5人が本棚に入れています
本棚に追加
僕は必死に通路を駆ける。
狩りの助っ人として野山を駆けることもあるから走ることに慣れてはいるけれども、神殿の地下深くの空気は何とも重苦しいし、石造りの固い通路の中を駆けるのは脚に負担もかかってしまう。
必死に駆けた僕は、ようやく「祈りの間」に続くと思われる扉を、通路の彼方に目にした。
あと僅か、あと僅かで「祈りの間」に辿り着ける!
抱いていた不安や恐れ、それは急速に希望や喜びへと姿を変え始める。
疲れ切った脚に力が漲るかのように感じられた。
しかし、その時だった。
耳元で不意に唸り声が響いた次の瞬間、僕の身体は床へと叩き付けられた。
頭を強く打ち付け、一瞬だけど意識が途切れた。
殺意を漲らせた唸り声が間近から響いてくる。
獣の臭いが周囲を満たす。
そして、一際高い唸り声に続いて左の二の腕を焼けるような痛みが貫いた。
僕は思わず絶叫する。
左腕を無我夢中で振り解こうとする。
けれども、左腕を苛む痛みはその度合いを増すばかりだった。
左腕のほうを見遣ると、そこには大猿の怪物が喰らい付いていたのだ。
仄かな光の中であっても、その大猿の不釣り合いなまでに小さな瞳に強烈な殺気が満ち満ちているのがハッキリと分かった。
痛みはいよいよその強さを増す。
血が左腕の傷口からどんどんと失われていくのが分かった。
恐怖と絶望とが僕の心を見たし始める。
そして、意識が次第に薄れ行くように思えた。
薄れつつある意識の中、一人の少女の顔が浮かび上がってきた。
***********************
僕の村では春、そして秋とに祭りが行われる。
豊作を神に願う種蒔きの時期の祭りと、収穫を神に感謝する秋の祭りだ。
そして、春の祭りには一つの催しがある。
その年に16歳になった男女の連れ合いを決める催しだ。
祭りの夜、村の教会にはその年に16歳になった男女が集められる。
まずは女性が「太陽と豊穣の神・アデュラス」の神像に触れるのだ。
それに続いて男性たちが神像へと触れる。
そして、神像が震えた時、それが女性の連れ合いとなるのだ。
神の啓示として、
もちろん、すぐに結婚するという訳でもないけれども、それからは二人は許嫁として扱われる。
そして、僕もその儀式にて、許嫁が決められた。
それは、隣の家に住まうファニアだ。
家が隣同士だったこともあって、ファニアとは小さな頃から双子の兄妹のように育ってきた。
幼い頃から抱いてきた親しみの気持ちは、成長するに従って恋愛感情へと変わっていった。
それは僕だけでなくファニアも一緒だったのだ。
だから、その儀式でファニアと許嫁になれた時は、まさに天にも昇るような心持ちだった。
そして、昨夜のこと。
神殿への出発を早朝に控えた僕は、夜半を過ぎても眠れずにいた。
不安、そして恐怖に苛まれ、震えが止まらなかったのだ。
生きて帰れないかもしれないとの不安、もう二度とファニアに逢えないかもしれないとの恐怖にて。
そんな僕を、ファニアが密かに訪ねて来てくれた。
そして、僕はファニアと一夜を共にした。
僕が彼女をどれだけ愛しているかを、僕の全てを使って伝えたいと思ったから。
もしも僕が神殿の中で命を落とすようなことがあっても、僕が生きた証を彼女の中に託したいと思ったから。
***********************
彼女への思いは、薄れつつあった僕の意識を立ち直らせた。
僕は絶叫しながら腰に差していた短刀を右手にて抜き放つ。
渾身の力を込めて、その切っ先を大猿の左のこめかみへと叩き付ける。
つんざくような悲鳴と共に、僕の左腕に喰い込んだ牙がズルリと引き抜かれる。
僕は立ち上がって姿勢を立て直す。
僕の短刀は、奴の頭を貫くには至らなかった。
奴の頭の骨は分厚くて頑丈で、短刀は頭の側面の肉を少し抉った程度だったみたいだ、
そして、与えた傷は奴の怒りに油を注ぐ結果となったようだった。
奴の両目のぎらつきは、その唸り声は、怒りの濃さをより一層増しているように思えた。
僕は震える右手で短刀を構える。
奴の牙から解放された左腕には力が入らず、ダラリと垂れ下がっていた。
奴の唸り声が甲高さを増す。
次の刹那。
大猿の悲鳴が響き渡った。
それと同時に呼び声が響いた。
「大丈夫か?! しっかりしろ!」
それは、ロッシュさんの声だった。
背後からの一撃に悶絶する大猿の脇を掻い潜って、ロッシュさんは俺の側へと駆けよって来る。
ロッシュさんは俺と大猿の間にその身を割り込ませ、大猿に向けて両手で剣を構える。
そして、怒鳴るようにして俺に告げる。
「ここは俺に任せろ!
お前は先に行け!
そして、お前にしか出来ない役割を果たすんだ!」
ロッシュさんの左の肩口、そして頭は血に塗れていた。
先程の怪物との闘いで傷を負ったに違いない。
僕を守るために傷付いてしまったロッシュさんを一人置いたままにしていくだなんて、ひどく罪深いものとして感じられてしまった。
俺の迷いを背中で察したのかのように、ロッシュさんはややトーンを落とした声でこう告げた。
「俺は大丈夫だ。
この大猿だって背中から深手を負わせた。
あとな、ファニアからお前を守って遣ってくれって頼まれたからな!
泣きながら頼まれたとあっては、兄貴としてここは頑張らなきゃいけないんだよ!」
僕は、意を決する。
「兄さん、お願いします!」
そう叫んだ僕は、通路の奥に見える扉のほうへと向き直った。
そして、一心不乱に駆け出した。
最初のコメントを投稿しよう!