第九章 標的

2/3
65人が本棚に入れています
本棚に追加
/65ページ
 休憩室で大暴れした件で、沙羅さんは始末書を書かされた。私は病院に行くように店長に言われたけど、お腹と顔を蹴られて鼻血を出しただけで、頭を打ったわけではないので大丈夫ですと断った。  沙羅さんのご主人がマスターを務めるバーにまた来た。ちなみにお店の名前は〈こもれび〉。まだ鼻血は完全には止まってないけど、確かに店名のように優しい気持ちになれるから、ここに来たのは正解だと思えた。  大智君を真ん中にして、沙羅さんと三人でカウンターに並んで座る。  今夜も、というか私たちはこれからいつ来ても飲食代は全部沙羅さんのおごりでいいと言われた。私に暴力を振るったおわびの気持ちということだった。今日だけは私たちの婚約祝いということでおごってもらうけど、次からはもちろんお金を払うつもりだ。  沙羅さんにはさんざん謝られた。タクシーでここに来る途中、スポーツ用品店の前を通りかかったときは、金属バット買ってくるから好きなだけ殴ってくれとまで言われた。  「本当にごめん。恥ずかしいこと話すけどさ、あたし高校の頃、違法じゃないけど取り締まりの対象にはなってるようなヤバいドラッグにはまっててさ、それは雅博さんのおかげでなんとかやめることができた。でもそのときの後遺症か分からないけど、ときどき自分の感情をコントロールできなくなることがあるんだ」  さらっと言ってるけど、さらっと言う内容でもない気がするんですけど……  雅博さんとはお店のマスター、つまり沙羅さんのご主人のこと。沙羅さんが二十歳も年上のバツイチで子どももいる男性と結婚した理由の一端が見えたような気がした。  「沙羅さん、私はね、今日沙羅さんに痛い目に遭わされて本当によかったと思ってるよ」  「どういうこと?」  「大智君と私じゃ全然釣り合ってないってのは私自身が一番よく分かってるんだ。私、初めて大智君に抱かれたあと泣いたんだよ。捨てられるのが怖いって言って。でもだんだんそういう気持ちを忘れて、大智君に不満を持ったりケンカしたりするようになるかもしれない。そういうときは今日沙羅さんに蹴られた痛みを思い出すことにするよ。あんたなんて、〈身のほど知らずにもほどがある〉〈年増の底辺女〉でしかないんだ。調子に乗るな。大智君だけを信じて、大智君だけを愛し抜くんだって、鏡の中の自分に言い聞かせるよ」  「暴力ばかりでなく失礼なこともたくさん言って本当にごめん。知らなかったんだ。三日前にあたしが二人を結びつける前から、もう二人がつきあってて婚約までしてたなんて。それならそうと言ってくれればよかったのに」  「なんのこと? 私たちは、つきあいなよって沙羅さんに言われてからつきあいだしたんだけど」  「婚約して大智君の実家に同居が決まる、なんて流れがたった三日でとんとん拍子に進むものなの? 大智君の両親も認めてるってことだよね」  「夜に外出する大智君を心配して、大智君の両親が車であとをつけて私のうちまで来てね。あとで私にだけ謝られた」  「謝る? 何を?」  「大智君が悪い人に呼び出されてまたいじめられてるんじゃないかって心配して、私の部屋の窓を開けて、見ちゃったんだって」  「なるほど。それで二人がずっと前からつきあってるんだって大智君の両親は思い込んだわけか」  「だから昨日の朝、大智君は両親のいる前で私にプロポーズしたけど、両親は一言も口を挟まなかった。私は自分が若くも清楚でもないことを話したけど、同居はお母さんから提案された。お母さんは入籍してもいいとまで言ってくれた」  「つきあって三日で婚約とかありえないって思ったけど、そう言われてみると違和感ないな」  沙羅さんは納得してくれたけど、代わりに大智君が怪訝な顔をしている。  「話は戻るけど、僕の両親は詩音さんの部屋で何を見たんですか?」  そこか? どうも大智君は空気や行間を読むのが苦手なようだ。かつてひどくいじめられていたそうだけど、そういうこともいじめの原因になったのかもしれない。  もちろん、そんなことが誰かをいじめていい理由にならないのは当然だけど、何しろ子どもというのは残酷な生き物だ。  都合のいい標的を見つけてみんなでいじめることで、一人一人のストレス解消と集団の結束を同時に実現することができる。  そのときハッと気づいた。そのいじめの説明の語句を二つ入れ替えただけで、それはかつての私が十二人の男たちにされたことと同じになることに。  都合のいい標的を見つけてみんなで〈セックスする〉ことで、一人一人の〈性欲〉解消と集団の結束を同時に実現することができる。  かつて大智君も私も、悪意にまみれた集団の中の惨めな犠牲者だった。現在は平和に暮らせているといっても、大智君は自殺未遂するまでに追い込まれ、私は大学を退学し遠く離れた街に逃げ出さざるをえなかった。  私は今でもときどき当時を思い出しては、心が張り裂けそうになる。大智君、君は過酷な過去を乗り越えられたの? それとも私のように、今も消せない過去に囚われて生きているの?  「詩音さん」  大智君に呼びかけられて現実に引き戻された。  「僕は男だからいいけど、僕の不注意で詩音さんの裸をうちの両親に見られることになってすいません」  君の両親が私の部屋で何を見たのか、の答えは沙羅さんに教えてもらったらしい。いちいち顔を真っ赤にしてそれを言うところが、純情な大智君らしくてまたさらに好きになった。  「私たちの交際を認めてもらえたのはそれを見られたおかげ、というのもあるかもしれないから、もうそのことはいいよ。気にもしてない。でも、男だから見られてもいい、とは言ってほしくないな。大智君だって自分の裸を私以外の人に見られたらダメなんだからね!」  もちろんだよと即答されると思ったのに、大智君はうつむいて黙りこくってしまった。  「ごめん。僕は自分の裸をたぶん百人以上の人に見られてる」  「まさか。だって君の初体験の相手は私じゃん!」  「小学生の頃から面白半分に裸にされるようになって、中学生になるとみんなの前でオナニーまでさせられるようになった。女子を大勢連れてきて、その中でやれって強制されることもあった……」  「それは大智君が悪いんじゃないじゃん!」  君は私と同じで過酷で惨めな過去からまだ全然抜け出せていなかった。私が大智君の話を遮ったのはそれを沙羅さんには聞かせたくなかったから。君の悲しみや苦しみを分かち合うのは恋人である私だけの使命だと信じているからだ。  「私は自分が経験した惨めな過去をほとんど君に打ち明けていない。話さなきゃって思うけど、まだそうする勇気が出ないんだ。だから君のつらかった過去を全部話してほしいとは私からは言えない。だけど君がそれを話すことで少しでも傷が癒やされるなら、何時間かかっても心を傾けて私は聞くよ」  子どものように泣き出した大智君を抱きしめる。私と同じように、君はもう一人じゃない。気が遠くなるほどの分厚い氷を、二人で少しずつ溶かしていくしかないんだ。
/65ページ

最初のコメントを投稿しよう!