通り雨

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 歩道を照らすのは、店内からこぼれる明かりか、街灯だ。  シェフ見習の彼が選んだフレンチレストランでの食事を終えて家路につく。彼は私と手をつなぎ、自分の体に私の腕を引き寄せた。 「フランスの有名店で修行することが決まった」  私は繋いでいる彼の手を見つめ、絞り出すように出した声とともにうなずいた。それが精一杯だった。  彼はつなぐ手に力をこめ、歩調を速めた。私は半ば引っ張られるようにして歩いた。通りから外れて公園に入る。夜9時を過ぎた時間のせいか、人気はない。  歩調を緩めた彼がベンチの前で止まる。 「少し座ろっか」  2人でベンチに腰を下ろすけれど、恋人同士には不自然な隙間ができる。私は両ひざに手を置いて拳を握り、これから聞かされる彼の言葉を黙って待った。彼は深呼吸して、こちらを向き、私の両肩に手を置いて向かい合うようにしてきた。 「フランスに行ったら最低2年は帰ってこれないし、連絡もどれだけ取れるかわからない。2年過ぎても、 日本に帰ってくるか、フランスに残るかもわからない。今の僕には待っててなんて言えない。一流のフレンチシェフになりたいから。その修行に集中したいから。だから僕と別れて、自分の幸せを追ってほしい」  私の頬に冷たいものが当たる。見上げると、月も星も見えない空から大粒の雫が落ちてきていた。  8年前、当時、大学3回生の私は中学3年生だった彼の家庭教師をしていた。彼が高校生になって家庭教師は辞めたけれど、私が大学を卒業して事務員として就職した調理師専門学校へ彼が入学してきて再会し、入学して数ヶ月、「家庭教師の時から好きだった」と、彼から告白されて付き合い始めた。  私は今年28歳。  両親は40歳を過ぎてから私を授かったため、同級生の親たちよりも高齢だ。表立って言ってこないけれど、少しでも早く孫の顔が見たいと思っているのは私も彼も気づいていた。  だからこそ、彼の言葉は本心だろう。私自身も、彼の重荷になりそうで、「一緒に行く」も「待ってる」も口にできない。  2人の間に流れるのは雨の音だけだった。  彼が手を伸ばしてきた。頬に触れようとしてくる。 「泣いてる?」  私は軽く首を振り、伸びてきた手を避けて俯いた。何とか声を振り絞る。 「雨に打たれてたら風邪引くね。帰ろっか。フランス行って頑張ってね。立派なシェフになれるように応援してるよ。私のことは気にしないで。自分の幸せ見つけるから」  鼻声で聞き取りにくいうえに早口になってしまった。私はうつむいて唇を噛みしめる。  避けたはずの彼の手が私の頬を撫で、指がつたう雫を拭きとる動きをする。その手が震えているように感じて、私は顔を上げて彼を見た。  彼の後ろにある街灯のせいで、表情はわからない。ただ、ゆっくりと彼の唇が動き、私の名前を呼び、触れ合うくらい顔を寄せてきた。それは触れるか触れないかギリギリのところで止まった。 「待っててって言いたい。待ってるって言ってほしい」  絞り出すような声だった。私が言葉を返す前に、彼のもう一方の手も私の頬に添えられ、唇を重なねられた。  初めてでもないくせに息ができなくなりそうだ。 雨に打たれる彼の背中に手を回して力をこめる。  一瞬、離された彼の唇が激しさを増して、私のそれにかぶりついてきた。  私たちに降りかかっていた雨が上がっていく。通り雨だったようだ。  完全に雨がやむまで、私たちは唇を重ねていた。 (了)
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