第九章 標的

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第九章 標的

 月曜日。  四人で食卓を囲み朝食を食べる場面をスマホのタイマー機能で撮影し、画像を送信してもらった。手前に大智君のご両親、奥に大智君と私という構図だから、誰が主役か分かりづらいけど、これはこれでいいのかもしれない。  だいじなのはみんなが幸せかどうか。それ以外のことは基本的にどうでもいい。  大智君は月曜から金曜まで大学に行くけど、月曜と金曜だけは講義が午前中のみ。だからその曜日だけは午後から五時間スーパーのバイトを入れている。  私は朝からスーパーでバイト。朝、事務所に行き、今週木曜日まででバイトを辞めたいと申し出た。事務員に呼ばれ、店長の橋本凛が飛んできた。  「詩音さん、急にバイト辞めたいってどういうこと? 職場に何か不満でもあるの?」  不満があるかと聞かれてしまった。むしろ、なんで不満がないことが前提になってるのか問いただしたい。面倒だからやめときますけどね。  「実は婚約者がいたんですけど、急に彼の実家に住むことが決まって、これからは外で働かないで彼を支えることに専念することになったんです」  「つまり結婚して専業主婦になるということ?」  「入籍はまだですけど、近いうちには」  「詩音さん、おめでとう! クールビューティーな詩音さんをゲットした彼はさぞや優秀なビジネスマンかなんかなんでしょうね」  「まあ、そんなとこです」  好きでもない相手との受け答えにいい加減飽きてきて、回答も適当になった。そのせいであとで大変なことになるとは、そのときは思いもしなかった。  午後になって大智君も売り場に現れた。そういえば大智君はバイトをどうするんだろう? 試験を受けない私がバイトを辞めて、試験を受ける大智君がバイトを続けるのも変な話だ。  それにしても、セックスした相手が同じ職場にいるというのはなんだかシュールだ。世界中の職場恋愛してる人たちは気にならないのだろうか? 私には無理だ。  どうしてもチラチラと大智君を見てしまう。彼が成長したのか、それとも好きになったせいで美化されて見えるだけなのか、ほとんど失敗がない。客とのやり取りも完璧だ。  童貞でなくなって自分に自信を持てるようになったからだろうか? もしそうなら私もちょっとは役に立てたということだから鼻が高い。私とセックスしたおかげだよって、みんなに言いふらすことができないのが残念だ。  大智君も私も勤務は夕方六時まで。沙羅さんも誘ってどこかで食事して、婚約と同棲の報告をしたいな。もちろん私たちのおごりで。  勤務中ずっとお花畑にいる気分だった。当然失敗も多い。これから始まる大智君との同棲生活を思い浮かべては、だらしなく笑みがこぼれた。店長にクールビューティーと形容されたけど、〈クール〉も〈ビューティー〉も私の中のどこにもなかった。  そんな状態でもなんとか勤務を終えて、休憩室で自販機のコーヒーを飲んでいると、沙羅さんが入ってきた。なぜか顔がすごく怒っている。また莉子ちゃんとケンカでもしたのだろうか? いや沙羅さんのことだから、とうとう店長とやり合ったのかもしれない。  「話があるんだけどさ」  「私も沙羅さんに話があるんだ」  「それならさっき売り場でみんなが話してるのを聞いた。婚約者の実家に住むことになって、仕事も辞めるんだって?」  「う、うん。沙羅さんにも今まで本当にお世話になって……」  いきなり靴底で腹を蹴られて、尻もちをついた。今まで誰かに平手打ちやグーで殴られたことさえないのに、本気で腹を蹴られた。私は呆然と仁王立ちする沙羅さんを見上げるしかなかった。  「舐めてるの?」  「え?」  「婚約者がいるなら、なんで三日前、大智君とつきあうって言ったわけ? あたしはいいけどさ、どれだけ大智君を傷つけることしたか分かってないの?」  沙羅さんの怒鳴り声が響き渡り、何事かと従業員がわらわらと休憩室に集まってきた。高校の授業が終わってからの勤務の莉子ちゃんの顔も見える。  「あんたさ、身のほど知らずにもほどがあるんじゃないの? 七年前に当時の男にひどい目に遭わされて、大学も辞めたんだっけ? 高校中退のあたしがいうのもなんだけど、大学中退って要は高卒じゃん? それから七年間アルバイトして食いつないできただけで、それってただ時間を無駄にしただけだよね? 今、二十七歳? 学歴もなければまともな職歴もない。今まで結婚してくれる相手もいなかったあんたが、国立大学の学生でまだ二十二歳の大智君より偉いと思ってるわけ?」  「思ってない……」  「じゃあ、なんでこんなひどいことできるの? 昨日はあんた休みだったけど、恋愛はうまく言ってる? って大智君に聞いたら顔を赤くしてうれしそうにニコニコしてた。あんたなんてクズだ! 頭空っぽの馬鹿女子高生の莉子以下のクズだ! あたしはもう大智君に合わせる顔がない!」  「なんで関係ないあたしがディスられてるの?」  莉子ちゃんの嘆きはもっともだけど、今はあなたを助ける余裕なんてない。  沙羅さんの回し蹴りが飛んできて、私の顔面を直撃した。鼻血がつうっと滴り落ちていく。蹴り慣れてるなと思った。いつか莉子ちゃんが、沙羅さんって元ヤンだったみたいですよとヒソヒソ話してたことがあったけど、本当かもしれないなと思った。  でも、七年前、こんなふうに私を本気で怒ってくれる人がいたら、手遅れになる前に目を覚ますことができたかもしれないな……。そう思うと、沙羅さんの暴力が過去の罪に対する罰のように思えて、抵抗する気持ちなど心の中にまったく生じなかった。  「婚約者は年収何千万のエリートビジネスマン? 見栄張ってんじゃねえよ! そんなすごい男があんたみたいな年増の底辺女を選ぶわけねえだろ? ほんとは全然稼ぎのない男なんだろ? 正直に言ってみろよ!」  年収何千万というのはどこから湧いた話なんだろう? 噂って怖いなと改めて思った。  「ほんとはまだ学生でアルバイトしかしてません」  「やっぱりね。この見栄っ張りの嘘つきが!」  沙羅さんはそばにあったパイプ椅子の脚の部分を持って思いきり振り上げた。あれを私の上に振り下ろしたら頭が割れるかもしれない。いや、本気で頭を割る気だったようで、  「死ね!」  と叫んで丸椅子を振り下ろした。狭い休憩室に十人くらい集まっていたけど、みな沙羅さんの気迫に圧倒されて誰も助けに入らない。私は目を閉じて衝撃に備えることしかできなかった――  でもいつまでたっても衝撃は来なかった。  「放せよ!」  「放しません」  頭上で言い合いが始まった。目を開けると、丸椅子は私の頭の真上に浮かんで静止していた。丸椅子の座面の方を両手でがっしりつかんでいたのは大智君だった。  「こいつ、あんたの心を弄んでたんだぜ! 実は婚約者がいたんだってよ! どんな男か知らねえけどさ!」  「僕、詩音さんの婚約者が誰か知ってますよ」  「どういうこと? で、誰なんだよ、そのふざけた男は!」  「僕ですけど、それが何か?」
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