あじさい

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 何でもない日なんて一日とて存在しないのかもしれない。    誰かにとっては今日は重大な意味を持つ一日なはずで、たとえば結婚を申し込むとか、世紀の発見をしたとか、あるいは、死にたいほどつらい事があったりして……。  ただ、僕にとっては昨日や一年前と同じ、どうってことない一日だ。成瀬と一緒に、大学の学食のたまり場で次の授業までの時間をつぶしていた。  6月も半ば、梅雨入りしたばかりで、雨が降っていた。 「あの紫陽花の色、おかしいと思わないか?」    成瀬が大きな窓ガラス越しに見える中庭を見ながら言った。 「あーん?」  僕はちょうど欠伸の終わり際で、変な返事になった。 「ほら、3号館の裏んとこ」 「そうか? 別に変じゃないと思うけど」 「明らかに赤いじゃないか、絶対におかしいよ」 「どこがおかしいんだよ、普通だろ」  その紫陽花の赤は窓ガラスに付着した雨粒に拡散されて、まるで油絵のように美しかった。しかし、別に「おかしい」とは思わない。 「周りの紫陽花を見てみろよ、青いだろ。なんで同じ花壇から生えているのに、あの真ん中のだけ赤いんだよ」  成瀬の言う通り確かに同じ花壇で中央部の花だけ赤かった。 「確かにそうだけど、開花した時期とか、根の状態で微妙に変わるんじゃないか」 「違うな。あの場所に原因があるんだよ」  成瀬は黒目がちな瞳を光らせて自信ありげに言う。僕はカラスのイメージを浮かべた。 「ああ、分かった。誰かが肥料を蒔いて、局所的に土壌の性質が変わったんだよ」  たしか、紫陽花は植えられた土壌のphでその色を変えるはずだ。小学生の時だったか中学生の時だったかは忘れたが、リトマス試験紙と逆の反応色だってことを教わった記憶がある。僕は成瀬が推理を披露する前に、自分の意見をぶつけてやった。十中八九同じ考えだろう。  しかし、成瀬は「ふん」と鼻で笑うと、 「飛び降り自殺の話は覚えてるか?」と訊ねてきた。  僕は少し苛っとした。 「飛び降り自殺ってこの大学の七不思議とか言われてるあれか?」 「そうそう、サークルの新歓でアホな先輩が話してたやつ」  成瀬が唐突に言い出した飛び降り自殺の話とは、昔、この大学の学生カップルが夏休みに学舎屋上から飛び降りたという噂話のことだ。恋路に悩んだ末の心中だったらしい。それからというもの、夏がくると屋上から人が飛び降りる影を見る学生がいるとかいないとか、まあ、よくある怪談話だ。一つしかないのに七不思議っていうのも変な話だなと思ったことを覚えている。 「あそこだよ、あそこに落ちたんだ」  成瀬が件の紫陽花を顎で指した。相変わらず悪趣味な着眼点だ。 「気持ち悪いこと言うなよ、なんで分かるんだよ、霊感ないくせに」 「だって綺麗だろ、あの赤」 「心中すると綺麗な花が咲くのかよ、詩人だな」  桜の下には死体が埋まっている。たしか小説の一節だったか、初めて聞いたとき妙に説得力があると思った。今回は紫陽花だが、あまりにも浮世離れした美しさの花を咲かすためには、人間の命が必要とでもいうのだろうか。 「心中だって? 死んだのは一人だぞ」  成瀬はさも当然かのように言った。 「一人? 僕が聞いたのはカップルの心中だったはずだけど」 「違う違う、心中なんかじゃないよ。先輩は間違ってんだよ。飛び降りて死んだのは女子学生、一人、だけだよ」 「そうなのか? いろんなパターンがあるんだな」  僕はもう興味がなくなっていた。成瀬が突拍子もないことを言い出すのはいつものことだったし、そのいくつかには感心することもあったが、今回はこじつけだ。 「いや、真実だよ。俺はずっと探してたんだ。その現場を」  妙に真剣な雰囲気でいう成瀬が不気味だった。紫陽花から目を離さずに成瀬は続ける。 「綺麗な赤だろ、恨みの色だ」 「恨みって……。なあ、その女子学生はなんで死んだんだ?」 「学生カップルってのは本当だよ、ただ、男がダメな奴でさ、浮気したんだよ。よくある話だけど、当人にしてみれば大事件だ。女子学生は精神を病んで、男を恨んで飛び降りたんだ」 「だからさ」成瀬はにやりと笑う、 「その浮気男の方も飛び降りれるように、目印を残したんだ」  僕はゾッとした。思わず紫陽花の方を見てしまった。 「あの鮮やかな赤を見てみろよ、飛び込みたくなるだろ?」  成瀬がそう言うと同時に4限の終了を知らせるチャイムが鳴った。    僕はどうしてそんな話を成瀬が知っているのかを訊ねることができなかった。
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