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am8:10。
いつものように家を出て、車で出勤する。
いつもの月曜日、いつもの日常が始まる…そう思っていた。
しかし、職場についてすぐに異変に気づいた。
周りの同僚へ挨拶をする。誰からも返事がなかった。
聞こえなかった、とは何か違う。
意図的に返事をしない、そんな空気。
無視…とも違う。こちらを盗み見るような冷たい視線は感じるのだ。
しかし私が顔を向けるとみな目を背ける。
違和感、だったものが氷のような悪寒に変わり私の体を貫いていった。
平静を保ちつつ自分のデスクまでたどり着く。
しかし、席に着くことはできなかった。総務の者らしき人間が私の机を囲み、パソコンを運び出そうとしていた。
お金を扱う仕事の関係上、私は持ち出ししにくいデスクトップのパソコンを使っている。そのパソコンを二人がかりで抱えているのだ。
不具合が見つかったので回収すると言う。おかしな話だ。使っている私が訴えてもいないのに不具合が見つかるとは…。
とは言え、拒否できる雰囲気ではない。ただ回収される様を見守るしかなかった。
ぼんやり佇む私に、珍しく上役の次長が自ら声をかけてきた。
「今日は仕事にならないだろう。帰って休んでいいよ」
何か変だ。あきらかに何かが。
頭の中では、先ほどから警報が鳴り続けている。
警戒が顔に出たのだろう。不審な面持ちで見返す私に次長が続けた。
「いや、もちろん出勤扱いでいいから」
別にそんなことを気にしていたわけではない。しかし私は黙って頭を下げ、そのまま出口に向い、職場である市役所を後にした。
駐車場に向かい、自分の車に乗り込む。
—何かすべきか?どこかに向かうべきか?
止まったままの車の中でしばらく考える。
しかし、何もしなくていい。何事もなかったかのように振舞えばいい。そう確信する。
こうゆう時のために準備を進めてきたのだ。
落ち着こう。一度深呼吸して、車のエンジンをかけると、自宅のマンションに向かって走り始めた。
感覚が敏感になっているのだろう。後をつけてくる車にすぐに気づいた。回り道をしながら、さりげなく確認する。
白い軽自動車。車内には男と女が二人。ミラーでちらりと見ると、鋭い目つきでこちらを見返してきた。
自宅へ戻り、コーヒーを淹れる。心は高ぶっていたが、頭は落ち着いていた。
今さら特に、することはない。ただ待つだけだ。
そう、今私にできることは、ただ待つだけ。
ゆっくりとコーヒーに口をつけ、私はスマホを取り出した。
いつものSNSのページを開き、そこに映る写真を眺め始めた。
———
私がこの地方都市の市役所の職員になったのは5年前。
その前は大学を出て4年間都内のIT系の企業に勤めていた。地方出身者の私にとってはあこがれの東京での社会人生活のはずだった。しかしIT系と言っても営業色の強いその企業での仕事は思い描いてたものとは大きく違っていた。
所属こそ営業職ではなく経理だったが、会社のカラーには全く馴染むことができなかった。
何よりも数字が優先され、数字しか意味を持たない、成果でしか評価されない、そんな非情な世界に放り込まれ、自分がまるで呼吸困難で口をパクパクさせる金魚にでもなったかのような気分だった。なんとか溺れないようにしながらワンルームの住まいと会社を行き来するだけの日々を続けていた。
いつも心は悲鳴を上げていた。社会人2年目には恋人もできたが、恋愛も私を癒してはくれなかった。付き合っていた2つ上の会社の先輩。常に自信ありげな素振りの彼は魅力的だったが、仕事人間である彼の、使える人間がどうかでしか人を見ないような態度が受け入れがたく、関係は長くは続かなかった。
社会人4年目。とにかく会社を辞めたい、東京からも離れたい。これ以上いたら自分の心の悲鳴さえ聞こえなくなってしまう。そんな思いから会社を辞め、東京からも逃げるようにして、縁もゆかりもないこの地にやって来たのだった。
特に大きな期待をしていたわけではない。
ただ、残業も少なく、満員電車に乗らずに済む生活になるだけでもありがたかった。
実際仕事を始め、やっと人並に呼吸ができるようになった気がした。多くを望まず、ここで静かに暮らしていければいい、そう思っていた。
しかしある人との出会いが私を大きく変えることになる。
—ある人
それは私が所属する部署の課長、直属の上司だった。
市役所への転職直後、彼から直接仕事の指導を受けた時、人を数字ではなく、人として扱う上司に初めて出会ったように思えた。
彼と仕事をすることで、彼のやさしさに触れ、少しずつ私の心はほどけていった。
とはいえ彼は既婚者でもあり、最初は単なる上司と部下との関係だった。彼の私を見る目も、優しい上司のそれで、部下を労う目だった。彼のその視線が、いつしか特別なものを見る目、慈しむ目にかわっていることに気づいた時の気持ちは今でも忘れることができない。錯覚かもしれない、そう思いながらも、自分の心がときめくのを抑えられなかった。
道ならぬ恋なのはわかっていた。それでも、彼もそして私も自分の心を止めることができなかった。
普段は柔和な彼が、ホテルで二人だけの時に見せる熱いまなざしを受け、大きな手で体を愛撫される時、私の心と体は感じたことのない悦びに包まれていた。
私の中で世界が一変した。と言っても、同僚など私を知る者はその変化に気づかなかっただろう。そんな素振りを微塵も見せなかったから。
それでも私の中では一変していた。モノクロームで色味のない生活が、鮮やかな色彩の溢れる世界へと変わっていく、そんな夢のような時間だった。
しかしそんな時間は長く続かなかった。
交通事故。
通勤途中、高齢者の運転する車が反対車線から飛び出してきたのだ。そのまま彼の車と正面衝突し、両者ともに亡くなったのだった。
色彩に溢れた私の世界は、一気に暗転した。
さらに、悄然とした気持ちの私に追い打ちをかける事実が判明する。
彼の死の直後、上司から彼の業務の引継ぎ整理を任され、詳細を調べている時に不自然なお金の流れに気が付いたのだ。
私たちの部署での業務の一つ、確認の済んだ申請者に支給される生活保護費の入金。その入金の中に、既に死亡している人や、居住実績の無くなった人への支払いの一部が、特定の口座に振り込まれていたのだった。
横領…何度も確認したが、間違いなかった。
あの優しいまなざしを見せる彼にこんな裏の顔があったことが信じられなかった。
その一方で、彼から何度か聞いたことがある話を思い出してもいた。
彼の妻が現在ある施設に入っていること、多額の治療費が発生していることを。
—どうすればいいのだろう…
いやわかっている。もちろん違法なことで、上の者へ報告しなければいけないのはわかっている。しかし…私にとって彼と過ごした時間はあまりに特別なものだった。そして彼のしたことを私が明るみにするのは、何物にも代えがたい特別なものを、汚す行為にも思えてしまうのだった。
答えが出せずふわふわとした気持ちでいた数日後、彼の葬儀があった。
施設にいるという彼の妻は葬儀の場にもいなかった。代わりに喪主を務めていたのは大学生の息子。幼い弟と一緒に弔問者へ気丈に頭を下げていた。沈痛な面持ちのその青年の表情やしぐさに、やさしかった彼の面影がありありと見て取れた。
—あの青年が、彼に代わりこの家の一切を背負っていくのだろうか…
青年を見ながらぽつんと思った。
青年の母にあたる彼の妻、そして弟のこと、これから背負うものの大きさについて。青年のその細い肩を見ながらそれらを思うと、彼を失ったこととは別の涙がこぼれてきた。
漠然とだが、十分過酷な未来が想像される。
その上で、彼のしたことが明るみになった時、あの青年はそれらを背負いきれるのだろうか。また通常なら退職に伴い役所から支払われるお金も事件化した場合どうなるのだろう。
経済的に困窮し、社会的に抹殺されるかもしれない。彼の面影を残す青年の未来に、苦痛に歪んだ顔しか想像できなかった。あの青年には、彼のように優しい笑顔を見せてほしい…
—これは表に出してはいけない
涙の中、私はそう決心した。
正しい決断ではないのはわかっていた。ただそれ以外の道を選ぶことは私にはできなかった。そしてそのことは、彼の事故死で心の拠り所を失った私に与えられた使命のようにも思えた。
それから私の工作が始まった。
まずインターネットで架空口座を入手し、入金先を変更、そのまま横領を引き継いだ。さらに過去の入金記録も、遡れるものは全て新たな架空口座の情報に上書きし改ざんした。
一番苦心したのがバランスだ。横領が発覚した際、彼の死から時間が経過しているほど、横領と彼との関連は薄れていく確率が高い。そのためには発覚するにしてもなるべく先であることが望ましい。
その一方で横領した金額に見合った使い道が私に残っていないと、私以外の者の関与を疑われる可能性が出てきてしまう。
目立たぬように、しかし確かな痕跡は残しておく。その難しいバランスの中を私は慎重に進み続けた。
もともと、興味のなかったブランド品の服やアクセサリーを少しづつ買い集め、長期休暇の度に国内、海外のリゾート地へ一人旅に出かけて行った。
会社やSNSでは、変わらず地味な生活を続ける一方で、SNSの裏アカウントでは、ブランド物に身を包み、セレブの真似事をして、映える写真をアップし続けた。
飛行機のファーストクラスのシートでシャンパンで乾杯し、リゾートホテルのプライベートビーチでカクテルを手にして、高級ホテルでのディナーショーで芸能人と握手をし、豪華クルーズ客船の甲板でポーズを決め、会員制乗馬クラブで騎乗しながらのピースをする。
SNSにアップした色とりどりの華やかな写真の中の私。
空虚な事とわかっていても、セレブなふるまいはそれなりに楽しかった。
しかし、そろそろ終わりが近いようだ。
終わり…そう、長いプロローグが終わるのだ。
スマホに映る写真を見ながら私はそう思った。
チャイムが鳴った。
スマホの画面をそのままに、インターホンで応対する。
モニターに映ったのは、先ほど車でつけて来ていた一人だった。
「警察です」
その女は言った。
ついにこの時が来たようだ。
—落ち着け
心の中で、何度も繰り返してきた言葉を改めてつぶやく。
準備はできている。
ここからが本番なのだ。
最後まで、私は私にしかできないことをやるだけだ。
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