1話

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「おつかれっしたー」 「おつかれー」  練習着から制服に着替えて部室を後にする二年生を見送る。一年生はまだ部室の掃除が残っている。三年生が引退しても下っ端であることに変わりはない。早く後輩ができないかと考えながら、俺は床を掃くふりをしてみせた。 「今日はどこ行く?」  同じクラスの太一。俺をサッカー部に誘ったヤツだ。  入学して間もなく、一緒にサッカー部の見学に行かないかと声をかけられた。サッカー部に入るとモテるから、と。なぜ俺に? と思ったが何てことはない。古市界人と本堂太一。出席番号の関係で席が前後に並んでいたというだけだ。  モテることを想像したら悪い気はしなかったし、何かしら部活には入りたかったから割と迷わず入部届を出した。 「昨日はハンバーガーだったから、今日はファミレスにする?」 「そうするか。界人も行くだろ」 「うん」  いつものメンバーで勝手に話が進む。その流れで当たり前に誘われるから、今日も断りそびれてしまった。  みんな元気だなと感心する。部活が終わるとクタクタで、早く家に帰ってゆっくりしたいと思う自分が体力不足なだけなのか。そんな疑問を抱えながら帰り支度をする。練習着をカバンに入れようとして、しまったと思った。 「忘れ物した。教室行ってくる」 「明日じゃダメなのか?」 「うん、ちょっと」 「じゃあ門のところで待ってるわ」  明日提出する課題の問題集を忘れたようだ。まだひとつも手をつけていない。今夜は何時に寝られるだろうか。  校門に向かうみんなとは逆方向に進んで校舎に戻る。部活は18時半まで。この時間の校内は、しんと静まり返っている。1月半ば、ただでさえ肌を刺すような寒さが、静けさでより増すような気がした。  こんな寒い中みんなを待たせているから早く戻らないといけないのだけれど。気が進まない。毎日のように寄り道をしている。みんな部活のない日曜日だけバイトをして、稼いだバイト代を1ヶ月ですべて使っているらしい。俺は週末にそんな気力なんて残っていないからバイトはしていない。貴重な小遣いを部活仲間との付き合いだけで使い果たしてしまう。金も時間も、割に合わない。 「あー、行きたくねぇ」  どうせ誰もいないと思った。言えない本音も、独り言ならいいと思った。でも、教室の明かりがついている時点で気づくべきだったんだ。  独り言にしてはけっこうな声量でしゃべりながら教室の扉を開けると、窓際から3列目、後ろから2番目の席に座っている生徒がいた。 「吉野さん?」 「古市くん。どうしたの」  同じクラスの吉野千紗だった。机に広げた問題集やらノートやらを片づけている。 「俺は忘れ物しちゃって。吉野さんこそ、こんな時間までどうしたの」  千紗とはほとんど話す機会はなく、1対1で向き合うなんて初めてだ。  と言うより、千紗が誰かと話しているのを見たことがない。休み時間はいつも本を読んでいる。彼女のことを友達がいない根暗な人だと陰口を言う人もいる。  俺自身は悪いイメージはないけれど、こんな静かな場で2人になると少し身構えてしまう。さっきの独り言は聞かれていないだろうか。ごまかすように何か話さなければと焦るばかりでぎこちなくなる。  肩より少し長い、ツヤツヤしたまっすぐの黒髪に教室の照明がきれいに反射している。眼鏡の奥の瞳は大きく、ややくっきりの奥二重。背筋がピンと伸びたきれいな姿勢。ちらりと見えたカバンの中はきちんと整理されている。 「いつもこんな遅くまで残って勉強?」 「いつもじゃないの。ただ、水曜日は塾が8時からだから。塾の時間までここで勉強してる」  よかった。案外普通に話せる。千紗の声はやや高めだけれどかん高い感じではなく、落ち着いたトーンだ。 「図書館に行けばいいのに。ここじゃ寒くない?」  帰りのホームルームが終わると空調は切られてしまう。膝にブランケットをかけているが、それでも放課後の教室は芯から冷える。千紗の手は少し赤くなっているようにも見える。 「ちょっと寒いかな。でも教室の方が集中できるの。図書館は静かすぎて落ち着かない」  千紗は定期テストでいつもクラスで上位3人に名前が上がるし、学年でも10位以内に入っている。直近の2学期末テストではクラスで1位だったはず。まぎれもない秀才だ。  そんな優等生の考えることは、凡人の俺には理解できないようだ。静かな図書館の方が集中できると思うのが普通じゃないか。だが彼女はそうではないらしい。 「ここで勉強しているとね、運動部や下校する人たちの声が聞こえてくるの。ほら、宿題は自分の部屋よりリビングでやった方がいいって言うでしょ。それと同じかな」 「ふ、ふーん。そうなんだ」 「ごめんなさい、私なんか変なこと言ってるよね」 「そんな。変ってことは、ない……かな?」  正直少し変わっているとは思ったけれど、仲のいい子ならともかく、初めて話す女子にそんなことは言えない。 「私そろそろ行かなきゃ。電車の時間に遅れちゃう」 「ごめん、引き止めちゃったね。俺も太一たち待たせてるから行かないと」 「行きたくないのに?」  間髪入れず淡々と放たれたその言葉に、冷や汗が出る。 「やっぱり、聞こえてた?」 「うん。相当嫌なんだなって思ったよ」  そんなに感情を込めたつもりはなかったのだが、伝わってしまうほどだったようだ。 「いや、あれは……」 「行きたくないのにどうして行くの」  あまりにも純粋な質問に言葉につまる。その質問はもっともだ。もっともなんだけれど。 「付き合いってあるんだよ。同じ部活だしさ。断ると空気がおかしくなるっていうか」 「そうなんだ。大変なんだね」  なんだろう、本人にはまったくそのつもりがないのに嫌味っぽく聞こえるというか、棘がある。理解はするけど納得はしていない感じ。しょせんは住む世界がちがうということなんだろう。だから俺も無意識に端折って説明したのかもしれない。 「じゃあ、俺行くね」 「うん」  そっけない挨拶で教室を後にする。  彼女もじきに塾へ向かうだろう。時間は大丈夫だろうか、風邪をひかないだろうか。千紗の赤くなった手を思い出し、そんな心配をしながら太一たちのところへ向かう。 「界人、おせーよ。忘れ物見つからなかったのか」 「ごめん。ちょっと探しちゃって」 「行こ。早く暖まりてー」  なぜか嘘をついてしまった。千紗と話していたと言った方が待たせた罪は軽くなるはずなのに。  けれどそんな疑問も、今からファミレスに行く億劫さでどうでもよくなった。 「俺はハンバーグの気分かな。界人は?」 「ドリア」 「お前いつもそれだな」 「好きなんだよ」  安くて量が多い、いちばんコスパのいいメニューを選んでいるだけだ。  羽振りのいいヤツはバイト代が出たばかりなのだとすぐ分かる。だんだん安いメニューになっていって、しまいには金がないからドリンクバーだけとなる。それでも寄り道はやめない。そんなに毎日、何を話すことがあるんだろう。  胸が大きい女子の先輩の話、教師のモノマネ、課題をやっていない自慢。退屈であくびを我慢するため歯を食いしばる。せめて部活の今後の話でもしてろよ。 「界人はどう思う?」 「え?」 「聞いてなかったのかよ。だから、数学の安井と英語の中川、どっちが先に結婚するかって話。今のところ中川が2票で勝ってるんだけど」 「安井先生は彼氏いるよ」 「え、なんで知ってるんだよ」  スプーンやフォークを持つ手を止めて一斉に食いつく。こういう話が大好きなのは知っている。 「3学期始まったら指輪してた。クリスマスにもらったんだと思う」 「えー。じゃあ結婚すんのかな」 「さあ、それは知らんけど」  右手にしていたから婚約指輪ではない。けれどこれ以上この話を広げる気もない。  だいいち、左手の薬指に指輪をしていたら誰かしらが気づいて大騒ぎになっているだろう。そうなっていないのだから、そういうことだ。 「界人ってさぁ、もう玲奈ちゃんとヤッてんの?」 「は?」 「それは俺も聞きたい」 「どうなんだよ」  数学の安井の話よりさらに下衆な表情で全員の視線が集まる。たしかに玲奈とは付き合って半年経つし、とっくにセックスもしているけど。そんな下世話なことストレートに聞くなよ。イライラを表情に出さないよう必死だ。 「そんなこと言うわけねーだろ」 「まあ、とっくにしてるよな。童貞でもあるまいし」 「界人って玲奈ちゃんが初めての彼女じゃねーの」 「彼女は玲奈ちゃんが初めてだけど、初体験はちがうんだなぁ」  言うつもりがなくても、太一が全部話してしまう。すべて知られているのだからしかたがない。  初めては高校に入学してすぐ。太一の家に遊びに行ったら、太一のお姉さんの友達がたまたま来ていた。トイレに行ったときにこっそり連絡先を渡された。それを太一に話したら連絡してみろと言われ、二人で会ってそんな流れになった。  でも付き合おうと言われたわけじゃないし、それ以来会ってもいない。  今思えば太一はおもしろがっていただけなんだ。別に初めてを大事にしたいとか思っていたわけではないけれど、すべてを太一に握られているのはいい気がしない。 「界人は姉ちゃんの友達に食われちゃったんだよな」 「さすが界人くんは大人の世界を知っていますな」  怒りを鎮めようと水を一気飲みしたがおさまらない。 「トイレ行ってくる」  尿意はまったくない。ただあの場から一時的にでも離れたかっただけだ。鏡で表情を確認する。深呼吸を3回。逆ハの字になった眉がゆるむのを待って席に戻った。 「明日カラオケ行こうって話してたんだ。界人も行くだろ」  昨日はハンバーガー、今日ファミレスに来て明日はカラオケ。ドリアとカラオケでは金額がちがいすぎる。 「金曜日の英語当たるんだよ。そこだけ予習したいから明日はやめとく」 「そんなの分かりませーんって言っときゃいいのに。界人はまじめだな」  そういう態度が内申に表れると、1学期、2学期と過ごしてきて学ばなかったのか。自分は自分、他人は他人。説教する気もないが。  適当にだべって解散。次の小遣い日まで10日もある。断れない自分の弱さに情けなくなりながら帰路につく。  やっぱり家は落ち着くけど、ひと息つく暇もなくすぐに風呂に入って寝ないと、明日も朝は早い。ああ、課題が残っていたんだった。
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