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社長は定時にさっさと帰ってしまった。なんでもこれから取引先の社長とディナーがー、ということらしい。高級料亭なんて、どんだけ羽振りがいいのだろうか。そんなに会社の業績が良いというのなら、もう少し業務量を減らしてくれと切に思う。
まだ私の仕事は終わりそうにない。明日また大量のFAXに埋もれないためには、今日のうちに領収書の入力を全て済ませて印刷しておかなければならないからだ。本当に時代錯誤だわ、と思いながら先に帰っていく同僚たちを見送った。
「あ、金田先輩まだ残業ですか?」
新人アルバイトの女性、江口亜季が声をかけてきた。
「本当にお疲れ様です。すみません、先帰っちゃって」
「仕事違うし、江口さんはアルバイトだからそうそう残業させられないわよ、仕方ないわ」
「ごめんなさーい……」
残業で忙しそうな先輩相手に、そう長々と話しかけるもんではない。それくらいわかりそうなものだが、亜季は仕事はそこそこできるものの空気の読めない女性だった。多分本人的には、気が張りつめているであろう私をなごませようとしたのだろうが。
「そうだ、今日来た冷蔵庫!タカマツデンキから借りてきたんですってね。面白い話があるらしいですよお」
彼女はにこにこと笑いながら、そんな話をしてきたのだ。
「あそこでレンタルできる黒い冷蔵庫って、面白い逸話があるらしいんです。休憩時間にちょっとネットで調べてみたら、変な都市伝説できてて笑いました」
「都市伝説?」
「はい。正直者の冷蔵庫、だっていうんです。だからウソツキさんが大嫌いで、ウソツキさんを食べちゃうらしくて!ウソツキさんほどあの冷蔵庫に魅かれちゃうとか、最後は冷蔵庫に食べられて神隠しされちゃうとか!」
「……いくらなんでも突拍子なさすぎでしょ」
忙しかったが、なるほど面白い話ではあった。私は思わず吹き出してしまい、彼女を見る。亜季と、怪談や都市伝説の話で花を咲かせることは珍しくなかった。うちつい興味を引かれてしまう私である。
「昔、殺人犯が死体を隠していた冷蔵庫を洗って再利用してる……なんて噂があるんですー!タカマツデンキさんからするとたまったもんじゃないでしょうけど、それがかえって一部マニアにウケてるのか、タカマツデンキさんの黒い冷蔵庫って人気なんですって」
「まるで事故物件ね。そもそも、死体を隠していたことと、ウソツキが大嫌いってことが繋がらないじゃない。設定不足だわ、もうちょっと丁寧に話作らないと」
「ですよねー」
そして彼女は、ひらひらと手を振って去っていった。
「お邪魔しちゃってすみません!でも、先輩はウソツキじゃないから関係ないですよね!じゃ、また明日ー」
先輩はウソツキでないから。そう言えてしまうのは皮肉なのか、本気で私を正直者だと信じているのか。彼女が消えたドアを暫く見つめた後、私はため息をついた。
「……人間、正直なだけじゃ生きていけないものよ?」
生まれて三十六年。
自他ともに認める美貌で、多くの男と付き合ってきたにも関わらず、未だに私が結婚できないのはそういうことである。
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