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「それではよろしいでしょうか? こちらにサインをお願いいたします」
これは夢だ、と彼女は思う。
ガラス張りの床と、眼下に広がる街並み。
契約内容の書かれた羊皮紙。
パジャマ姿で、身体が半分は沈もうかというふかふかのソファに腰かけた自分。
何もかもがちぐはぐで、何もかもがありえない。
そして、サインを促し、両手で恭しく羽ペンを差し出すにこやかな男。
何もかもがちぐはぐで、何もかもがありえない。その中でもひときわ異質なのがこの男だ。
これ以上ないくらい完璧な笑顔なのに、まるで笑っていない、絶妙な表情。
羽ペンを差し出す両手の爪は長く尖っていて、赤と黒と金の三色でネイルアートが施されている。
真っ白なスーツに真っ白なシャツ。
それから、真っ黒な羽と尻尾。
「どうされますか? ご不明な点があれば改めてご説明いたします」
お客様次第です、と男が続ける。
ひとつ言葉が途切れる度に、例のにこやかな笑みを作り直すのが、なおさら不気味だ。
せっかくの数少ない心穏やかな時間が、眠っている時間だというのに、こんな夢を見せられるなんて。
「私、本当にネガティブですけど大丈夫です? クレームとか、受け付けませんから」
異様な男にひるむより、怒りと虚無感に軍配が上がり、彼女はぶっきらぼうに口をとがらせる。
「もちろんでございます。お客様の、薄氷のように繊細かつアングリーなガラスのメンタルこそがまさに最適。お客様の……借主のお客様でございますが、ご要望にまさしく、この上なくぴったりでございまして」
男が懇切丁寧に対応し、どうにか成約させようとしている契約は、会話のとおり。
すなわち彼女のメンタルを、一定期間、赤の他人に貸し出したいというものだった。
「期限は一週間。貸してる間は、フラット? になるんでしたっけ?」
「ええ、貸主のお客様はフラットな状態となります」
男は両手の指を曲げ伸ばし、とがったネイルをかき鳴らした。
とてもフラットな状態を表現しているとは思えない仕草に、彼女は眉を吊り上げる。
「お客様は現在、大変ネガティブかつアングリーでいらっしゃいますよね?」
露骨に不信感を前にだした彼女の表情をものともせず、男が非常に斬新かつ直球の質問をぶつけてくる。
彼女はいよいよ爆発寸前の気持ちで、男を睨みつけた。
「朝寝坊した、出かける準備が面倒、交通機関の遅延、おかしな夢を見た……おや、これは私共のことでございますね、ありがとうございます。ともかく数え上げればまさしくキリがない、お客様の」
男はどこから取り出したのか、やたらと分厚い一覧表らしきものを次々とめくっていく。
めくった羊皮紙は次々と宙を舞い、ガラス張りの床に落ちると同時に大粒の雨となって眼下の街並みへ吸い込まれる。
広がる街並みは、とたんに大雨に見舞われた。
「感情の起伏を促すスイッチが、すべて反応を示さなくなります」
さん、と余韻を残して雨がぴたりと止む。
突然の静けさに目を丸くした彼女を満足げにしげしげと眺め、男は、お客様にとっても大変悪くないお話かと存じますと続けた。
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