるようにして僕は学校を飛び出す。誰にも見つからないように、そして誰にも気付かなれないように「無」を意識して、束の間の自由を手に入れたがる。それでも、一人きりになって頭に思い浮かぶのは新しい地獄のことばかりだ。嫌になる、ということを思うのも嫌になり、そのうち何も考えられないようになる。ただ、一日一日が無駄に過ぎて行くようになった。   部活に顔を出さなくなったせいで、放課後に職員室へ来いと呼び出しを受けた。顧問で国語の女教師の上田が、真っ赤な眼鏡がズレるのを直しながら腕組をして僕を睨んでいる。 「早川、部活を辞めるならさっさとしろ。うちは部員に困ってる訳でもない。正直おまえは戦力になってないし、気合が感じられないんだよ」 「じゃあ、辞めます。お世話になりました」 「じゃあってなんだよ! 部活ナメてんじゃないよ!」  上田は思い切り机を掌で叩いて僕を怒鳴りつけた。驚かすつもりなのかもしれないけれど、そんなものは山瀬達の仕打ちのせいでとっくの昔に身体の方が先に慣れてしまっていた。 「あの、辞めたら何かマズいんですか?」 「なんで来なくなったんだ。それをまず言え。何か言えない事情でもあるのか?」 「事情……ただ単に、足が向かなくなったからです」  山瀬達のせいで毎日疲れ切ってしまい、とてもじゃないけれど部活に顔を出す気力は僕の中で失くなっていた。詳しいことは省いて足が向かなくなったとだけ伝えると、上田はにやにやと卑しい笑みを浮かべながら、まるで小馬鹿にするような声で呟いた。 「まさか、イジメが原因で来なくなったとは言わないだろうけどね」  その瞬間、目の前が真っ暗になるような感覚に陥った。怒りを通り越し、生まれて初めて絶望がどんな色でどんな形をしているのか、知った気がした。  上田は恐らく他の部員に聞き回ったのだろう。なんで来なくなったのか、普段どうしているのか。卓球部の中には同じクラスの広井が居る。上田は奴から面白おかしく僕の様子を聞いていたのかもしれない。それを知っていて呼び出したのだとしたら、上田は紛れもない悪魔だとこの時感じた。 「先生、もう良いですか? 気分が悪いんで」 「……そうやって逃げられるのも今のうちだけだからな。もう、好きにすれば? だから、イジメられる方にも原因があるって私は常日頃から言っているんだ」  上田は回転椅子を回して机に顔を戻すと、僕をあしらうように手だけで追い払うポーズを取った。その途端、僕の中で今まで感じたことのない怒りが込み上げて来て、人生で初めてと言っていいくらいの大声を職員室に響かせた。 「イジメられる方が悪いってなんだよ! てめぇは何も知らない癖に上から物ばっか言いやがって! まともな日本語も交わせないのに何が国語の教師だよ!」 「おい、どうしたんだ! 早川、落ち着け!」 「落ち着けもクソもあるかよ! てめぇがこうさせたんだからな! 知ってて無視しやがって! 教育委員会に訴えてやるからな!」 「話をしよう、な? 早川!」  教育委員会という単語が聞こえた瞬間、我関せずという態度を取っていた他の教師達が一斉に立ち上がった。僕はとにかくムカついてしょうがなくて、気付いたらボロボロと泣いていた。職員室から何人かの教師が追い掛けて来たけれど、僕はそのまま学校を飛び出した。  胸にぽっかりと穴が開いた気分になって、僕はもう誰からも見放されてしまったんだと実感した。駅から電車に乗って家へ帰る間、ずっと悲しくて仕方がなかった。他の学校の人達が電車の中で楽しげな顔で笑うのを見るたびに、心が痛くなってたまらなくなった。  駅を降りて家へ帰ろうかと思ったけれど、僕は無性に坂崎に会いたくなっていた。こんな思いをずっとし続けていたのに無視していたことを、許されなくてもいいから謝りたいと思ったからだ。  陰り始めた住宅街を進んで行くと、一際大きな坂崎の家が目に入って来る。小学校の頃に大きな庭でBB弾を打ったり、家の中でかくれんぼをしたり追いかけっこをして遊んだ思い出が蘇って来る。  真っ黒い大きな門扉の横にあるインターフォンを押そうとすると、家の脇にあるガレージに灯りがついているのに気が付いた。カーキ色のつなぎを着た作業員の人が見えて声を掛けようと思って良く見てみると、それは作業員じゃなくてバイクを弄る坂崎だった。  心の準備が整ってないまま坂崎に出くわしたから、僕は突然逃げ出したい衝動に駆られてしまった。どうしようかと思ったら、手を止めた坂崎はどうやら僕に気付いたみたいだった。  思い切り怒鳴られたらどうしようと思っていると、坂崎は手を振って僕を出迎えてくれた。ガレージに入るとパイプ椅子を出されて、ピカピカに磨かれた紫色の大きなバイクを眺めながら腰を下ろした。 「海斗、うちに来るの久しぶりじゃね?」 「あぁ、うん。元気してるかなって思って」  「超元気だよ! 俺さ、今働いてるんだよ」 「え? 学校は?」 「あんなクソみてぇな所もう用事ねぇわ。ずっと無視してて悪かったな、ごめんな」  謝ろうと思っていたのに、突然謝られた。僕はなんだか急に気恥ずかしくなって、ガレージの椅子に座ったまま小さく頷くことしか出来なかった。  ガレージに据え置かれた冷蔵庫から缶コーヒーを二つ取り出した坂崎は僕に一つ手渡すと、楽しそうに笑って頭に巻いていたタオルを取った。 「いやぁさ、星野のことを庇ったおまえにちょっとムカついちゃってさ。ムカついたっていうか、嫉妬したんだよ。俺の時は無視した癖にってさ。ウケんべ?」 「いや、ウケやしないよ。中学の時、怖くて何も出来なかったから……本当、情けなくてごめん。今さら言ったって許してもらえないかもしれないけど、本当にごめん」  やっと言えたけど、許してもらえるとは思わなかった。だけど、坂崎は笑っていた。 「おまえが謝る必要なんかねーよ。そりゃ多少は悲しかったけど、元々の原因はうちの親達だから」 「……男らしくしろって言ってた、あのお父さん?」 「うん。親父だけじゃなくて、おふくろも。兄貴が死んでからさ、何かと比べたがるっつーか……俺が何をしても裕輔はそんなことしなかったとか、あなたはこの色が好きかもしれないけど、裕輔はこの色が好きだったとか……そんなストレスもあってさ、もう全部ぶっ壊れちまえば良いって思って、あぁなった」 「だからあんなに風変わりしたんだ。怖くて声、掛けられなかったよ」 「マジで周りの奴ら片っ端からぶっ殺してやろうと思ってたよ。怖がってると思ってさ、俺から海斗に声掛けてやったんだよ。最後、ゲーセン行ったよな」 「うん。全然会話なくてビックリしたよね」 「そうそう。何話していいのか、誘った俺も困ってたんだよ」 「高校では昔みたいにもっとちゃんと話してれば良かったって思って、それで、今日来た。坂崎がいなくなってから色々変わっちゃったけど、なんかまた坂崎の前からまた逃げたりするのは良くないなって思ったから」 「そっか。まぁ、俺は大丈夫だよ。親父のことはパクられてざまぁみろって思ってるし、俺は俺で稼いでさっさと家出るつもりだからさ」 「稼ぐって、悪いことなんてしてないよね?」 「馬鹿。俺さぁ、実は大工になりたくって」 「大工?」 「あぁ。親父が色々ゼネコンと絡んでたから小さい頃から色んな現場に遊び行ったりしててさ、口ばっかりのうちの親父と違って職人ってカッコいいなぁって思ってたんだよ。だからさ、今見習いだけど俺のこと面倒見てくれてる所で世話になってるんだ」  小さな頃、卓球部の隅でもじもじしながら話していた坂崎は僕よりもずっと先に大人の世界へ飛び出していた。それは前みたいに遠くに行ってしまったという印象より、とても大きくなったという印象を受けた。 「へぇー! 坂崎凄いなぁ、もう大人じゃん!」 「おう。一足お先に」 「なんだか凄いなぁ、本当に」  坂崎はガレージの壁に掛かっていた時計を確認すると、思い出したかのように突然どこかへ電話を掛け始めた。電話を切ると嬉しそうにガッツポーズをして、僕にヘルメットを渡して来た。 「海斗、夜八時まで大丈夫だって」 「何が?」 「体育館。久しぶりにやろうぜ」  そう言って坂崎はスマッシュをキメるポーズを取ると、バイクのエンジンを掛け始めた。バイクはお兄さんが乗っていたものを時間とお金を掛けて直し、中型免許も取ったんだとその時になって初めて知った。坂崎は紫色の車体を撫でながら、「死んじまったけど、俺の中ではずっと尊敬してる大好きな兄貴だからさ」と照れ臭そうに笑っていた。  体育館に着いてネットを挟んで向き合うと無性に楽しい気分が込み上げて来た。こんな気持ちになったのは何年ぶりだろう? 今日の僕は絶望したり楽しくなったり、だいぶ忙しい。  久しぶりのラリーはかなりゆっくりとしたスピードだったけれど、とにかく楽しくて仕方なかった。坂崎がミスるたびに笑いが込み上げて来たし、僕も最近は鈍っていたからだいぶひどいミスをした。そのたびに腹を抱えながらお互いを「下手くそ」と罵っていると、あっという間に八時になってしまった。  帰りは家までバイクで送って行ってもらった。少しだけ雨の混じる夜の空気が心地良くて、エンジンの音であまり聞こえなかったけれど下らない話をいっぱいした。幼馴染の背中に掴まるのがなんとなく気恥ずかしくて後部座席のレバーに掴まっていたけれど、時々頼った背中の大きさに何だか嬉しくなれた夜だった。  翌る朝。教室へ入ると山瀬が怒鳴り声を上げていた。すぐに目にしたのは山瀬が床に横たわる星野の顔面を踏みつけている光景だった。丁寧に顔だけは避けて攻撃したのだろう、星野は腹を抑えながら苦しそうな顔を浮かべていた。 「ゴミ野郎、もういっぺん言ってみろよ! あぁ?」 「……嫌だ」 「エイトマンの分際でナメたこと言ってんじゃねーぞ! 払いたいですって言えよ!」 「……だから、嫌だ。アルバイトしたお金は、漫画を描くために使うんだ……」 「知らねぇよ! 払わないならもっとイジメるからな!」 「やれば……いいよ」 「もういいわ、殺すわ。おまえ、あとで殺すわ。あ、二号来た? おい、早川二号。おまえが払え」 「……え? 何が?」  事情が分からずに鞄を置いて振り返ると、いきなり腹を殴られた。ふいにみぞおちを攻撃され、気持ちが悪くなってうずくまると上から山瀬と有坂の声が降りて来た。 「一号が壊れてセキュリティー料金の月額たった八万円が払えないとかヌカしてんだわ」 「二号、おまえ払えよ。おまえん家いくらか金あんだろ? 親脅してでも持って来いよ。それとも、妹に怖い思いさせたい?」  昨日のことを反芻しているうちに段々と腹が立って来て、おとなしくしていることに気が引け始めて来る。どうせ黙ったままここに居ても、教師連中は知っているはずなのに何もしてくれない。何か起こった時には坂崎の時のように面倒臭がって蓋をしようとする。だったら、自分で何とかするしかない。  僕は坂崎の胸を借りるつもりで立ち上がって前へ出る。 「たった八万とか言うならさ、自分達で稼げば良いんじゃないの?」  言えた。そう思った。言った瞬間、胸の中につかえていたものがスッと落ちて行く感じがした。  パチパチと小さな拍手が聞こえると思ったら、野原さんが机の上のスマホに目を落としたまま拍手をしていた。  それを見ていると山瀬は僕の腹をいきなり蹴って来て、蹴られた衝撃で僕は背後へ吹き飛んだ。有坂が倒れた僕の上に馬乗りになる。 「坂崎のいないテメェなんかただのAI奴隷なんだからな! おとなしく「ハイ、ワカリマシタ」って言っときゃ良いんだよ!」 「おめぇん家どこだっけー? おい、広井、市原ぁ。帰り花火買っとけよー。二号の家にカチコミ行くぞ」  こんな奴らの言いなりになってたまるか。僕は上に乗られて金を持って来いと言われて首を絞められても、縦には振らなかった。  下っ端の市原が「大磯来た!」という声で解放されたけれど、授業中には何枚も「死ね」「殺す」と書かれた紙が回って来た。あまりのしつこさに「やるならやれ」という気持ちに僕はなっていた。  昼休みになると山瀬達は学食へは行かず、真っ直ぐに僕の席へやって来た。 「これ、おまえん家だろ?」  そう言って見せられたのはスマホアプリのストリートビューに映された僕の家だった。僕は何も答えず、本に目を落としていると有坂に本を取り上げられた。 「二号の癖に無視してんじゃねーよ。一号のお友達が払えねぇって言ってんだから、二号の連帯責任だろ」 「僕は関係ないし、二号じゃない」 「俺らナメてんじゃねーぞ。マジでやっちゃうよ?」 「先に警察に通報する。それでもやりたいならやれば良い」 「出ーたぁー! 国家の犬頼みぃ! 犬はやっぱりお仲間に頼ることしか出来ねぇんだなぁ、ダッセーの!」  ダサかろうが何だろうが、僕は僕だ。警察も頼るし、役に立たない教育委員会だって利用してやろうと思った。こんな馬鹿達に付き合っていたら時間だけが無駄に過ぎて行くし、それに僕は星野のような他人にイジメられるセンスがないと思うことにした。  そう思うと何を言われても返してやろうと思えた。 「僕はお金なんか払わない。そんな勿体無い使い方したくない」 「守ってやるって言ってんだろうがよ。殺すぞ、てめぇ」 「自分のことは自分で守れる。今もスマホで撮影してるから」 「……スマホ貸せよ」 「嫌だ」 「貸せっつってんだろ!」  僕の手元にあったスマホを山瀬が無理に奪い取る。ロックを開けようとデタラメに番号を押しているのが見えると、頭に急激に血が昇るのを感じた。  絵を描いていた星野の鞄を取ると、中を弄った。 「は、早川くん、ど、どうしたの?」 「あれ貸して。ちょっとだけ」 「え、あれって、どれだろ? え、鉛筆は4B以上の、太いやつしか、ないけど」 「あったわ。ありがとう」  僕は銀色に光るナイフを手に取ると、僕のスマホを開けようとしている山瀬の肩を背後から叩いた。ナイフを手にすると不思議と気持ちが鎮まり、冷静でいられることに自分自身でも驚いた。  振り返った山瀬はナイフを向けられていることが分かった瞬間に肩をビクッとさせて「何だよ」と小さな声を漏らした。 「スマホ返せよ。僕のだろ、それ」 「……ふざけんなよ、奴隷の癖に」 「僕のことを殺すっていうなら、僕にもおまえを殺す権利がある。返さないなら、先に殺す」 「……分かったから下げろよ、それ」 「嫌だ。下げたらまた僕のことを攻撃するつもりだろ?」  抵抗する様子もなく山瀬が僕にそっとスマホを渡すと、市原と有坂に目配せしたのが分かった。 「僕を羽交締めにするなら、それよりも先に山瀬を刺すからな。それでもいいならやればいい。嫌なら近寄るなよ」  市原と有坂はすぐに諦めたようで近くの机に腰を下ろした。山瀬は手を上げたまま僕を見ている。机に目を落とすとボールがあることに気が付いて、僕はそれを手に取って、窓から外へ向かって放り投げる。 「ほら、拾って来いよ」 「おまえ、分かってんだろうな?」 「分からない。早くしろよ。本当に刺すぞ」  山瀬は舌打ちを漏らすと静かに教室を出て行った。市原と有坂が何も言って来なくなるのを確認して、ナイフを星野の鞄に戻して席へ着いた。  その日、授業が終わるまで山瀬達は僕に関わろうとしなかった。  それから夏休みに入る直前になっても、山瀬達は僕に関わろうとはしなかった。あんな理不尽にお金を取ろうとする方が悪いに決まっているし、正直僕は清々していた。僕は卓球部にも再び顔を出すようにしたけれど、顧問の上田の言うことは信用ならないからあまり聞かなくなった。  夕方に近付くにつれ、山に重たい雲が掛かる日が増えた。そして、バケツをひっくり返したみたいな雨に見舞われる日が多くなった。分かっていながらも傘を持たない僕をからかう人がまた増えたけれど、その中に山瀬達の声はなかった。  昇降口で雨が上がるのを待っていると誰かがやって来る気配がして振り返る。  星野かと思っていたけれど、横に来たのは野原さんだった。突然二人きりになって、僕は急に照れ臭くなってしまった。 「雨、ひどいね。全然上がらないね」 「うん。待ってるけど晴れそうにないよ」 「そっかぁ。参ったな」  参ったな、と言いながらも野原さんはしっかりと傘を持っていた。まさか相合傘で帰ろうと言われるんじゃないかと想像してしまった自分を掻き消して、帰るように促そうとした。 「電車行っちゃうから、傘あるならダッシュするしかないね」 「え、また傘ないの?」 「うん。なるべく持たない主義なんだ」 「何その破綻したイデオロギー。変なの」  変なのと言われて返す言葉がなくて、僕は黙り込んだ。 「早川君、山瀬に向かって凄かったね」 「え? いやぁ、そんなことないよ」  そういえば野原さんが拍手をしていた姿を思い出して、僕は急に嬉しくなった。 「あのさぁ、聞いてみたかったんだけど、あぁいう時ってどんな気持ちなの?」 「どんな気持ち? えーっと……分かんないけど、冷静だったかな」 「へぇー! もっと内臓が煮えくり返りそうなほど熱くなったりとかしてるのかと思った!」 「いや、そんな風にはならないよ」 「私さ、女優目指してて舞台のお稽古とかしたりしてるの。ちょっと前に小さい所だけど事務所にも入ったんだよね。だから聞いてみたかったんだ」 「え? じゃあ野原さんって一応、女優ってことなの?」 「本当に、一応だけど……うん」 「凄いなぁ、女優さんに会ったの生まれて初めてだよ!」 「ちょっと、プレッシャーかかるからやめて? あの、本当にまだ駆け出しなんだから」 「あのさ、野原さん綺麗だし、絶対に売れるよ!」 「へぇー……早川君って人のこと綺麗だなぁとか思ったりするんだ? 本ばっか読んでてナイフで人のこと脅したりするし、もっとサイコ野郎みたいな人かと思ってた」  野原さんの僕に対しての印象の言葉はそれなりにショックで、家に帰っても思い出すと落ち込んだりした。 「僕も一応、普通の人間だよ」 「へぇ、本当かな? 私さ、人が何を考えて行動するんだろうってすごく興味があるんだよね。演技するってことは誰かに心までなりきるってことじゃない?」 「僕には分からないけど、そういうもんなんだ。セリフを上手く言えば良いとか、単純なものじゃなさそうだね」 「それだとただの誰かの物真似になっちゃうでしょ」 「誰かの真似をするのと、誰かになりきるのと、ちょっと違うのかな?」 「知らないのに悪いけど、全然違う。誰かになりきるっていうのは」  野原さんに妙なスイッチが入って力説を始めようとした矢先で、今度は星野がやって来た。 「あ、雨凄いね。ふ、二人がいるのは、珍しい」    相変わらずへらへらしながら星野が僕らを交互に眺めると、野原さんは真顔のまま僕と自分の胸元を指差した。 「私達ね、付き合ってるの」 「う、うわぁ。それは、お、おめでとうだね」 「星野、嘘だよ。野原さんはそんな気さらさらないよ」 「あれー? 乗ってくれてないなぁ。ドキッとしなかったか。私の演技もまだまだだね」  いや、めちゃくちゃドキッとしたけれど、後で後悔しそうで敢えて乗ることはしなかっただけだ。  なんとなく落ち着かない気持ちで雨を眺めていると、野原さんが思いついたみたいにこんなことを言った。 「私、海に行きたいな。こんなに雨が降ったらさ、街が溺れて海にならないかな?」 「なんか、凄く文学的な表現だね」 「本当? やったぁ! 多分、褒められた!」  野原さんは手を合わせて本当に嬉しそうに喜んでいた。それを見た途端に何かのタカが外れたように僕は野原さんに魅入られてしまった。僕もこれでも男だから、やはり単純なものなんだなぁと自分でもつくづく思い知らされた。  クラスの女子達が言っていた女優の話は本当のことだったし、僕の考えが及ばないくらい演技の世界は深いんだなぁと勉強にもなった。しばらく雨が上がるのを待っていたけれど結局降り止むことはなくて、僕らは野原さんの傘に三人で入ってびしょ濡れになりながら駅へ向かった。  山から降りた雲から落ちる雨はあまりにも激しかった。それが面白くて、駅に向かうまで途中何度も笑い声を上げ続けたお陰で喉が枯れそうになった。僕と星野に挟まれながら楽しそうに笑う野原さんを横目で見ながら、櫻井達の会話が頭を過った。 ——でさぁ、マジなんでしょ? 野原がパパ活でヤリまくってるって  野原さんは芸能関係の大人の人と、もしかしたら本当にそういう関係があるのかもしれない。だけど、雨に打たれながら楽しそうな笑い声を上げる野原さんだって、ちゃんとここにいる。それでいいだろうと思えたし、わざわざ聞いてみた所で仕方がないと思った。これは僕が傷付かないようにする為の、まやかしみたいなものかもしれないけれど。  轟々と音を立てて降り続く雨はシャワーみたいで、このまま降り続けたら本当に街が海になってしまいそうな蒸し暑い夏の夕方だった。  夏休みに入ってから予定が出来た。近頃ずっとクラス連中に無視され続けていたおかげで誰かと遊ぶこともないだろうと思っていたけれど、朝早くから僕は星野と野原さんと三人で電車に揺られていた。  雨の日の帰りに野原さんから「早川君は私の演技に役立ちそう」という理由で番号を交換し、僕らは友達になった。  八月に入ってすぐに野原さんから「三人で」海へ行こうよ、と誘われたので僕は二つ返事でオーケーを出した。女の子と海へ行くこと自体が初めての出来事だったし、前日の夜は舞い上がり過ぎて眠れなかったほどだ。坂崎に付き合える可能性を訊ねてみたら 「寝言って言うのはな、寝てる時じゃないと言えないんだぜ?」  と笑いながら返されてしまった。  坂崎と星野の不思議な主従関係はその後も続いているようで、何度か仕事帰りに星野の家へ遊びへ行き、飯を作らせる代わりに弟の世話をしていると坂崎はとても楽しそうに話していた。海へ向かう電車の中でもその話を星野が嬉しそうに話していて、なんだかんだ仲が切れないってことは星野と坂崎は実は仲が良いんだろう。 「さ、坂崎君はノボルの相手が僕よりずっと、上手でびっくりした」  そうやって嬉しそうに話すと野原さんがただでさえ大きな目を丸くした。 「えっ、星野君と坂崎って仲良しなの? ノボルって誰?」 「ぼ、僕の弟。お母さん、いつも夕方から仕事だから、坂崎君が遊びに来てノボルとゲームしたり、サッカーの動画見たりしてて、二人で楽しそうにしてるから、ぼ、僕すごく嬉しい」 「えぇっ? 坂崎とそんな仲良かったんだ……子供と遊んでる姿とか想像出来ないんだけど。弟のこと、イジメたりしてないよね?」 「う、うん。どちらかと言えば、パンチとか、キックとか言って、さ、坂崎君が攻撃されてる。坂崎君、ノボルの、あ、兄貴になったみたいで、嬉しいって」  その言葉を聞いて、僕はとても嬉しくなった。亡くなったお兄さんのことが坂崎は大好きだったから、お兄さんの気持ちに少しでも近付けたことがきっと嬉しいんだろうな。やっぱり、あいつは悪い奴なんかじゃないと今さらだけど僕は思えたりした。   海へ行くまでの間に大変なことが発覚した。  なんと、野原さんは「超」がつくほどの自由人だったのだ。海沿いの街を海岸に向かって歩いている道中、並んで歩いていたはずなのに突然姿が消えてしまうことが何度もあった。気になったお店や看板があるとフラッと中へ入ったり小道に逸れていたりする為、その都度野原さんを探すハメになった。他の女子達とは全く絡まないでいつも一人でいる理由が、何となくだけど分かった気がした。 「野原さん、いなくなるなら言ってくれよ!」 「えー? だって気になるお店とか放っておいたら通り過ぎちゃうし、勿体ないじゃん」 「お店は逃げて行かないから。お願いだから迷子にならないでよ?」 「あはは! 私もう十七歳だよ? あ、私がいなくなるのが寂しいから言ってるんじゃなーい?」 「せっかく三人で来たんだし、突然目の前から消えるから言ってるんだよ」 「はーい、わかりましたー。星野君、早川君って先生みたいなこと言うんだね、嫌になっちゃうよねー?」  野原さんがわざと顔を歪めてそう言うと、星野は「は、早川君は今日の先生だ!」とはしゃいだ声を上げた。野原さんはそのまま星野の腕を引っ張って、何も言わずに商店街にあった古い下駄屋へ入って行ってしまった。野原さんがいくら綺麗だとしても、本当に勘弁してくれと汗を流しながら僕は思っていた。  電車に乗って駅から歩き、家から片道三時間も掛けて海岸にたどり着くと、暑さを和らげてくれる気持ちの良い潮風が一気に身体を吹き抜けて行った。  堤防にあった階段を上がると、夏の高い空と静かな青い海が目の前に広がって、僕は思わず息を飲み込んでしまった。 「気持ち良いなぁ! ずっと来たかったんだ、ここ」  野原さんはとても嬉しそうに言って、一眼レフで写真を撮り始めた。この場所へ来たのは野原さんのリクエストだった。一人で行ってもつまらないけど、誘える相手もあまりいないということで僕と星野が指名された。なんてことはない田舎町の海岸だけど、人も少なくて波も穏やかで、ずっと来たかったという気持ちが心底分かるくらい、とにかく本当に気持ちの良い場所だった。  浜辺へ降りると野原さんは夢中で写真を撮り続け、星野はスケッチブックを広げて写生を始めた。そんな二人の横で僕はというと、水着をどこで着替えようか迷った挙句、海の家がないことに気付いて慌てていた。 「あの、二人ともどこで着替えるの?」  その瞬間、星野はぽかんとした間の抜けた表情になり、野原さんはカメラを下ろして眉間に皺を寄せながら声を尖らせた。 「電話で言ったじゃん! 私は泳ぎに来たんじゃなくって、写真を撮りに来たんだよ」 「ぼ、僕は描きに来たよ。すごく、良い海でよかった」 「あ! 早川君、海入りなよ。写真撮ってあげる。どうせ誰も見てないんだし、着替えなんかその辺の木陰でしてくれば良いじゃない」 「えぇ! もしかして水着持って来たの僕だけ?」 「そうだよ。面白いからさっさと着替えて来て」  野原さんの水着が見れる! と喜んだり、星野と海の中でプロレスが出来るかなぁとか思っていた僕の楽しみは一瞬で全て崩れ去った。僕は浜辺に置かれたままの錆びた漁船の裏でこそこそ着替え、二人の撮影とスケッチの為に半ばヤケクソになって海へと飛び込んだ。  僕ら以外に人の気配はなくて、静かな浜辺には僕らの笑い声だけがたくさん響いていた。  帰りの電車の中では野原さんが星野と将来の夢についての話を熱く語っていた。 「星野君が漫画家になって、バーン! って売れたらさ、今の流行りの漫画ってどうせ映画化するじゃない? そしたらね、私がそのヒロインを演じるの。どう?」 「す、すごい楽しそう! い、今は宇宙を舞台にして、未来人が地球が滅びないように軌道修正し続ける漫画を、描いてるから、ヒロインは野原さんをイメージして、描いてみよう」  星野はすぐにスケッチブックを捲り、女の子のシルエットを描き込んで行く。クロッキーの練習のおかげなのか、星野の筆はあっという間に女の人の形を白い紙の上に描き出して行く。 「えー! 星野君すごい! これが私になるの?」 「う、うん。名前は、えーっと……ハナ、ハナでいい」 「ハナちゃん? 可愛いじゃない。じゃあ、私はハナを演じれば良いんだね」 「う、うん。僕はみんなが面白いと思う、漫画を描く」 「じゃあ、早川君は何をするの?」 「えっ、僕?」  急に話を振られて、僕は考えてみた。今のところ、二人みたいにこれといった特技も目指してる道もない。ただ漠然と卓球と小説が好きなだけの、なんでもないただの十七歳だ。これから何かになろうとするにはまだまだ時間が足りないような気がしたけれど、今の僕が考えられる精一杯を二人に話してみた。 「そうだな。そしたら、僕は二人が関わった映画を一番最初に一番良い席で観る、一番のお客さんになるよ」 「じゃあ早川君はファン一号で決まりね。変な口コミ流さないでよ?」 「失礼だな。これでも二人のことをすごいって思ってるんだから。任せてくれよ」 「ファン一号、期待してるからね」  そういえばこの前まで「二号」って呼ばれてたんだよなぁと思いながら、僕はその後も二人の会話を楽しい気持ちで聞いていた。  長い車中でいつの間にか眠りこけていたみたいで、大きな雨粒が窓を叩く音で目が覚めた。電車はどこだかもよく分からない広い畑の前を走っていて、雨を降らす雲がどんよりと重く立ち込めていた。微睡んでいるみたいなその光景がなんだかとても心地良くて、横を向くと野原さんも星野も揃って口を開いて眠りこけていた。二人とも面白いなぁと思っているうちにまた強い眠気がやって来て、窓を叩く雨音を聞きながら再び眠りの世界に落ちて行った。  夏休みが明けて学校が始まると、ちょっとした変化が起きていた。  山瀬をリーダーとする連中が、揃いも揃って同じ黒いシャツを着て学校へやって来たのだ。なんでも夏休み中に自分達のチームを作ったとかで、イメージカラーも黒なんだと駒使いをさせられている広井から部活中に聞かされた。 「山瀬達もそんなことするなんて、夏休みは暇だったんかな」 「坂崎君のカラーを残したくないらしいよ。ちなみにだけど、俺も買わされた」 「何を?」 「真っ黒いシャツとパーカー、セットで一万五千円」 「たっか! 広井、買ったのかよ?」 「持ってたら標的にされなくて済むんだよ。学校生活を安泰に送れるお守りだと思えば安いよ」 「ふーん……効果あるのかな、そのお守り」  下らないことをやっているなぁと思っていたけれど、日に日にクラスの連中や他のクラスの奴にも黒いシャツを着て登校する生徒の数が増えて行った。  山瀬達以外で黒いシャツを着ているのは不良っぽい連中が多いうちの学校でも比較的おとなしい奴らが多く、それなりに相手を絞って高価なお守りを売りつけてるようだった。  山瀬にナイフを突きつけて以来、僕に絡んで来ることはなかったけれど、山瀬や有坂が僕を睨んだりあからさまに舌打ちしたりすることはあった。体育のサッカー授業ではボールを持っていない僕にタックルして来たり、身体に向かってボールを蹴られたりすることはあった。それでも、直接口に出して文句を言われたりはしないのが逆に不気味で仕方なかった。  僕と星野が坂崎と仲良くしているのを知っているから何もないのだと思っていたし、このまま前みたいに近付くことはない距離感で日々が過ぎて行くんだろうと思い始めていた秋雨の頃、事件が起こった。  その夜、スマホを持っていない星野は家電から電話を掛けて来た。珍しいと思って出てみると、かなり慌てた様子で話し始めた。 「ど、どうしようかと思って、あの、ノボルが、ノボルが……早川君、どうしたら、いいかな?」 「ちょっと待てよ。星野、何があったか落ち着いて話してくれよ」 「ノボルが、か、だ、団地の階段から落ちて、頭が怪我して、う、動かなくなっちゃって」 「おい、それまずいよ! 救急車は?」 「た、たまたま、隣の中村さんがか、帰って来たから、よ、呼んでくれたけど、ち、血が凄くて、頭から、バーッて」 「星野、落ち着いて話してくれよ。救急車は来たんだな?」 「う、うん。お、お母さんが仕事行かないで、一緒に病院に、向かった。ど、どうしよう?」 「どうしようって言っても、病院に任せるしかないだろ。怪我したノボルは喋れたの?」 「な、何も言わなかった。ぐ、ぐったりしてて、あ、頭から血が出てて」 「どんな風に転んだんだよ」 「お、お母さんが、わかったら電話するって。ノボルが、し、死んじゃうかもしれない」 「馬鹿なこと言うなよ! 大丈夫だから、お母さんから電話来るの待ってろよ。今こうして話してる間にも電話掛かって来てるかもしれないだろ? な?」 「わ、わかった。待つ」  電話を切った途端、物凄く嫌な胸騒ぎがした。本当に階段から落ちて怪我をしただけなのだろうか? 小学三年生が団地の階段で転んで頭を切って意識を失くす所を想像してみたけれど、あまり合点がいかなかった。  窓の外は秋の雨が降り続いていて、光のない夜がとても悲し気だった。  翌日。午後から学校にやって来た星野から事情が聞けた。  ノボルは怪我をして気を失っていただけで命に別状はないことと、階段から転んで頭から血を流した訳ではなく、頭には針を縫うほどの裂傷があったということを話してくれた。警察から事情を聞かれたりもして、昨夜は大変だったそうだ。 「じゃあ、ノボルは誰かにやられたってことなの?」 「わ、わからないけど、警察がそう言ってたし、お、お医者さんも、怪我は階段から落ちて出来たものじゃないって、そ、そう言ってた」 「ノボルは何も覚えてないの?」 「き、記憶が、覚えてることが飛んでるみたいで、とにかく怖がってて、何も話さない」 「もし誰かがノボルを傷つけたとしたら、僕は許さないぞ。だってまだ小学三年生だぞ? 相手は子供じゃないか」 「う、うん。でも、ノボルも僕みたいに馬鹿だから、大人にほいほい、つ、ついていっちゃうかも」 「まさか。ノボルはおまえよりしっかりしているよ」  雨の日に着替えを貸してもらってから、星野の家へ何度か遊びへ行っていたけれどノボルは星野と違ってとても良く出来た子でしっかりとしていた。母子家庭で一番手が掛かることをまだ小さいのに自分で自覚していたし、絶対に公団住宅の外へ出て遠くへ行ったりすることもなかった。家に帰ればしっかりと宿題をして、それが終わると星野の目から絶対に離れない距離で遊んでいるのがいつもの光景だった。  まだ子供のノボルをあんな目に遭わせた奴を、僕は心から許せないと怒りを持って感じていた。    ノボルが怪我をしてから三日目に、誰に何をされたのかが判明した。ノボルは団地の階段を下りて駐車場に出てサッカーボールを蹴って遊ぼうとしていた矢先、階段の踊り場でいきなり左の側頭部をバットで殴られたらしかった。  階段を下りていたら黒い服を着た人が出て来て、そいつに殴られたと証言しているらしい。黒い人は銀色の髑髏のピアスをしていて、それがとっても印象に残っていたそうだ。  それを聞いた瞬間、思い当たる人物が一人いた。  黒いシャツを着た連中の真ん中に座る、山瀬だった。  坂崎に憧れて金魚の糞をしていた頃から、山瀬は坂崎と同じ髑髏の銀ピアスをつけていることを思い出した。振り返って見てみると、山瀬の耳たぶで髑髏の銀ピアスが光を拾って鈍く輝いていた。  その日もきっと、山瀬カラーの黒シャツかパーカーを着ていたのだろう。それに髑髏のピアスは坂崎以外だと山瀬しか思い当たらない。大工の見習いをしている坂崎は「危ねぇからな」と言ってピアスを付けるのを止めていた。  怪しいと思い山瀬を見ると目が合った。口の端っこだけをつり上げて、嫌な笑い方をした。 「なんだよ、いかにも集金して欲しいって顔してんな」 「僕がそんな顔する訳ないだろ」 「おーいおいおい、忘れてんじゃねーだろうなぁ? 一号も二号も、そろそろイジメセキュリティー料金払ってもらわねーとな」  山瀬が思い出したかのようにそう言うと、有坂は手を叩きながら嬉しそうに叫んだ。 「あー! 我慢が限界こえたー! セキュリティーの期限が切れたらしいよ。金払ってねぇんだから、当然イジメちゃってもいいよな?」 「セキュリティーされてねぇからな。久しぶりにいっちょ腹でも殴るか」  机と椅子ががたがたと喧しい音を立て、山瀬達が一斉に立ち上がる。なんてしつこい奴らなんだろうと思いながら、僕はすぐに星野の机へ駆け出した。やられる前にやらなきゃ、こっちが痛い目を見るだけだ。 「星野、鞄開けるぞ」 「あ、開けても、何もないよ」 「鉛筆じゃない。ナイフだよ」 「ナ、ナイフは坂崎君に返したよ」 「返した? 嘘だろ?」   鞄を開けて中を弄ってみると、星野の言うように底に光るはずの銀色が見つからなかった。ナイフが無かったら、あいつらを止めることは僕には出来ない。焦るあまり鞄をひっくり返してみたものの、星野の鞄からは小さなスケッチブックや鉛筆が飛び出すばかりで、ナイフが飛び出ることはなかった。その間にも、山瀬達は僕に向かってぐんぐん近付いて来る。心臓がバクバクと音を立てて、無意識に指先が震え出す。嫌だ。もう、あんな思いをするのは嫌だ。  そう思った僕は、床に転がった4Bの鉛筆を手に持って叫んでいた。 「それ以上こっちに来たら、刺すからな!」  口をついた言葉に、山瀬達は僕の手元を見て一斉に笑い声を上げた。 「おいおいおい! 鉛筆で人殺せるんかよ! 達人じゃん!」 「こえー! 二号は殺人のプロフェッショナルだったのかよ!」 「やられる前にやらねぇとなぁ! 俺ら殺されちゃうかもしんねーからな!」  笑い声が塊で迫って来ると、僕はすぐに山瀬達に羽交締めにされた。雄叫びを上げる有坂が、僕の腹を目掛けて飛び蹴りを食らわせる。痛みよりも重い衝撃で思わず吐きそうになるけれど、羽交締めにされていて身体を崩すことさえ許されない。その間に残りの連中は星野の机を取り囲み、スケッチブックを取り上げてびりびりに破り始める。顔を向けてみると、星野はへらへらと笑ったりせず、それを取り返そうと必死にスケッチブックを掴んでいた。机から顔を上げた野原さんが金切り声で叫ぶと、山瀬達はひどい言葉で野原さんを罵り、女子達と一緒になって野原さんを笑い物にし始める。  僕にもっと力があれば、僕にもっと勇気があれば、こんな状況さえも変えられたのかもしれない。  無力な僕は結局、山瀬達に楯突いてみたところで元に戻されるのがオチなんだ。所詮はこれが現実で、夏休みに三人で海へ行って楽しかったことも、束の間の幻だったのかもしれない。  それでも、ただやられっぱなしの情けないままの僕でいることを、僕が許せなかった。  吐いても良いと思いながら歯を食いしばり、抵抗した。僕を羽交締めにしているのは柔道部の肩山という奴で、いくら力を込めてもピクリとも動かなかった。腹を蹴られ続け、笑われ、星野のスケッチブックがその手から離れて宙を舞っている。夏の日に描いた一枚が捲れてそのまま床に落下した瞬間、閉め切っていた教室の後扉がガラッと大きな音を立てて開いた。  僕の肩を掴んでいた肩山の力が急に抜けると、周りにいた連中は笑い声をすぐに収めた。大磯がやって来たのかと思って目を向けてみると、教室の後扉には顎髭を生やしたサングラス姿の坂崎が立っていた。ドアに腕を掛けながら、坂崎はにやりと笑っている。 「やって良いこととー、悪いことー。その区別がつかない頭の残念な子がいると聞いてやって来ましたー。どうもー、元クラスメイトの坂崎でーす」  間伸びした声で坂崎は言うと、教室の中へ入って来て僕の横に立った。 「今さらだけど、退学届け出しに来たんだわ。まぁ、美味しい親の脛をかじってる皆さんと違って僕は労働者なんでね」 「てめぇ! 何しに来たんだよ!」  山瀬が怒りを剥き出しにして叫ぶと、坂崎は口をポカンと開けた。 「何しにって、退学届を出しに来たんだよ」 「なんでここにいんだよ! あぁ?」 「まぁ、そのついでの悪霊成敗的な? いやー、参ったわ。昨日久々に少年課のみなさんが我が家へいらっしゃってね。ピアスを見せてみろなんて言うからねぇ。パクられる理由もねぇし、親方が俺のアリバイ証明してくれたから、やっぱり真面目に働くって尊いっすわー」 「はぁ? だから何だよ。さっさと消えろよ」  山瀬が睨みを効かせると、坂崎は腕組をして首を傾げた。 「あれぇ? おかしいな、白豚が喋ってるぞ? 海斗、これってうちの高校のゆるキャラ?」  こんな時、僕は本当に情けない奴だと自分で自覚してしまう。坂崎がいると途端に勇気が湧いて来て、つい軽い冗談を返したくなって、調子に乗って本当に返してしまうのだ。 「うん。高校のマスコットで「ハクトン」って言うんだ。よく喋るだろ?」 「ニ号! てめぇざけんなよ!」  怒った山瀬が僕の方を振り向いた瞬間、坂崎はその口元に手を回して力任せに顔を持ったまま、山瀬の身体を床に打ち付けた。あまりに強い力だったから、小太りの山瀬の身体は足を天に半回転して転がった。床の上に転がった山瀬の上に、坂崎はゆっくりとした動きで馬乗りになる。 「あまり時間がねぇから、すぐに答えろ。ハクトンはどういう人間がこの世で一番馬鹿で愚かなのか、知ってるか?」 「どけよ。でけぇから邪魔くせぇんだよ」 「あらー、何て口の利き方なんでしょう? 少なくとも俺の金魚の糞やってたんだからさぁ、俺イズムみたいなもの、伝わってなーい?」 「知るかよ、つーか降りろよ。てめぇはもう親子共々終わってんだよ。兄貴みてぇに死にてーのか?」  山瀬が坂崎を離そうと足をバタバタさせていると、馬乗りになったままの坂崎はほとんど前触れもなく、いきなり山瀬の顔面に拳を叩き込んだ。足が大きく跳ね上がり、あー! という悲鳴みたいな声が上がる。 「お喋り豚野郎、良く聞けよ。痛い時に声が出せるのはな、まだ心に余裕があるってことだ。だから、俺はおまえをこの後すぐにボコボコにする。お前の大好きな豚の餌はしばらく食えないと思え」 「ハッタリかましてんじゃねぇ……てめぇ捕まるぞ」 「ハクトンと違って俺は何度もパクられてるし、知っててやってるから心配すんな。もう一度聞くぞ。どんな人間がこの世で一番馬鹿で愚かだと思う?」 「てめぇみてぇな、とんだクソ野郎だよ」 「ハクトン君はずいぶんご機嫌ナナメだねぇ。じゃあ人の言葉が分かるかどうか知らねぇけど、教えてやるよ。人が本当に痛い時ってのはな、声も出ねぇし心まで痛くなるんだよ。そうするとな、痛い癖して泣くことすら出来なくなるんだよ。泣けば誰か気付いてくれるだろうよ、泣き声も誰かに届くだろうよ。でもな、そんなことさえ出来なくなっちまうんだ。情けなくて馬鹿みてぇだろ?」 「だから、何だよ」 「……でもなぁ、一番馬鹿で愚かな人間っていうのはな、そいつの痛みが人に届かないのをいいことに、平気で痛めつけることが出来ちまう最低のカス野郎のことを言うんだ。分かるよな?」 「……何がだよ」 「何がじゃねぇ。ノボルはまだ小学三年なんだぞ。右も左もわかんねー、ただ兄貴とサッカーが大好きなだけの、可愛げのある純粋なガキなんだよ」 「……」 「ノボルがどれだけ怖かったか、どれだけ痛かったか、豚の脳味噌には想像もつかなかったか。なぁ?」 「……知らねぇよ」 「家の中に爆竹投げ込まれて、怖かったってよ。家が燃やされるって思ったってよ。怖かったかっつーからよ、一番怖いことはなんだ? って聞いたら、お兄ちゃんに会えなくなることだって。死ぬことよりも怖いってよ」 「アホくさ。そんなん、弱くてやられる方が悪ぃに決まってんだろ」 「へぇ……弱くてやられる方が悪いんだ? じゃあハクトン君は今から超極悪人になっちゃうね」 「……はぁ? こっちゃ何人いると思ってんだよ?」  強がっているのか、床に転がったままの山瀬が言うと坂崎は息を大きく吸い込んだ。こうして坂崎を見ていると、元々持っている気迫が山瀬とはまるで違っていた。気にも身体にも、隙というものが全くなかった。坂崎の手が山瀬の胸倉を掴み上げると、その耳元に向かって怒鳴り声を上げた。 「てめぇのクソみてぇなプライドの為に人を巻き込んでんじゃねーよ!」  足を大きくバタつかせて抵抗しようとした山瀬だったが、一瞬で頬に坂崎の強烈なカウンターを受け、その頭が床にぶつかって跳ね返った。元々ガタイも良くて今は大工仕事をしている坂崎と何もしてない山瀬では、力の差があって当然だった。 「豚の癖におまえは人間様を殺し掛けた。人が死ぬってことはな、もう何もかもが取り返せなくなるってことなんだよ。会えなくなるだ? 悲しいだ? 辛いだ? そんな単純な話じゃねーんだよ!」  坂崎は山瀬の顔面を掴み、叫びながら何度も床に打ち付け始める。坂崎の顔は怒っているというより、ものすごく悲しい痛みを耐えているような、とても辛くて苦しい表情を浮かべていた。  泣いているのと、絶望しているのと、そのどちらでもないような顔で、坂崎は山瀬をめった打ちにしている。それでも誰も止めようとはせず、二人を取り囲む輪はしんと静まり返っていた。  息を切らしながら立ち上がった坂崎は、ぐったりして抵抗を見せなくなった山瀬に吐き捨てるようにして言った。 「殺される覚悟もねぇのに人の命で遊んでんじゃねーよ、豚野郎。次やったら屠殺場に送り込んでやっからな」  そう言って大きな溜息を吐くと、電話を掛け始めた。 「あ、もしもし? 板さん、先に犯人ゲットしちゃった。でもごめん、ボコボコにしちゃったわ。そう、そう思って学校来ちゃった。殺人豚野郎と一緒に待ってるから、早く迎えに来てにゃん」  電話を終えると、坂崎は床に落ちていたスケッチブックを拾い、星野の前に立ってそれを渡すと、勢いをつけて肩を叩いた。星野の細い身体が一瞬沈み込むほどの力だった。 「しばらく遊びに行けなくなるけど、しっかりした兄貴になってやれよ」  そう言って掛けていたサングラスを外すと、星野の坊主頭にそれを掛けた。坂崎は親指を立てると「全然似合ってねー」と笑って呟いた。ぐったりしたままの山瀬を残し、怠そうに廊下へ出て行く。騒ぎを聞いた教師達が一斉に駆けつけると、廊下に出た坂崎を取り囲んだ。坂崎は特に抵抗を見せる風でもなく廊下の窓際に立ち、縁に手を置いて外を眺め始める。その様子を見ていた僕と目が合うと、坂崎は窓の外の空を指差した。 「お前と会う時って、いっつも雨なのな」  そう言って笑ったすぐ後に、大勢でやって来た警察官と刑事に連れられて坂崎は学校を後にした。  冬休みが明けると、雪の予報が出る日が増えた。山に掛かる雲は眠たげに、それでもゆっくりと進んでいる。かなり冷え込んで来たから昼頃から雪になるかと思ったけれど、その日は結局雨のまま街に降りた冷たい冬がさらに冷たくなるだけだった。雨で濡れた昇降口に立つ星野は、たくさんのスケッチブックを抱えている。 「今まで、い、いっぱいありがとう。早川君に会えて、ほ、本当に楽しかった」 「俺も楽しかったよ。だけど、一緒にイジメられてたことは忘れろよな。これから先、おまえの描いた漫画が雑誌に載るのを楽しみにしてるからさ」 「あ、後三ヶ月くらいで完成するから、がんばるよ」 「三ヶ月って言ったら春になっちゃうよ。あと、新しい場所にも早く慣れるといいな」 「う、うん。た、楽しくがんばる」  へらへら笑っているのは相変わらずだったけれど、この顔を見られるのもしばらくは今日で最後になる。  星野のお母さんが再婚することになり、星野は家族と一緒に義父の家へ引っ越すことになったのだ。勉強がてんでダメな星野でも入れるような転校先も無事に見つかり、これからは家から片道一時間半も掛けて通学するのだという。  伝えたいことは山のようにあるはずなのに、実際別れの間際になると意外なほど何を伝えて良いのか、数が多過ぎて分からなくなったし、ひとつ伝えるたびに寂しくなって来て、話題を少し変えた。 「星野、いつになったらスマホ買うんだよ」 「ま、漫画家になって、担当がついたら考える。へへへ」 「じゃあ、早く買えるといいな」 「う、うん」  吐く息が白く、空に向かって昇って行く。  スケッチブックを投げられ、坂崎に背中をドロップキックされたあの日からずっと、星野はちっとも変わらなかった。どれだけイジメられても、どれだけ馬鹿にされても、星野は絵を描き続け、誰かを傷付けることはしなかった。  一体それがどれだけ凄いことなのか、今なら少しは分かる気がした。  ノボルは短期記憶障害と頭を縫うほどの怪我をしたけれど、二週間ほどで無事に退院し、今ではすっかり大好きなサッカーにのめり込んでいる。  坂崎は逮捕されたものの保護観察という処分だけで済み、現場へ戻ると親方や周りから「良くやった」と褒められたのだと自慢していた。冬から大きな現場に泊まりがけで出向いている為、こっちにはしばらく帰って来れないと言っていた。中学二年以来グレにグレていた坂崎も、今となってはすっかり大人の一員となって働いている。  ハクトンこと山瀬はノボルへの殺人未遂の容疑で逮捕され、その悪質性と数々の余罪で少年院に送られることになった。なぜ星野ではなく弟のノボルを攻撃したのかと言えば、海外マフィアの映画を観て真似たらしいと広井から聞かされた。どこまで行っても人の真似しか出来ない奴なんだと思うと、ハクトンがとても憐れに思えて仕方なかった。  白い息が空に消えると、聞き馴染みのある声がすぐ背後から聞こえて来た。 「間に合ったー! 星野君、今までありがとう」  息を切らしながらやって来た野原さんは、星野に一冊の本を手渡した。それは漫画や小説じゃなく、どうやらフォトブックのようだった。 「あ、ありがとう。あ、これ、写真?」 「うん、三人で海に行った時の。離れても寂しくならないようにね」 「う、嬉しい! これで、いつでも、みんなに会える」 「今年もまた三人で行こうよ。今から楽しみにしてるから」 「わ、わかった。そ、それなら全然、僕は寂しくないや」 「約束ね」 「う、うん! 約束!」  雨の中、僕らは駅に向かって歩き出す。雪に変わるかもしれないと予報で言われていたから、今日はさすがに傘を持って来た。時折互いの傘の先がぶつかりながら、僕らは肩を寄せ合うようにして駅へと向かう。  ホームで別れの握手をすると電車がやって来て、最後までへらへらと笑いながら手を振っていた星野は電車へ乗り込んだ。  僕らが乗る電車とは反対方向に出発する電車を見送ると、急に寂しくてたまらない気持ちになった。 「星野君、転校先で上手くやれるといいね」 「離れてても僕らがいるから、きっと大丈夫だよ」 「じゃあ、絶対に大丈夫だね」 「うん。野原さん、今度海に行く時さ……もしよかったら」  そう語り掛けたけど、隣にはもう野原さんの姿はなかった。いつの間にかホームの自動販売機の前へ移動していて、しっかり自分の分だけのホットコーヒーを買って頬に当てている。この人も全然変わらないなぁと思うと、寂しかった気分が少しだけ紛れた。  電車が消えた後のホームに落ちる雨はようやく雪に変わり、家に帰る頃には辺り一面は薄らとした白に染められていた。夜が過ぎると街は白い景色に変わっていて、窓を開けると世界が一時停止したみたいに思えた。  今年も止まない雨に慣れる季節がやって来た。去年と同じように学校の昇降口で、傘が嫌いな僕は雨が止むのを待っている。去年と違うのは少しだけ高くなった視界と、こんな時に隣に星野がいないってことだ。それだけなのに、ひどく独りぼっちになった気分になって来る。坂崎とも、もっと色んなことをちゃんと話せたら良かった。だったら、もしかしたらあいつもまだここに居たかもしれないのに。  湿ったグラウンドに人の気配はなく、陰った夕方が紫を引き連れて、もうすぐ夜に変わろうとしている。長雨のせいで運動部が揃って休んでいるから校庭の照明もついていなくて、夕方と夜の隙間は灯りのある暗闇よりもずっと深く暗く感じてしまう。雨が降り止む様子もないまま、僕は誰かが置き忘れた傘を盗もうと手を伸ばして、止める。溜息を吐いて、深く息を吸い込むと六月の匂いがした。鼻だけでゆっくりと息を吐きながら、そうやってぼんやりと去年の今頃を思い出していた。  去年と少し違うことが、もう一つだけあった。  星野が言っていたように、今の僕は小説を書き始めている。プロットもまだ上手く固まってなくて、話も漠然としたままだけれど、想像の世界を形にする為にあれこれ考える時間はとても楽しいんだということを、最近になって知ることが出来た。  そう思うと、星野は僕よりもずっと先輩なんだということを思い知らされる。  雨を眺めていると、新設した演劇部の指導を終えた野原さんから「まだ学校にいるなら昇降口で待ってなさい」という命令口調の連絡が入った。「はい」とだけ返事をして待っていると、今は違うクラスの野原さんがはしゃいだ声を上げながら雑誌を持って走って来た。 「いたいた! 大変大変、すっごく大変なことが起きたんだよ!」 「何がどうしたのか、まずは言ってくれよ」 「言わなくても見れば分かる。ほら!」  目の前で開かれた少年漫画誌の新人発表ページを見て、僕は自分でも驚くくらい変な声を出してしまった。 「う、えー!」 「でしょ! だから言ったでしょ!」  佳作賞に載っていた絵のタッチにはとても見覚えがあり、ペンネームの「星野でん」という名前を見た瞬間に、僕は自分のことでもないのに思わず「やったー!」と叫んでしまった。佳作賞ではあったけれど、これは星野の夢が大きく一歩前進した証に違いない。 「念願のスマホ、買うって。連載とかはまだみたいだけど、担当さんと連絡取り合うみたい。あー! 悔しいなぁ、先にやられた!」 「凄いなぁ、星野も本当の漫画家先生になるのかな。やっぱり家電から連絡来たの?」 「それがね、違うの。なんと手紙だったの」 「手紙……古風で良いんじゃないかな」  星野はここにはいないけれど、僕らは降り続く雨の中でこの出来事を喜び合った。  この一年の間に色んなことがあったし、色んなことが変わって行った。その中でも、ずっと変われないと思っていた僕は自分でもずいぶん変わったなぁと感じている。  街に優しく降り続ける雨の向こう側に、すぐにでもこの喜びを伝えたい友達が今の僕にはいる。たまに顔を合わせて近況報告をする、一足先に大人になった友達だっている。夢を先に越されたことを悔しがりながらも、心から喜ぶ友達も隣にいる。決してありふれてはいないけれど、この世界にだって優しさはあるんだと、今は胸を張って言える自分がここにいる。  僕と野原さんは昇降口を駆け出して、雨に濡れながら駅へ向かって全力で走る。笑いながら、息を切らしながら、誰かの喜びが嬉しくてたまらなくなって、水溜りを跳ねながら夜を切って走って行く。  もうすぐやって来る新しい夏を思い描いて、僕は楽しさで胸を高鳴らせながらホームに辿り着いた電車へ雨を払いながら乗り込んだ。
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