一度きり、なら

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一度きり、なら

社長にはいつも優しくしてもらっているし、たくさん褒めてもらっていた。 嬢として働いているわけでもない私を、他の嬢たちと何か差をつけることもなく普通に優しく接してくれていた。 ジャーっと、私が店に来てから二度目のトイレを流す音を聞きながら、私は決心する。 しょうがない、一度だけなら。 まあ、内容によるが。 私は再びパソコンに向き合うと煙草を消して、「三人目のお客さん」の依頼を確認する為にマウスに手の平を置く。 画面をスクロールして、まずは予約時間とホテルの場所を確認する。 予約時間は時17半、ホテルの場所は先ほどまでのお客さんと変わらない、この店の嬢と客が良く使っているホテルだった。 とりあえず見るのが恐ろしかったので依頼内容を読むのは後にして、気になっていた一人目のお客さんの予約内容のところまで画面を戻すと、記載されている携帯番号へと電話をかける為に机の上の電話に手を伸ばす。 私の出勤時間は夕方近く、15時で、その時は既に15時20分ほどになっていた。 まずは一人目のお客さんに事情を話してキャンセルをお願いしなければならない。 この時間だと最悪もうホテルの近くにいるかもしれないし、それどころかもう、嬢が来るのを楽しみにしながら部屋で待っているかもしれない。 申し訳ないが私がセーラー服を着たところでただの幼児体系のヤンキーだ。 写真をばら撒かれるかもしれないリスクも考えると、このお客さんの相手は出来ない。断ろう。準備の時間も足りないし、社長がノロではトイレとバイバイさせるわけにもいかない。 そうなるとホテルまでは歩きか、タクシーを使わなければならないだろうし、歩きでは到底予約時間には間に合わない。そして、例えタクシーを使ったとしても、呼んでから待っている間にだって時間は経つのだ。結果、間に合わない。 受話器を耳にあてると電話番号を押して、しばらくコール音が鳴るのを聞きつつ待つ。キャンセルしたら、次は二人目のお客さんにもキャンセルをお願いしなければならない。 私は三人目のお客さんに賭けていた。残り物には福があると言うではないか。 案外大丈夫な、簡単なプレイ内容かもしれないじゃないか。 興味本位でSMクラブにお客さんとして登録し、「結構どうでもいいプレイ」を新規で予約してくるお客さんと言うのは、時々いるものなのだ。 そう願いつつ受話器を握る手のひらに力を込めていると、一人目のお客さんが電話に出る。 私は簡潔に今の店の有様を丁寧に説明し、穏便にお客さんが引いてくれると良いなと低姿勢で何度も謝罪をする。 時間がギリギリになってしまったこと、嬢が誰一人として出勤出来ていない事実、そしてまた機会があった際には割引をさせて頂きますと言って、受話器を握っていない方の手でマウスを操作してそのお客さんの登録されているページへ飛ぶ。 どのような嗜好があって、どのようなプレイが好みで、どのような嬢とどのようなプレイをしたか、などを書き込んでおく、備考欄のような使い方をしているフォームに「次回割引アリ」と片手だけでキーボードをポチポチと打って入力した。 一人目のお客さんは私の必死な様子を受話器越しに感じとってくれたのか、穏やかに「それじゃあ仕方がないので」と一言だけ、答えた。 細くて、神経質そうな声だった。 「ありがとうございます。では、今回はこちら側からのキャンセルとなりますので、キャンセル料はもちろん頂きません。次回のご利用時は割引が使えますので、ご予約の際には是非そちらをお伝えください」私が安堵しながらそれだけ言うと、「ああ、うん」と興味がなくなったような返事を残して電話は切れた。 この感じだとこのお客さんはもうこの店を利用しないかもしれないな、などど考えながら、そんなことよりも二人目のお客さんだ、とすぐにまたパソコンへと視線を戻し、一旦受話器を電話へと戻す。 登録されている携帯番号を確認し、また改めて受話器を握ると電話をかける。 二人目のお客さんはすぐに電話に出た。 声の高い、話し方からして落ち着きのない若い男性のようだった。 「どうしたの?」「僕何か店にした?」と唐突に聞かれたので、私は多少心の中では訝しがりつつも、予約のキャンセルを打診する。 二人目のお客さんへも先ほどと同様、誠心誠意謝罪を述べ、店の事情を話し、次回の利用には割引が使えるようにさせて頂きますと伝える。 そこまで私が話すとやっとそのお客さんは落ち着いたのか、「わかった、じゃあ次回に割引が使えるってことなんだね」と嬉しそうな声で言った。 私はなんとなくこのお客さんはまたこの店を利用するだろうけど、要注意かもしれない、とそんなようなことをこの二人目のお客さんのことを記しておく為のフォームへと打ち込む。 「他店で出禁にされた経験があるかも。次回割引アリ」と、そんな風に。 S嬢のストーカーになってしまうMのお客さんと言うのもたまにいるのだ。 そうして、とりあえず二人目までのお客さんへのキャンセルをなんとか終えると、一息つこうとキッチンに行って冷蔵庫を開け、ビールを手に取る。 シンクはもう何が一番下に埋もれているのかわからないような、そんなプラスチックの入れ物が幾重にも雑に折り重なっていて、もちろん腐敗匂もする。 何故って、そのプラスチックの容器が食事の後で洗われることがなかった為だ。きっとこの店が出来てから、たった一度も、ただの一つも。 どれもこれも食べ残しや、ミートソースらしき跡、ラーメンの残った汁、色んなものがこびり付いていて、絶対アイツがいるだろう、と思わせるだけの迫力があった。 黒光りしてて、触角が二つついていて、時々飛んだりなんかする、大抵の人が嫌うあの虫だ。 私はここで飲むよりはまだマシか、と思いとりあえずパソコン机へと重い足取りで向かう。椅子へ腰かけ、プルタブをあけると、すぐに一気飲みをする。 ああ、私はいつの間にビールを美味しいと思うようになったんだっけ。 そんなことを考えながら、唇の端から口内に入りきらずに垂れて来てしまった黄色くてたくさんの泡を内包してる液体を適当に服の袖で拭った。
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