あの日

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あの日

「おはよう」 いつの間に眠ってしまったのだろうか。随分長い時間寝ていた気がするが、寝起きの気怠さが思考を鈍らせている。 ふと人の気配がした。 眠い目を擦れば、ベッドの横にランドルセルの似合いそうな子供が一人突っ立っていた。青のボーダーTシャツにベージュの短パン。見下ろす目からは表情が読み取れない。 「誰だお前。」 男は小さなアパートの一室で一人暮らしをしていた。子供が室内にいるはずがない。 「ぼくは君だ。」 少年は声変わり前の幼い声で呟くように言った。 「君はここで何をしているの?」 男を睨みつける目には殺意さえ籠もっていた。 何をしているかなどこちらの台詞だ。 こいつこそ人の家で何をしている。 「ぼくは君だ。覚えていないのかい。」 少年は繰り返した。 「ぼくは、君だ。」 言葉の分からぬ小さい子を諭すように何度も繰り返した。 「ぼくは、君だ。」 少年の言葉が頭の中で反響する。 「ぼくは、君だ。」 ぐわんぐわんと、頭蓋骨を叩きながら、脳を掻き回しながら。 「ぼくは、君だ。」 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。 「君はここで何をしているの?」 少年は紛れもなく自分だった。幼き日の自分だった。 「ぼくの将来の夢はお医者さんです。」 「たくさんの人を助けたいです。」 「お医者さんはぼくのお母さんを助けてくれました。」 「お母さんが元気になってとてもうれしかったです。だからぼくもそんな人になりたいです。」 自分の声がする。やめてくれ。そんなものはとうの昔においてきたのだ。だって、 「お医者さんは頭のいい人がなるんだよ?」 「似合わねー。」 「医者?この成績でか?」 「現実を見なさい。」 「無理しなくていいのよ。」 うるさい。うるさい。うるさい。 お前は死んだんだ。教師に諭されて、同級生に馬鹿にされて、親に否定されて、お前は殺された。 「ちがうよ。」 違わない。 努力する暇さえ与えられず、頭ごなしに潰されて死んだんだ。 「ちがう。ぼくを殺したのは、君だ。」 汚れを知らない無垢な瞳の奥に、昏い影が揺らめいている。 それは鏡を見るたびに目にする闇だった。 「だれに何を言われてもよかったのに、君が言ったんだ。『俺には無理だ』って。やってもないのに。まだ何もわからないのに。君だって夢見てたはずなのに。」 やめろと思わず叫んでいた。 だけど止まらない。少年/自分の口から溢れ出る言葉が濁流となって俺/ぼくを襲う。 「ぼくを殺した君は今何をしているの?」 いつの間にか自分の周りには闇が満ちていた。 自分が何をしているかなんて知らない。知りたくもない。 毎日つまらないと思いながら幸せな人間を妬んで、ただ時間を消費する。生きている理由もないのに死ぬ勇気もないから、ただ無意に日々を終わらせる。 何をしているかなどこっちが聞きたい。 ああ、悪かった。 あの日、周りに流されてお前を殺したことは謝るよ。俺だけは信じていなきゃいけなかったんだって、今なら分かる。だけど。 だけど、初めに俺の夢を否定した大人が悪いんだって、俺は子供だったから仕方なかったんだって。そう思ってる自分もいる。 そんな風に捻くれてしまったから。 「諦めないでよ。大丈夫だよ。」 気づけば涙が頬を伝っていた。 周りに流されて、周りを疎んで、誰かに責任を押し付ける自分が大嫌いだ。環境が違ったら俺だってもっと真っ直ぐに育ってたんだって結局他人のせいにする自分が許せない。 これじゃダメだと思いながら何もできない自分なんか……こんな自分なんか……。 「ぼくは君のことを恨んでるわけじゃないんだ。」 小さい手がそっと頬に触れた。ひんやりとした指先が優しく涙を拭う。 「ぼくは君だから。ぼくを否定された君が沢山傷ついたのも、本当は諦めたくなかったのも知ってる。それで今も苦しんでいる気持ちも痛いほど理解できるよ。」 少年の言葉が、体の内側の柔らかいところにそっと触れる。 「君が許せなくてもぼくは君を許すよ。だから、前を向いて。あの日において行ったぼくの分まで生きて。」 ずっと、ずっと許して欲しかった。夢を諦めてしまった自分を。 「たとえお医者さんになれなくても、たとえ夢を持てなくても、今は消えてしまいたい気持ちでいっぱいでも。」 ごめんなさい。と口から溢れる。 夢を叶えることはできなかった。夢見た大人にはなれなかった。 否定したくせに、何も得られなかった。 「そんなことはないよ。君はぼくより沢山のものを持ってる。ぼくがいなくなってから、色んなことがあったでしょ。でも辛いことも苦しいことも乗り越えてきた。それはぼくじゃなくて君だ。」 カーテンの隙間から柔らかな朝の陽が差し込んできた。少年の小さな体が、その指先から透けていく。 「何より君はここにいる。今までと同じで、これからも君は何でもできる。だから、大丈夫。」 最後に少年は大人びた笑顔を見せて、消えていった。伸ばした手は宙を切った。 そこに少年はいなかった。 初めから誰もいなかったんだと、静寂が告げていた。 寝覚めの悪い夢を見た気分だった。 どうせなら厳しく責め立てて欲しかった。そうすれば何の未練もなく人生を終わらせたのに。 許されて、先を望まれた。 どんな形でもいいから前に進んで欲しいと。 「好き勝手言いやがって。」 それでも少しだけ、昨日より楽に生きれる気がした。
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