さめないで、ハルノユメ

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 男が現れたのは、丁度一年前の春。常連の多い小さな店だから、新規のお客さんは直ぐに分かる。皺一つ無い上質なスーツ姿で入ってきた男は、当然異質な存在だった。「お好み焼きのニオイ、移っても良いのかな」と勝手に心配になった記憶がある。 『ミョウガの甘酢漬けください』 『はい』 『この"ミョウガをごり推し"してるコラム、貴女が書いてるんですか』  男がトントンと細い指で差し示した先には年季の入ったメニュー表の一番裏のページ。きっと誰も目に留めないだろうと思っていた場所について言及されたことに、接客中とは言い難い苦い表情になった。 『……そう、ですけど』 『僕、ミョウガ苦手な筈なのに思わず食べたくなりました。素敵な文章ですね』  来店してきた時は隙のない胡散臭い笑顔だと思ったけど、何故かその時の笑顔はどこか子供のような屈託の無さが垣間見えた。    三駅先の外資系コンサルに勤めるという男は、この古びた店に全然似合わないし、浮いている。でも何を気に入ったのか週一くらいのペースで来店した。そしていつの間にか私を「朔さん」と呼ぶようになった。馴れ馴れしさに怪訝な表情を浮かべても「だって店長も逸見(いつみ)さんだから紛らわしいでしょ」とあしらうように笑った。  いくら人懐っこい常連でも、新座さんとは距離を縮めてはいけないと必死に言い聞かせた。「この人は駄目だ」と分かっていた。 だって。 「なんですか医療事務って。朔さんには向いてません」 「失礼な」 「僕は、朔さんの書く文章や言葉が好きです」  だってこの人は、"私が本当は一番欲しい言葉"を持ってくる人だから。閑静な住宅街で、向かいあう姿勢から逃れようとすると腕を掴まれた。 「どうしてそんな、頑なに遠ざかる」 「何が、ですか」 「──春乃(はるの)先生」  もう呼ばれる筈のない名前が聞こえて、信じ難い思いで視線をゆっくり持ち上げた。私を真っ直ぐ見つめる新座さんに、いつものような隙のない完璧な笑顔は無い。 「……なんで」  カラカラに喉が渇いていくのが分かる。掠れた声で言葉を繋げれば、目の前の男は一息挟んで薄い唇を開く。 「四年前、黒海社(こっかいしゃ)の新人文芸賞を高校生で受賞されて業界で一躍時の人になった、春乃(はるの) 志津(しづ)先生」  どうして、そんなこと。この人が。  動揺して言葉を失う私の前で、男は真剣な表情を崩さない。また一歩近づかれて、新座さんの影が自分にゆっくりと落とされる。彼の視線に囚われて、間抜けな表情で見つめ返すことしかできない。 「春乃先生の受賞作、とても感動しました。光が当たるべき小説だと納得したし、いつかうちの出版社でも書いて欲しいな、なんて呑気に思ってた。……だけどそれから一度も貴女の小説が世に出ることはありませんでした。何があったんです」 「……なにも、ありません。一作だけで作家人生が終わる人なんて、全然、いくらでも居るでしょう」 「春乃先生は、絶対にそうなるべき人じゃない」  被せるように直ぐ否定をされて、言葉に詰まる。どうしてそんなことはっきりと言い切れるのだろう。 「やめてください。何も、知らないのに」 「先生」 「私はとっくに、先生じゃない、」  震えた千切れそうな声で告げると、目の前の男が息を呑んだ気配と共に空気がぴんと張り詰める。 「私は、逃げ出したんです」  白くぼやける視界を遮断するように、ぎゅっと目を瞑った。
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