身近な殺意

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身近な殺意

「おなかの傷、どうした?」  安っぽいラブホテルの広いお風呂で、彼は私の痩せっぽっちな体をまじまじと見て、訊いた。 「中学生のとき、ちょっと内臓の……どこだったかな……調子悪くて、手術した」 「ふうん」 「十針くらい縫ってあるから、目立つでしょ?嫌?」 「別に」  彼が気にも留めていないようだったので、私は安心し、彼に軽いキスをした。  二十年経っても、決して消えない、おなかの傷と、心の傷。  私が三十五歳になったということは、あの子も三十五になっているということだ。  加害者の情報は厳重に守られ続ける、不思議な国、日本。  おそらくあの子は名前を変え、別人となり、雑踏に紛れ、普通に暮らしているのだろう。  あの事件から二十年。  私は一度も謝罪されていない。  日本中をたった一日だけ騒がせて消えた、あの事件が、私を二十年も縛り続けている。  いつか、訊いてみたい。  なぜ私を刺したの?と。  中学三年生の初夏だった。  給食当番が給食室に給食を取りに行っている短い時間。  四時間目が終わり、私は数学の教科書を机の中に片付けていた。 「美琴、さっきのルートの計算、わかった?」  くるみが私の席まで来て、そう尋ねた。  珍しいな、と一瞬思ったその気持ちは、すぐに消えた。  くるみは保育園からずっと一緒に過ごしてきた幼馴染みの一人だったが、特別親しみを持ったことはない。三歳からのつきあいだから、もう十二年だけれど、仲が良かったことも、悪かったこともない。 「どこかわからないところ、あったの?」 「あ……うん……まあ」 「説明しようか?」  私が机の中から数学の教科書を出すと 「ああ、今はいい。それよりちょっと廊下に来て」 とくるみは言った。  え?ルートは?  そう口にする間もなく、私は腕を強めに引っ張られて、少し強引に、廊下に連れ出された。 「くるみ?どうしたの?」  くるみと二人きりで一つの空間にいることなんて、たぶん初めてだ。これは余程、なにかあったに違いない。 「あのね……」  くるみが囁いたので、私はくるみの口に耳を近づけた。聞き逃さないように、くるみの声に集中した。  次の瞬間、おなかに衝撃が走った。経験したことのない、熱さと痛み。 「うっ……」  右の脇腹より少し真ん中寄りの部分を両手で押さえた。押さえた部分の制服の布が、だんだん濡れてくる。  痛い、痛い、痛い。  身体中がドクンドクンと大きく脈打つ。  押さえた部分からは大量の血が溢れ出している。  痛みのあまり、私は前かがみになり、ゆっくり膝を折った。  廊下に座り込むと、床に血がボタボタボタッと音を立てて落ちた。  くるみの右手に血のついた果物ナイフが握られていた。制服のスカートには深いポケットがある。刃の部分にカバーをつけて、そこに入れていたのだろう。 「……な、んで……」  私はくるみを見上げ、声を振り絞った。 「……」  くるみは何も言わなかった。  ただ、ぞっとするほど冷たい眼で、私を見下ろしていた。  笑うでもなく、怒るでもなく、泣くでもなく。私になにかを訴えようとしているのかどうかもわからなかった。  額に汗が滲む。耐えられるような痛みではない。  そのとき、教室の、廊下側の席に座っていた男子が、ナイフや廊下に流れる血液に気づいた。 「う、うわあ!」  男子が叫んで慌てて立ち上がったことで、教室中のみんなが気づいた。  キャー。ワー。  叫びながら窓側に逃げる者、前側の出口から廊下に出て、職員室に走っていく者。  辺りは騒然となった。収拾がつかない。 「ほかの奴は殺さないっつーの」  くるみの独り言が聞こえた。  無差別じゃない。私だけ?なんで? 「顔は傷つけないであげる」  くるみが私の顔を覗き込んで、そう言った。  感情が読み取れない、冷たい眼のまま、くるみは苦しんでいる私を見つめていた。  私が見た、くるみの最後の顔だった。  そこから数日間の記憶が、私にはない。  その後、くるみがどうなったのか、私は知らない。  くるみは警察に連れていかれ、二ヶ月ほど鑑別所に勾留されたあと、処分が決まり、どこかの矯正施設に送られた、と噂が広まったが、それも真実なのかどうかわからない。  いつのまにかくるみの家族はどこかに引っ越してしまい、事件は風化した。  事件の翌日にはアイドル女優の覚醒剤使用が発覚し、世間の目はそちらに集中したので、中学三年女子殺人未遂事件は一日だけ日本中を騒がせて、忘れられた。  縁もゆかりもない、ある県の地方新聞社に入社して、十三年になる。  ずっと文化生活部。やりがいと穏やかさの両立が私に合っている。  社会部や経済部に配属されたらどうしよう。  最初の数年は人事異動の時期になる度、戦々恐々としていたが、さすが人事。ちゃんと見ている。適材適所。心配無用。  ここでは私の過去を知る人はいない。その事実が私の心を軽くする。  五月。ゴールデンウィークが終わり、落ち着きのない浮き足立った雰囲気がやっと消えた。 「美琴、高齢者施設のスタッフにインタビュー、午後、入ってるからね?」  文化生活部の編集長が確認を求めた。 「はい、もうすぐ出ます」  取材手帳を開き、再確認。 『社会福祉法人〇〇会、介護士、松田杏子』  カメラマンはつかないか……。  私は少しがっかりする。写真を撮るのが苦手なのだ。  特に今回は介護の現場がいかに人手不足か、低賃金や理不尽に耐え、介護スタッフの誠意のみに頼る超高齢社会を、現場のスタッフに具体的に語ってもらうことになっている。だから、はいチーズっ!みたいな写真を載せるわけにはいかない。 「カメラ、やるよ、私」  編集長が立ち上がった。 「え?いいんですか?」 「前の編集長から引き継いでるから。美琴は記事もいい、アイディアもいい。着眼点はとてもいい。でも写真は一生素人より下手だからよろしくね、って」 「よろしくねって……」  私が苦笑している間に、編集長はさっさとカメラバッグと自身の鞄を肩に掛け、スマホを手に取って小走りで会社を出て行った。  その背中を追いかけながら、私は安堵していた。  一人じゃなくて良かった、と。  あとからなら、いくらでもこじつけられる。近未来が見える、とか、虫の知らせ、とか。あのときの安堵はそういう意味でした、とか。  アポを取っていた高齢者施設には十分前に到着した。  受付の人に案内されて、小さな応接室でお茶を出していただいた。  ボイスレコーダーの動作確認をし、インタビューの内容につけ足したい事項があるか編集長と確認を取っていると、ドアをノックする音がした。 「すみません、遅れちゃって……」  応接室に入ってきた女性が完全にこちらを振り向くまでに、私の血液は猛スピードで全身を駆け巡り出した。  私はこの人を知っている……。  その人がドアを閉めて、私としっかり向かい合った瞬間、止まっていた時間と、止まっていた感情が、グルグル動き出した。  ほとんど変わっていない。顔も、身長も。少しだけふっくらしたかもしれない。まとまりにくくて広がる髪質も、まっさら、とは思えない顔つきも。全然変わっていない。 「くるみ……」  奥歯がガチガチ鳴り出す。腕に鳥肌が立って、消えない。  名刺を渡そうとして、震える手で手帳をつかむ。引っかかってお茶がこぼれた。 「あっ」  お茶がテーブルの上で広がる。その動きと、あの日廊下に広がった真っ赤な血液の広がりかたが似ていて、錯覚を起こす。  テーブルの上が赤い色に染まっていく。  どこから出ているのかと視線で辿っていくと、私の右脇腹から少し左に寄ったおなかの辺りが真っ赤になっていることに気付く。  助けて……助けて……。  声が出ない。 「美琴?」  編集長の声が遠くに聞こえる。  殺される。今度はきっと、失敗しない。  私の意識はそこで途切れた。 『入院になったから着替えを持ってきてほしい』  彼にメッセージを送ると、彼は息を切らせて、汗だくで病院にやってきた。  彼のそういう誠実さを見るたび、大事にされている、と実感する。  私のおなかの傷が、実は同級生に刺されてできた傷だと知ったら、彼は離れてしまうだろうか。面倒なことに巻き込まれるのは誰だって避けたいはずだ。  しかし彼は開口一番、 「ごめん、知ってた」 と言った。 「中学三年女子殺人未遂事件、俺、覚えてて……。ネットには名前も顔写真も出てる」  そう言われれば、確かにそうだ。だからくるみは名前を変えたんだ。働いて、収入を得て、普通に暮らしていく人生のために。 「別れたかったら……」  いいよ、となかなか言えない。 「へ?なんで?」  彼はとぼけた顔をしてみせた。  演技が下手だ。  私が事件の被害者だから。面倒な過去を隠してだましてきたから。だから別れを切り出されても受け入れるしかない。でも本当は別れたくない。  そんな気持ちを、彼は簡単に見抜く。そして上手いと思い込んでいる演技でごまかしてくれる。その温かさに甘えてもいいかな、と思う。 「もし……もし、ね」 「うん?」 「私の何が気に入らなくて私を刺したのか……加害者の本心が聞けて、もしその理由がね、私がなにかものすごく悪かったとしたら……」 「うん」 「私、さすがにこたえちゃうと思うんだ」 「……そうか」 「そのとき、そばにいてほしい」  ベッドの脇のパイプ椅子に座っていた彼は、ゆっくり立ち上がり、顔色が悪いであろう私の頬にキスをした。 「普通じゃん、それ」  彼はフッと小さく笑った。  数日後、編集長からスマホにメッセージが届いた。 『松田杏子さんが美琴と話したいと言ってる。もちろん私も同席する。どうする?』  介護スタッフの低賃金や理不尽な労働条件についての記事は頓挫してしまったようだ。まあそうだろう。事件の二十年後、当事者達の現在、といった見出しのほうが読者を惹き付ける。  私は退院の翌日を希望して、返信した。  二十年経って、やっと訊ける。  なぜ私を刺したの?と。  再び高齢者施設を訪れると、施設長と名乗る男性が玄関前で待っていた。  施設長は申し訳なさそうに言った。 「松田さんが取材を受けたくないそうで……私の勘違いで……萩原美琴さんと話したいと言ったのは、二人だけで話したい、という意味で、新聞社のインタビューを受ける、という意味で言ったのではない、と……」  編集長は 「わかっています。大丈夫です。今日は場所を提供していただき、ありがとうございます」 と、丁寧に頭を下げた。  本当は同級生を刺した中学生のその後を知りたい、記事にしたい、と強く思っているのに。 「二人だけで話したいと言っても、萩原さんは怖いでしょうから、中庭のベンチでお話してください。離れたベンチに私が待機します」  施設長さんの提案を私は受け入れた。  中庭の芝生は刈ったばかりなのか、短く揃っていて、緑のにおいがした。  日が射し、とても明るい。木製のベンチは温かみがあり、その空間だけは一生平和が保たれるような錯覚を起こす。  くるみ、いや、松田杏子さんは広い中庭の、六台あるベンチの、左側の一番手前のベンチに座って待っていた。右側に三台、左側に三台、向かい合わせに離れて設置されているベンチの対角線上のベンチに、施設長と編集長が座った。これならたぶん、会話は聞こえない。しかし万一、危害を加えようとすれば、見える。そんな距離だ。 「美琴……」  くるみが私の名を口にした。なぜか懐かしい、と思った。そんなに親しくはなかったのに。  私は同じベンチの、できるだけ端に座った。やはり怖かったのだ。  その私の行動を見て、くるみは言った。 「もう刺したりしないよ。でも刺したこと、謝る気はない。これからもずっと、謝らない」  私は頷いた。  予想していた。くるみは私に申し訳ないと思ったりしない。 「いいよ。くるみが謝ったことなんて、一度もなかったもの。私も一生、許す気、ない」  くるみは気に入らなそうに、頬をひきつらせた。 「名前、変えたんだね」 「うん……あの事件の子、って気付かれて、どこに行っても普通に暮らせなくて。マスコミまで来たりして。それで……」 「そう……。私、くるみにいつか訊きたいと思ってたことがあるの。できれば正直に答えてほしい」  くるみは一瞬チラッと私を見たきり、うつむき加減になった。 「なぜ、私……だったの?」 「……」  くるみの両手が膝の上で握り拳を作っていた。力が入っている。葛藤しているのか。答えたくないのかもしれない。 「くるみ?」 「……憎かった。羨ましかった。でも嫉妬だってどうしても認めたくなかった。それだけは……この気持ちが嫉妬だってことだけは……絶対認めたくなかった」 「……いつから?」 「羨ましいって気持ちが芽生えたのは、たぶん保育園にいた頃から」  そんな昔から?私は保育園時代の記憶がそもそもないのに。 「私の、なにが?」 「すべて。先生にひいきされるところ、モテるところ、勉強ができるところ、顔がかわいいところ、性格がまっすぐなところ、目立つところ……すべて。私がほしいもの、全部、美琴が当たり前みたいに思ってるところが憎かった。すごく憎かったから、美琴の悪い噂を流したり、悪口言ったりした。みんな、私に目の敵にされるのが怖くて、美琴を庇ったりしなかったけど、大きくなって、だんだんみんな、美琴と仲良くしたりして……毎日イライラした。美琴がいなければイライラしなくて済むと思った」  呆然とした。  そんな理由?  私は『顔は傷つけないであげる』と言われたことを、ふと、思い出した。結局、くるみが気に入っていた顔を傷つけたくなかっただけのことだ。 「つまり、私の存在そのものにイライラしていた?」  くるみは頷いた。  バカバカしい。そんな理由で殺人を犯すなんて。たまたま助かったから、少し軽い罰になっただけだ。 「今でも美琴に嫉妬してるとは思ってない。憧れて、でも叶わないから、妬んでる……なんて、絶対認めない。美琴の存在が嫌なだけ。嫌い、憎い」  くるみは自分の太股を拳で何度か叩いた。 「今だって、上司にひいきされてる。付き添ってもらったりして」  くるみに言われて、チラッと編集長のほうを見ると、編集長と目が合った。心配しすぎて、眉間に力が入っている。  彼もきっと今頃、あんな顔をして、私からの連絡を待っているのだろう。  くるみの言うとおりだ。私は恵まれていたのかもしれない。 「私、ずっと知りたかったの。なぜ私が刺されたのか。教えてくれてありがとう」  もう話は済んだとばかりに私が立ち上がったので、つられるように、くるみも立ち上がった。 「仕事、がんばってね。もう二度と会わない。一生関わらない。さよなら」  私がそう言っても、くるみは頷くだけだった。  私は離れたベンチに座っている施設長に深く頭を下げた。 「編集長、帰りましょう」  大声で編集長を呼んでから、一瞬だけ、くるみを見た。子供の頃も、一度も私には笑いかけてくれたことはなかった。でもこの高齢者施設では、利用者さんに優しく語りかけ、笑顔を見せているに違いない。でなければ務まらないだろう。  私は振り返らずに、中庭を出た。早くこの施設の敷地から出たかったので、早歩きを続けた。 「ちょっと……美琴、待って」  編集長が小走りで追いかけてきた。 「ひどくない?心配してるのに」  肩で息をしながら、編集長が言った。 「すみません……ほかの記事、なにか考えますね」 「うーん、早めによろしく」 「はい」  横に並んで歩きながら、編集長が訊きづらそうに、それでも尋ねてきた。 「ちゃんと話せた?」  私は少し笑って、応えた。 「編集長に大事にされてるのに、それを当たり前だと思ってるんじゃねえぞ!って怒られました」 「ん?なにそれ」  編集長はしばらくのあいだ、何度も、なにそれ、を連発していた。  
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