プロローグ

1/1
65人が本棚に入れています
本棚に追加
/65ページ

プロローグ

 逃げずに戦う方がカッコいいのは分かる。でもカッコよくたってそれで死んだら何の意味もないと思う。  だから私は逃げることにした。私にセックスしか求めない男のいない場所に。仲間同士で私をシェアしようとする男たちのいない場所に。私がヤリ部屋でヤラれるだけの女だった過去を誰も知らない場所に。  私がこの街を選んだのは今まで住んでいた街から遠く離れてる上に、空港もないし新幹線の駅もなくて、知り合いに会う確率が低そうだったから。すっかり人間嫌いになっていて人間だらけの大都市にはもう住みたくなかった。かといってあんまり小さな街では働き口が見つからないかもしれない。働き口に困らない程度に小さくない街である必要もあった。  働くといってもそんなにたくさんの給料は必要ない。もう男なんてこりごりだから一生独身でいると決めた。自分一人がその日その日を暮らしていければそれでいい。  でもこの街に住むと決めた一番の理由はおいしいカフェを見つけたから。この街に引っ越す前、ネットで調べて私が好きになれそうなカフェをいくつかピックアップして、その全部のお店を回ってみた。北は仙台、南は広島まで足を伸ばした。それぞれ料理がおいしくてお店の雰囲気もよかったけど、静岡県東部の中核都市であるこの街の街なかにあった小さなそのお店のガレットに一目惚れしてしまい、私はこの街に住むとそれだけで決めてしまった。  人口約二十万。漁港があり、そこで食べられる魚料理目当ての観光客も多い。近年は女子高生アイドルたちが活躍するアニメの舞台となったことで聖地巡礼の訪問者も少なくないそうだ。でも、もう会いたくないと私の頭に思い浮かぶ男たちの中に、魚料理目当てに他県まで遠征する人とか、アニメ好きなオタク系の人は一人もいなかった。だからきっと大丈夫だろう。  もし見つかったらまた逃げだせばいい。いつでも逃げだせるように、スーツケース一つ分だけの少ない荷物しか持ってこなかった。  名作『レ・ミゼラブル』に出てくる逃亡者ジャン・バルジャンの気分だった。私は別に何かを盗んで誰かに追われてるわけではないのだけれど。どちらかといえば私は奪われてきた方だ。この街に来たのはもう誰にも私自身を奪わせないためだった。  「おれは姫を独り占めできるほどの男じゃないですから」  彼らに〈姫〉と呼ばれた私はそんな言葉に乗せられて、気がつけば十二人の男の所有物となっていた。どの男も私をちやほやしてくれた。でもそれは愛ではなかった。私はたくさんの愛のようなものに囲まれて、結局たった一つの真実の愛を見つけることができなかった。  もう愛などいらない。あの街を出てから私は誰一人愛したことがない。セックスは今でもときどきしたくなる。でも私があの街に住めなくなったのはセックスのせいだ。私が男たちに求めたものは愛だけだったのに、男たちが私に求めたものはセックスだけだった。  あの頃、私はほぼ毎日誰かとセックスしていた。下手な人のときは仕方ないけど、上手な人とするときはほぼ毎回性的絶頂に達することができた。私は性的絶頂の渦に飲まれ、いつしかそれ以外のすべてを見失っていた。  正直セックスは嫌いではないけど、あんな目に遭うくらいなら、もう死ぬまでセックスしなくてもいい。誰にも気づかれず誰にも求められず、静かに暮らしていければそれでいい。それ以外にはもう何も望まないと決めて、私は長かった髪もばっさり切ってスーツケース片手にこの街の駅に降り立った。  七年前の二月のとても寒い日だった。でも今まで住んでいた街とは違い、この街ではほとんど雪は降らない。誰も愛さず、誰にも愛されず生きていくと決めた私を、この街は、そしてこの街の人々は、コーヒーに溶け込むお砂糖のようにごく自然に受け入れてくれた。  それから七年。もう過去を思い出すこともなくなった。過去と同様、未来について考えることも相変わらずなかった。  過去も未来もないのに、最近私はまた髪を伸ばし始めた。どうしてそうしようと思ったのか、自分でもよく分からなくて、ときどき戸惑っている。
/65ページ

最初のコメントを投稿しよう!