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「今日、逸見さん怒ってなかった?」
「……そういえばずっと不機嫌でした」
「それ俺のせい」
「え?」
「朔さんのこと好きなので、娘さんをいつかくださいって言いました」
「「編集者として結果出してからにしろ」って怒られたので、また長期戦ですけど」と飄々と話す男にくらくらと眩暈がしてきた。
夜の景色にも密やかに、咲き誇る美しい桜の色づき方に負けないくらい、私の頬も染まっていると思う。
上手く言葉が出なくて、口をぱくぱくさせる私のことを勝ち誇ったように見つめる新座さんの笑顔は、綺麗すぎてちょっと腹立たしい。
「俺は春乃先生も勿論欲しいですが、逸見 朔のことも欲しいので。どっちも貰います」
「……よ、欲張り」
「嫌ですか」
私の返事を分かった上で聞かれている気がする。この男、絶対厄介だ。でもそんなことは、最初から予感していた。
「初めて会った時。新座さんが私のコラムを褒めてくれたの、嬉しかったってさっき言いましたが、それだけじゃなくて」
「……うん?」
「お、お会計終わった後」
『ご馳走様でした。凄く美味しかったです』
『ありがとうございました』
『あ、見送りは大丈夫です。それより向こうのテーブルの方が注文したそうでしたよ。行ってあげてください』
『え……ありがとうございます』
『はい。また来ます』
「あれ、嘘でしたよね?」
「え……」
「カウンターで新座さんの隣に座ってた常連の方が結構悪酔いされてたから。私を遠ざけた上で、一緒に店を出てタクシーの手配までして下さったのだと後から知りました。私の文章を好きだと言ってくださるだけで、危険なのに。そういう優しさは狡いです」
「まあ、酔っ払いに朔さんを近づかせたくなかっただけとも言いますが」
気まずそうな表情を浮かべる新座さんに思わず笑うと、頬に柔らかな熱が掠めた。目を見開くと、くいと口角を挑発的に上げる男の瞳が月明かりに鋭く光る。
「!?」
「朔さん、案外ちょろいな」
「う、うるさいです」
唇が触れた自分の頬を手で確かめながら、全くその通りすぎることを自覚しつつ、悔しくて睨みを利かせる。
嗚呼。やっぱりこの男は厄介だ。だから、近づくことを恐れていた。
──だって胸に抱いてきた夢と同様、芽生えたりしたら、簡単にはもう手放せそうにないと分かっていた。
「あー、「早上がりさせる代わりに今日は絶対に家に朔を帰せ」って逸見さんに言われてるのに抵抗したくなってきた。どうしよ」
「……やぶるなら」
「え?」
「や、約束破るなら、一緒に、怒られますが」
「え?どういう意味ですか?」
この男、いけしゃあしゃあと。絶対に私が言いたいこと分かっているくせに。
でも一層睨んでも、夜風に煽られて桜の花びらが舞う中で新座さんはあまりにも柔らかく微笑む。
「私もまだ、一緒に居たいって意味です」
相当時間が経ってから、男の腕の中でやけになって、小さく吐き出した。
じっと言葉を待っていた新座さんは、蕾がほころぶような春めいた優しい笑みをこぼす。
そして待ち侘びていたように私の顎をすくいとって、きっと直ぐには冷めそうも無い熱を唇に落とした。
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