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「……私は、逃げ出した臆病者です。自分を主張して相手にぶつかることも、割り切ってあのまま執筆を続けることも出来ませんでした」
あの日、編集社を後にした私は、無我夢中で走り続けた。目指していた場所は、たった一つ。
「帰ってきて、お店で泣き崩れた私を見た父の顔が、忘れられません。ペンネームに『志津』って母の名前まで借りてるのにこのザマです。母にも、会わせる顔がない。とんだ親不孝者です」
「逃げたんじゃないでしょう」
私の言葉に重ねられた否定に、俯いていた視線が持ち上がる。意志の強そうな三白眼の奥が、夜の薄明りを頼りに、少しだけ揺れていることに気付いた。
「春乃先生は、守ったんです」
「え……?」
「先生は、自分が紡ぐ言葉をすごく大切にされている。一つ作品を読んだだけでも分かります。逃げたんじゃなくて、大事なものがクソみたいな奴らに穢されることから守っただけです。だから俺はまた、貴女のあの頃と変わらない誠実な言葉を好きになった」
瞬きさえも忘れてただ、静観するしかできない。そんな私を見て、険のある目つきを漸く解いた新座さんは、そっとこちらへ手を伸ばす。彼の仕草で、自分から涙が零れていることを知った。
「新座さん、何者、ですか……?」
「構想社の文芸編集部で編集者をしている、新座 千萱と申します」
「……外資系コンサルタントだとお聞きしてましたが」
「自分で言いながらその職種にピンとこなさすぎて、まじで後悔してた」
視線を逸らす男は疲労感たっぷりに溜息を漏らして、襟元で綺麗な形を保っていたネクタイを緩める。
「編集者だと名乗らなかったのは、私に気を遣ってですか?」
「……まあ、朔さんに嫌われたくなかったし。あと約束してたんで」
「え?」
「朔さん。逸見店長の過保護っぷり、分かってなさすぎ」
困ったように眉を下げて微笑む男は、ぽんぽんと私の頭を撫で付ける。そして、状況が読めず戸惑う私に言葉を繋げる。
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