さめないで、ハルノユメ

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 年月を経るごとに、得意ではないにせよ少しずつ人と話すことに慣れて人並みの会話をできるようになってきた。  それでもやはり、「書く」という一つの表現方法は、私にとってとても大切だった。 ――好奇心もあって初めて書いた長編小説は、自分の体験に基づくエピソードに溢れていた。幼少期のことや母との別れ、今まで感じてきた全てを文字にした。「家族」の在り方を主軸に描いたこの作品が、記念で応募した筈の新人文芸賞を受賞した時、私は高校卒業を控えていた。  父は大学への進学を進めたけれど、アルバイトをしながら小説の道一本で生きることを選んだ。 『本当に、良いのか』  父は、いつも言葉が少ない。昔から黙々と「いつみ」で料理を作る姿が圧倒的に自分の思い出の中でも多い。苦しいことや辛いことを周囲に吐き出すことなく、私のことをここまで育ててくれた。 『うん。書くことならずっと続けていける気がするの。だから、安心してよ。これからはお父さんも私のことは気にせず、ゆっくり過ごしてくれて良いから』 『馬鹿だなお前は』 『はい?』  今思えば、あれは甘ったれた私への叱責が込められていたのだろう。でもあの時の私は、とにかく「自立」を早く示すことが、父に出来る最大の恩返しだと思った。  春になって、一人暮らしに選んだアパートの周囲を彩る満開の桜は、これからの自分の道を祝福してくれているようだった。「有名な小説家になる」なんて、芽生えた眩しい夢に手が届くことを疑いようもなく信じていた。 『春乃先生。思いきって次はドロドロの愛憎劇とかサスペンスとか、どうですか?最近メディア化もそういう作品が増えてますし需要ありますよ』 『……愛憎劇、ですか』 『受賞作は、美しいヒューマンドラマでしたからね。ジャンルを変えて読者の期待を裏切ることで、先生の作家としてのチャンスも幅も、広がると思います』 『分かりました。考えてみます』 『はい、期待してます!』  いくら自分の書きたいと思う話のプロットを提出しても、担当さんに受け入れられない日々が続いた。焦りばかりが大きくなる。そのやり取りの途中で、向こうから受けた提案は想像もしていなかった。でも、私がこれから作家人生を続けていく上で彼の話には説得力がある。「書きたいもの」より「読まれるもの」を。生ぬるいことを言っていては、いつまでも私は”新人賞を受賞した作家”から抜け出せない。  自分の心の奥底にある「書きたいもの」への葛藤なんかより、「期待している」という言葉に応えることの方が大切だと言い聞かせた。
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