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「殿村さんか」
増岡という五十代の巡査部長は、俺が殿村の名を口にした途端、露骨に嫌な顔をしてみせた。
「あの人とは反りが合わなかった」
増岡は吐き捨てるように言った。
「殿村さんは、ああ見えて胆力に欠けるようなところがあった」
「胆力、ですか」
「いざというときの根性というか、喧嘩になったときの前に出る勢いというか、そういうのが生まれつき欠けてるんですよ。私は過去に一度、殿村さんと拳でやり合ったことがある。だからわかるんですよ。あの人には警察官が本能的に持ち合わせているべき根源的なものが欠落している。ようするに警察官としての適性に欠けた人物なんです。本来なら警察学校の段階でふるいにかけられるべき存在なんですよ。それが何かの間違いで警察手帳を与えられたものだから奇っ怪なことになる」
「殿村警部は柔剣道の達人だし、警察学校では主席だったようです」
「だから根源的なものと言ったでしょう。根源的な欠陥は表層には決してあらわれない。それがあらわになるのは、ルール無用の本気の戦いになったときだけだ。まあこれは物の喩えのようなものですがね」
増岡の話はわかるようでわからない。
「柔道にはルールという安心できる便利なものがあるでしょう。柔道をしているときの殿村さんは厳格なルールによって守られている。剣道のときも同様だ。しかしルール無用の戦いとなれば話は別だ。そうなれば殿村という男は馬脚をあらわす」
「もっとわかりやすく具体的に教えて戴けませんか」
「殿村という男は、ヤクザや反社に脅されれば嘘のようにあっさり転ぶ。私はそう見ています。あの男はいつか必ず半グレや暴力団との癒着問題を引き起こす。私の読みに間違いはないと思いますよ。私は三十年あまりも刑事部屋にいますからね。人を見る目は肥えている」
殿村に対して芽生えた小さな疑念は、今や天空を覆い隠すほどの大樹となって俺の前に立ちはだかっていた。
やはり殿村だったのだ。東同盟OBの平間に捜査情報を漏らしていたのは。
俺は電車に飛び乗り、A警察署管内へと急ぎ帰還した。一時間半の道程が地球一周分の長さにも感じられた。
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